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読書感想文的日記を書くことにしよう。

小室直樹を読む  奇蹟の今上天皇 を読む

2010-04-29 11:26:23 | 日記
第三章 将軍は去り、天皇は残った
幕末において尊王思想が日本全国に澎湃とみなぎり・・・・そして明治維新

天皇は江戸において不人気であった。
江戸町民は「東京」に不満であった。明治を「治」まる「明」:おさまるめい と逆さに読んだりした。

江戸城の前に狆ころを描き、「江戸城は狆(朕)には大きすぎる」と讃を入れた錦絵が馬鹿売れした。

「やれやれ皆さん聞いてもくんない、天朝御趣意はまやかしものだよ、高天原ではのど口ぬれない、立派じゃけれどもないしょがつまらん」 羽仁五郎:明治維新における革命および反革命 雑誌「新生」46年正月号参照

人々はこのような「あほだら経」をつくり天皇制を馬鹿にした。


また、

「いわゆる王政復古の当時、一般市民は天皇については殆ど知らなかった。明治元年三月新政府の九州鎮撫総督が管内の人民に発した書には、「この国には、天照大神様からおつぎあそばされたところの天子様というものがござって、昔からちっとも変わった事がない日本国のご主人様じゃ・・・・」と天子様を人民に紹介し押し付けねばならなかった。」
井上清著「天皇制」:東京大学出版会昭和28年 による

「天皇」を「天王」と勘違いした人もたくさんいた。
「天王」はインドにおける最低の神である。「天王」は日本に入りさらに卑俗化し、庶民はインドの原産地にない国産「天王」をたくさん作った。

これらの「天王」は、親しまれていたが、あまり尊敬されてはいなかった。
明治初め庶民は、これは新手の「天王」の一種かと思った。



こんな「天皇」をして、かくぜんたる天皇とした契機は、まず日清戦争の大勝であった。

有史以来中国は日本にとって世界であった。世界最大最強の国であった。
明治以前の庶民の殆どは、世界には日本と中国と天竺の三つしかないと思い込んでいた。
中国は実感できたが、天竺は「極楽浄土」のような想像の国なのか、本当にある国なのかどうかもうひとつ実感できなかった。

そうなると、実感できる中国は日本にとって世界なのであった。

その中国に天皇の軍隊は勝った。海に山に陸に連戦連勝。天皇の軍隊は豊太閤もなし得なかった偉業を成し遂げた、と思った。
庶民は狂喜した。

北京占領こそ断念(庶民感とは別に、明治首脳はヨーロッパ列強の干渉が怖い)したが、日本は膨大な賠償金を手にした。
台湾と遼東半島を手にした。
沖縄帰属問題も解決した。
(それまで沖縄の地位は、はっきりしていなかった。江戸時代に琉球王国は薩摩藩と清の両方へ従う態度であった。前近代ならこれでよかった。
しかし1879年のいわゆる「琉球処分」によって沖縄は日本領土にしていた。が、清はこれを承認していなかった。日清戦争圧勝によってケリがついたのである。)

あれやこれやで日本人(国民意識はまだないが)は狂喜し、天皇の軍隊を賛美した。

そこへ青天の霹靂「三国干渉」
ロシア、ドイツ、フランスの三国が、遼東半島を日本が領有する事は東洋平和に害があるから、中国へ返せと干渉してきた。

三国といっても主体はロシア。帝国主義サンプル国家の要求を拒否でもしたら、当時の日本の実力ではひとたまりもない。

国を挙げて臥薪嘗胆。涙をのんで返還した。

この間ロシアは、北清事変(義和団反乱事件)をチャンスと満州を軍事占領し、日本が清に返還した遼東半島まで奪い取った。

ロシアは満州だけでは満足しないで、朝鮮に入ってきた。


日本は、存亡を賭して戦わないわけにゆかなくなった・・・・・・・・





小室直樹を読む  奇蹟の今上天皇 を読む

2010-04-27 23:15:18 | 日記
第二章 地方巡幸 天皇人気の証明

・・・・・奇蹟は、さらにその意味を深める。
地方巡幸は、前もって発表された時間表通り、ほぼ正確に行われたからである。

ヒトラーがこの話を聞いたら卒倒したろう・・・・・・

ヒトラーは言った。古来暗殺が成功したのは、被害者が時間に正確であったからである。
彼はこの真理を知っていたから、ヒトラー暗殺計画は何回試みられても成功しなかった。

ヒトラーは約束の時間を守った事がなかった。早すぎたり、遅くいつまでもこなかったり。

山本五十六は、あまりにも予定表どおり行動したため、暗号解読され待ち伏せされ16機のロッキードP38に「暗殺」された。
もし彼が一時間でも、いや30分でも狂わせていたら殺される事はなかった。

天皇は、全国くまなく、予定表どおり巡幸した。
一人でも暗殺者がいれば、ほぼ確実に殺される。

しかし、地方巡幸では石さえ投げられなかった。いや、しようと思ったものがいてもできなかった。

この地方巡幸によって、天皇と国民の「信」は確認され、不動のものとなった。

では、読者に問う。
なぜ今上天皇にこのような奇蹟が起こったのか。

カリスマの力である。

天皇の行くところ、戦争で肉親を失ったものも、そうでないものも、歓喜の絶頂。
徳島から洲本へ行く途中では、皇旗が空一面に輝いていた。
北陸の踏み切りで車が止まったとき、民衆は怒涛の如くおしよせてきた。

日本全国いたるところで日の丸が輝き、「君が代」が流れた。

東北のある工場では、従業員の家族の前をお通りのとき、遺骨箱の上に兵隊の写真をのせている若い女性に気付かれ、そばへ近づかれ「どこで戦死したの・・」と話しかけられた。彼女はこの一言で感極まり、かすかに「兄はマニラで戦死しました」と泣き伏してしまった。

陛下も感動され「大変お気の毒だが、明るい気持ちでしっかりやって下さい」と、腰を低く精一杯励まされたが、声も震えていた。

天皇の人格全体からにじみ出てくる誠意がうかがわれるではないか。
今上天皇は言葉で言い表せぬ魅力を持ち、その誠意が一つになって、直接に接する人を勇気づける。

この天皇の人柄が、いやがうえにもそのカリスマの力を助長し、総ての人に親愛と敬意の念をいだかせ、復興の決意をより新たにさせたのである。


これで第二章 天皇人気の証明 は終わります。

次は第三章 将軍は去り、天皇は残った を読みます。


第三章 将軍は去り、天皇は残った

これまで、天皇制は確固不動であり、歴史を通じてその体制はゆるぎないものであったように思っている方がおられたら、それは間違い。

今の天皇制は、幕末から明治維新にかけて日本中を覆った強烈なイデオロギー運動が下敷きになっているのだ。

「神国日本」のイメージは明治政府がはっきり打ち出したものだ。
天皇崇拝が日本社会の隅々まで浸透し、国民の間に根を下ろすようになったのは、「日清戦争」「日露戦争」の圧勝を通じてなのである。

天皇崇拝そのものは、古代すでに「古事記」「日本書紀」に見られた。
それが尊王思想の源流となり、日本史の中を静かに流れていた。

江戸時代になると、その尊王思想は、朱子学の方法論を持って再編成された。・・・・


※このあたりの事情は、「天皇恐るべし」に詳しいのでそちらを参照してください。


幕末になると、尊王思想は澎湃として日本全国にみなぎり、幕府自身でさえもその渦中に巻きこむほどとなった。

しかし、その熱気は武士と富農あたりまでを限度とし、一般庶民にまでは尊王思想は流通していなかった。

元寇の神風を最後に、天皇は将軍の陰に隠れた存在となっていたから、庶民には「天皇の存在感」が無くなっていたのである。

そして明治維新・・・・・ 




小室直樹を読む  奇蹟の今上天皇 を読む

2010-04-26 09:29:35 | 日記
第二章 地方巡幸 天皇人気の証明
ポツダム宣言受諾で日本降伏が決まったが、日本政府は受諾条件に「国体護持」だけを申し入れた。

この条件をめぐってアメリカ政府内の意見は割れていた。
バーンズ国務長官は、条件をのむ必要はないという意見。スチムソン陸軍長官は、日本軍の武装解除を確実にするためにも、日本側条件を受け入れるべし、という意見であった。

議論の末
「日本国の最終的の形態は・・・・日本国民の自由に表明する意思により決定されるべきものとす」と回答された。

日本降伏後、戦後処理はマッカーサーに任されることになった。

天皇制をどうするか、天皇を戦犯指名するかどうかはマッカーサーの掌中であった。

そのマッカーサーのもとへ、日本各地から投書が届き始めた。

ワシントン国立公文書館にファイルされているものから拾い上げると、
「天皇を裁判してはいけません」山形県:長谷部はる子
「天皇制の問題がやかましいですが、天皇制を廃止せねば民主主義にならないというのは間違ってます」広島県:山本利秋
「復員していろいろな事があったが、天皇を守るため私は生きのびるるつもりだ」住所不
  明:ツルミ・ミノルから上海の戦友アマガサキ・タイチロウに宛てた手紙

当時日本の大多数国民は、天皇が戦犯にされたり、廃位されたなら、聖断によって延期された本土決戦を戦って、一億玉砕をする覚悟であった。

マッカーサーに対し日本国民は卑屈ではなかった。

「天皇は守る」といった内容の、住所署名付きの手紙、はがきが続々とマッカーサーの元へ届いたのだ。

敗戦によって、日本は兵を去り、食が去った。
軍備は全廃され、経済は破局一歩手前。食料はなかった。

日本にあるものは「信」のみであった。
この「信」を資産に日本は奇蹟の復興を遂げる。

民は天皇を信じ、天皇は民を信じた。
天皇と日本国民との「信」は奇蹟である。


昭和二十一年二月、神奈川県川崎市の昭和電工工場ご視察を皮切りに、今上天皇は、戦禍にあえぐ国民を慰め、励ますために全国を回られる事になった。

大阪、名古屋では、何千人という大群衆が崩れ、天皇めがけて殺到したため、立ち往生の天皇は靴を踏まれ、ボタンを剥ぎ取られ、警備当局がハラハラしたこともあった。

そんな日は宿舎につくと侍従たちに
「今日も(人波が)崩れたね」と頬をほころばせ、ひどく嬉しそうだった。

どこも戦災でやられている為、宿舎といえば県庁、公会堂、ときに小学校の教室、駅の引込み線で車中泊ということもあった。

こうした、地方巡幸は副産物として、GHQや連合国に天皇の絶大な人気を再認識させる結果となった。

他の敗戦国元首とはあまりにも違うのである。
自殺したヒトラーはさておき、ムッソリーニは民衆に虐殺され、死体は逆さづりにされた。
エマヌエル・イタリア国王は国外追放。長男が即位したが、わずか一ヵ月後に廃位。

まだ記憶の生々しいそれら悲惨な末路に引き換え、日本のみは国民が全国津々浦々で天皇を熱狂して迎える。
連合軍側にはそれが不思議でならなかった。

英国の新聞は
「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望は衰えていない。各地の巡幸で、群集は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。なにもかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている」
と驚きを素直に述べている。

期待を裏切られたのは共産党であった。
・・・・いくら天皇が人気取りにつとめても、必ず人民の反発を買い、失態を晒すに決まっている・・・。
と初めは冷たく嘲っていたが、

まもなく、
「天皇が侵略戦争の最大の責任者であるのに、最近各地に出動し自己の責任を棚に上げて、人民に呼びかけている。天皇のかかる行動は、天皇制護持の旗を掲げ、日本の民主化を挫折させようとする反動政党のための選挙運動に他ならない」
と悲鳴に似た焦燥感をあらわにした。

天皇を恨むもの、天皇の存在を否定するもの。その存在は少ないとはいえ、何十万人もいた。
大衆と体を接するほど近づく事は、要人にとって確実に死を意味する。暗殺を防ぐ事はできないのだ。

天皇は、地方巡幸において群集の中にわけいった。それでも天皇に何事も起こらなかった。

天皇人気が予想外に高いので、日本共産党は悲鳴に似た焦燥感をあらわにし、彼らの親分ソ連共産党もまた、執拗なまでに地方巡幸の中止を要求している。


奇蹟は、さらにその意味を深める。
地方巡幸は、前もって発表された時間表通り、ほぼ正確に行われたからである。

ヒトラーがこの話を聞いたら卒倒したろう・・・・・・



小室直樹を読む  奇蹟の今上天皇 を読む

2010-04-21 14:29:13 | 日記
第一章 なぜ、奇蹟なのか

日本は第二次大戦の戦勝国である、と「小室」分析をしましたが、彼は英仏こそ敗戦国であるといいます。


英国とフランスが1939年昭和14年9月3日ドイツに宣戦布告した。その理由はポーランドにドイツが侵入したからである。
より根本的には、東欧諸国をドイツから守り、デモクラシーを生き延びさせる事であった。

で、この東欧諸国、大戦後どうなった。デモクラシー国家になったか?
ソ連圧制下、呻いているではないか。

さらにおまけがつく。植民地帝国であった英国とフランスは大戦の結果、その植民地をほとんど失った。

おまけは、グリコと違って一つではなかった。
かの国の経済力は日本と桁違いに大きかった。大戦の結果どうなった。
「あとの者さきにならん」贅言を要しまい。

蒋介石はどうなった。

中国に三民主義を成立させる事が彼の政治目的であった。
彼の戦争目的は中国に三民主義を実現させることである。

対日戦争の結果どうなった。日本軍と戦って百戦百敗。国民党の権威は失墜し共産勢力に本国をとられ、台湾に逃げるはめとなった。


最後にアメリカはどうなった。

アメリカの戦争目的は、中国を日本の支配から守り、中国をアメリカの与国にしておくことであった。
アメリカは中国を日本の支配から守ったが、戦後共産化してしまいとんだ思惑はずれであった。

唯一の収穫はアメリカ最大の脅威であった日本をゆるぎなき同盟国にしたことである。
まあ引き分けか。


「本土決戦」はついに行われず、神風も吹かなかったが、神風は戦後まとめてふいた。
真の意味での決戦は、いわゆる戦後に行われた。日本は「神風」に支えられてこの決戦に勝ったのである。


なぜかくも奇蹟が起きたのか。
根本理由は、終戦時における天皇の「聖断」であった。

昭和20年八月。
日本はB29の猛爆にあい息も絶え絶え。そこへ原爆を落とされ、ソ連も参戦。軍部は本土決戦を叫び、国民は一億総玉砕を覚悟。
アメリカは日本屈服まで、数百万人のアメリカ青年の血が必要だと考えていた。

一億玉砕か降伏か
議論は紛糾に紛糾を重ね果てしない。

争点は、降伏したとき国体(天皇が元首として統治権を総攬する、という日本の国柄)は護持できるか出来ないか、であった。

日本降伏によって天皇の地位がどうなるか、まったく予測できない日本首脳はその機能を失い収拾がつかなくなった。

日本政府は統治能力を失った。


ここに天皇の聖断

「国がらをただ守らんといばら道 すすみゆくともいくさとめけり」(今上天皇御製)

天皇は国体護持できようが、できまいがこれ以上国民を殺すべきではないと決断した。

ポツダム宣言は受諾され、戦争はおわった。


そして日本政府と軍部は天皇の意をくみ、整然と降伏。
これは奇蹟である。

政治権力の断末魔において、世界史を見れば判るが、誰もかつての権力者の言う事を聞かなくなる。
不服従、裏切り、反乱・・後から後から起こって混乱に拍車をかける。

イタリア独裁者ムッソリーニはその末期、突然罷免され幽閉。「ファシスト大会」も彼の意のままにならなくなっていた。
ドイツ独裁者ヒットラーもその末期、暗殺計画や暗殺未遂が相次ぎ、軍隊は彼の命令を聞かず勝手に降伏。最後の局面ではナチストップリーダーたるゲーリングやヒムラーまでもそむいた。

ムッソリーニやヒットラーだけではない。政権末期における権力者への反抗は有史以来、古今東西を問わず歴史の鉄則である。

ロマノフ王家の最後の悲惨さは言うに及ばず。
中国の明王朝の皇帝毅宗の場合、明軍主力が清軍に備え山海関方面に行っている隙をついて
暴民李自成が北京に迫った。このとき皇帝は自ら非常鐘をならし抵抗しようとしたが一人も来ない。
毅宗皇帝は泣き、ああ天子の家なんぞに生まれてくるのではなかったと嘆き、皇女を殺して自殺した。政府高官は李自成に土下座して迎え、万歳と歓呼。

こんなもんである。

歴史上の例で鑑みると、今上天皇の「聖断」は奇蹟である。

天皇の権威が最後まで失われず、政府と軍がこれに従う奇蹟。そして、そのことが戦後の経済発展という、もう一つの奇蹟を生み出したのである。

何故にかくのごとき奇蹟が起こりえたか。
その理由を解明し、その過程を論じていく事にしよう。


これで第一章は終了します。
次は
第二章 地方巡幸 天皇人気の証明  を読みます。





小室直樹を読む  奇蹟の今上天皇 を読む

2010-04-20 09:00:39 | 日記
第一章 なぜ、奇蹟なのか

前回は敗戦によって国防問題が解決された、という「小室」分析でした。
次に、第二の戦争目的「アジアの解放」を「小室」分析します・・・・

無謀なる「インパール作戦」は何ゆえ発動されたか。
セバス・チャンドラ・ボースのインド解放軍を、インドに送り込むためであった。

インパール作戦は結果的には失敗であったが、この作戦がインド解放のために果たした役割は大きい。
ボースのインド解放軍は戦後、利敵行為によって裁判にかけられた。その公判廷で彼らは口々に主張した「我々が主体であって、日本軍は援軍に過ぎない。インド独立のために戦ったのであって、日本のために戦ったのではない。ゆえに利敵行為ではない」と。

アジア諸国が独力で解放を勝ち取れなかった最大の理由は、白人に絶対勝てないと思っていたからである。

日本軍が英国東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈し、マレー半島を席捲、英国の東洋拠点シンガポール対岸に迫ったときですら、シンガポール在住のアジア人で、シンガポールが陥落するなどと思ったものは一人もいなかった(ノエル・バーバー著「かくてシンガポールは陥落した」)

アジアの人にとって、英国軍が敗れるなどという事を実感するなど不可能であった。
この裏返しとして、英国人は植民地人とくにアジア人に負けるなどは考えてもみない。

しかし
シンガポール攻略戦の時、山下兵団の三倍の兵力を有する英国軍は日本の進撃を阻止する事ができなかった。

チャーチルは言った「英帝国が終焉した理由は、英国軍がアジア人の目の前で日本軍に惨敗したからである。一度落ちた権威をもう一度掲げる事など出来ない。英国軍は戦後も依然として強力であった。しかし、人々は英国軍がアジア人に負けるのを見てしまった」

ガンジーが無抵抗主義を貫いたのも、英国軍にはかなわないと思ったからである。
ベトナム、インドネシアなど大多数のアジア植民地人は日本国すら知らなかった。

大東亜戦争で日本人という顔つきが自分らと同じようなものが、ある日突然攻めてきて、神の如く強いと思っていた白人を攻撃し、たちまち蹴散らした。

白人も万能でない事がよくわかった。

ベトナム戦争とき、あるベトナム人は筆者に「日本軍がフランス軍を一日で武装解除したのを見たとき、白人はこんなに弱いのかと覚った」と語った。

インドネシアが独立戦争を起こし、オランダを駆逐できたのも、同じ理由による。
300年以上「蘭印」を支配してきたオランダ軍は、インドネシア人の目の前で、侵攻してきた日本軍の前に見る見る壊滅。

白人不敗の神話が崩れ、それによって生じた権威の失墜はどうしようもない。

アジアから始まった民族解放は、アフリカ、中近東へと全世界に及び、植民地帝国時代は終焉した。

大東亜戦争第二の戦争目的たるアジア民族解放は、完璧以上に達成された。

戦争目的達成を持って戦争に勝ったと定義すれば、大東亜戦争は、空前の圧勝によって終わったといわざるを得ない。

・・・・・と「小室」分析し、次に 英仏こそ第二次世界大戦最大の敗戦国と分析します。



戦後のアジア諸国独立解放における、日本の果たした役割は「白人の権威を失墜させた」にあったということですか。しかし、このことと日本完勝とは直接関係がないと思われますが・・・

次回は 英仏こそが敗戦国だと、「小室」分析されます。