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読書感想文的日記を書くことにしよう。

小室直樹を読む  天皇恐るべし を読む

2010-02-18 17:36:57 | 日記
今回から
小室直樹著 天皇恐るべし  発行ネスコ 発売文芸春秋 1986年刷
を読みます。

前回で 「天皇」の原理 の紹介は終わりました。
しかし、山崎闇斎学派の「崎門の学」展開過程が中途半端に終わりましたので、補足の意味で今回から 天皇恐るべし を紹介します。

本書の目次から
 1.日本の夜明け、天皇は神であった
 2.神は正統性を定める
 3.教育勅語にこめられた革新
 4.キリスト教の論理
 5・儒教の論理
 6.天皇はキリスト教的神である
 7.天下大乱
 8.日本皇道の失墜
 9.摩訶不思議なるもの
10.天皇が秘める深淵
です。

1から6までは 「天皇」の原理 にも同様な内容が述べられてますので、「天皇恐るべし」を読むにあたって今回は省略します。

「崎門の学」展開過程についての説明は第七章から始まります

7.天下大乱

この章は、「天皇」の原理 の最終章に少し紹介された、水戸学派栗山潜鋒の「保建大記」をテキストに古代天皇イデオロギーの没落を語ります。

水戸学派栗山潜鋒の「保建大記」は小室直樹本人も高く評価しています。
小室は語ります・・・

著者が「保建大記」を高く評価するゆえん。それは、優れた社会科学書であるからだ。

この書を、独訳、仏訳、英訳して、ヴェーバー、デュルケム、パースンス(通常パーソンズと読まれるが小室はパースンスと読む。彼はハーバードでじかにParsonsから教えを受けているので、彼の読みを正とします)達に読ましても、同様に高く評価するはずだ。

彼らは、この時代にこの書あるかと驚嘆し本書を絶賛するであろう。とまで小室は評価しています。

時代背景を挿入しつつ「保建大記」を紹介しよう。

ストーリーは崇徳上皇から

崇徳上皇こそは古代平安朝を滅ぼし、それを大日本帝国に変換させた人物である。

王政復古の大号令で明治維新が開始された。
その王政復古のわずか八ヵ月後、まだ天皇は元服もしていなかった、年号も「明治」にはなっていなかった、五箇条のご誓文も誓われていなかった、そんなにも早い時期。

慶応四年1868年八月二十五日。勅旨大納言源道富一行は讃岐へ向かった。

崇徳上皇の神霊を京都へ迎えるために。
なぜこの時期に崇徳上皇をむかえる。

新生日本の朝廷がまず成した事は、崇徳上皇の憤りをなごめること、恨みをとく事、であった。

崇徳上皇に京都へおかえりいただくことであった。
これぞ何よりにも優先して為されるべき事であった。

そも、何者ぞ崇徳上皇。

時代は平安朝末期
保安四年1123年正月 鳥羽天皇は皇太子顕仁に位を譲った、崇徳天皇である。時に五才。
当時白河上皇がいまだ政治権力を握り、堀川、鳥羽、崇徳の三代43年にわたり院政を執っていた。

この白河上皇が大治四年1129年に崩御。
ここから皇室内がごたごたし始める。

白河上皇亡き後院政を執ったのが鳥羽上皇。

この上皇、スケベで有名。といってもその当時の上皇はたいていスケベ。

崇徳に譲位した後、剃髪して法皇(僧侶となった上皇)になった。
しかし法皇となり宗教に没入したところでスケベ心はおさまらない。

この鳥羽上皇のお気に入りが美福門院。彼女の言う事なら何でも聞くほどメロメロ。
この美福門院が皇子体仁(ナルヒト)を保延五年1139年に生んだ。

鳥羽上皇はこの皇子を天皇にしたいと思った。美福門院もヤイヤイつつく。
ついに永治元年1141年12月、いやがる崇徳天皇を無理やり退位させ、体仁(ナルヒト)皇子が即位した。

近衛天皇である。ときに三才。

そして、退位した崇徳天皇はまだ、二十三才。
彼は五才で即位し二十三才で退位した。
青年上皇の出来上がり。

崇徳天皇は退位して崇徳上皇になったが、院政は父である鳥羽上皇が引き続き執る。

崇徳上皇は失業上皇。
この失業上皇ほど危険な存在はまたとない。

古代天皇システムは彼により爆破され吹き飛ぶ事となる。

「保元の乱」である。

それは、いかなる経過をへて形成されたか・・・・・