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小室直樹を読む  奇蹟の今上天皇 を読む

2010-05-07 11:18:44 | 日記
第四章 日本人は「天皇教」だ
※小室のこの主張について異論が多いと思われますが、まずは彼の論理を拝聴。

戦前、戦中、天皇は宗教であり、イデオロギーでもある。
天皇信仰の強烈さは、ルバング島の小野田少尉とグアム島の横井伍長の例を想起しただけでも思い半ばに過ぎよう。

私がフィリピンにいったとき、たまたま話題が小野田少尉のことに及んだ。
「日本兵はジャングルの中に住めるんだから凄い。こんなことは、フィリピン人やアメリカ人には想像もできない。密林の中に30年も生きているなんて、実際に起きていなかったら荒唐無稽の物語と思うだろう。」とフィリピン人はこういって驚いた。

小野田・横井両氏の思想と行動は、世界史的大事件である。

このことがもつ、真の意味を理解するためには、蘇武と比較してみるとよい。

蘇武とは、どんな人物か
蘇武は漢の武帝のとき、漢の大使として匈奴に赴いた。

匈奴の王が講和を持ちかけてきたためである。しかし和議は成立しなかった。
すると、匈奴は蘇武を無法にも、拘束した。

匈奴の王、単于(ぜんう)は蘇武の人物を見込み、「我がほうに投降したら、地方の王にしてやる」と盛んに勧めた。
蘇武は当然断る。いくら強要しても駄目であった。

単于は怒り、彼をバイカル湖の近くの荒野に抑留した。原始生活が始まった。
蘇武は、この間19年氷雪に耐え、漢の節(節とは使者のしるしとして皇帝から与えられる旗竿)を持っていた。

残された、蘇武の一家は離散。妻は再婚していた。

漢の武帝が崩御し、昭帝が即位したころ、蘇武は名案を思いついた。
雁にSOS通信をつけて放したのだ。

昭帝が上林で狩をしていたとき部下がその雁を捕まえ、SOS通信が結び付けられているのを昭帝に報告。(消息・貴重なことを伝える手紙を雁書という出典)
蘇武は生きていることが判った。

それまで匈奴は「蘇武は死んだ。蘇武問題は解決済み」といっていたが、それじゃ仕方がないと、蘇武を送還した。

蘇武は19年ぶりに漢の都長安に帰った。
以来中国では蘇武を義士として誇り、文天祥は「漢にあっては蘇武が節」と讃えた。

19年にも渡り、囚人生活以下の原始人生活を送った、蘇武の持つ儒教イデオロギーがこのように重大な意味を持つのであるなら、横井・小野田両氏の場合ならどうなる。

蘇武19年。小野田氏30年、横井氏28年である。

さらに重要な点は、小野田氏、横井氏は一般人であることだ。
一方、蘇武は大使である。中朗将という政府高官である。皇帝と国家に対する責任は大きく、またそれだけの待遇も受けている。その分、支配階級の人の責任はすこぶる大きい。

小野田元少尉は密林から出てきたときの態度が、あまりに堂々としていたから「エリート軍人」と書き立てられたが、彼はエリート軍人ではない。

海南中学を出て「田島洋行」で働き、漢口方面で活躍していたいわばサラリーマンだ。
昭和17年に二等兵として入隊したが、彼はかなり優秀だったようで、一年後には甲種幹部候補生になり伍長に昇進している。

しかし、だからといって小野田氏は陸軍のエリートではない。陸軍のエリート・コースは陸軍士官学校を出て、陸軍大学校を卒業してなければならない。

まして、天皇から印をもらい特殊任務についたわけではない。

彼はエリート意識で、その任務についていたのではない。ここが重要なのだ。
まったく普通の人が30年間も降伏することなく、アメリカと戦っていたのだ。

横井氏も同様である、彼は入隊前は仕立て屋であった。まったく普通の日本人である。
その彼が、虜囚よりも原始人の道を選び、グアム島で28年間頑張ったのである。
「天皇陛下のために28年間生き抜いてきました。大和魂を信じていました。必ず日本軍がもう一度グアム島にくると・・・」

横井氏は天皇を信ずる事によって、頑張り抜けたのであった。


この小野田氏、横井氏こそ「天皇教」の徒である。



ここから小室のいう「天皇教」についての解説が始まります。

まずは、・・・・天皇教のための禁欲(アスケーゼ)をつくりあげる修道院的役割を日本の軍隊が担った・・・・から語ります。