gooブログはじめました!本棚の本 片っ端からもう一度読むのだ

買ってきては読まずの積読者が一念発起!!!
読書感想文的日記を書くことにしよう。

小室直樹を読む 「天皇の原理」を読む

2010-02-03 10:56:12 | 日記
第六章 日本における「法」の不在
日本型仏教「浄土真宗」とキリスト教はどちらも「信仰あるのみ」が基本教義。
ここで、あわてものは「浄土真宗とキリスト教はどちらも同じですな~」としたり顔。

小室はこれを題材に両者を比較検討します。

親鸞聖人は断言する
「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべしと、よきひと(師法然のこと)のおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり・・・」 歎異抄第二章

聖書を読んだ人なら、パウロを思う。

パウロは言う
「イエズスは主であると言い、心の中で神がイエズスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる・・」 ローマ人への手紙 第十章ー9

神の恵みにより救われる・・・これを浄土真宗信者が読めば、救いが神の本領だなと頷く。

阿弥陀如来は人間の罪を消し必ず救い出す。人間のほうから救われたいと努力しなくても信ずれば救う。

親鸞はいう
末法五濁の有情の 行証かなはぬ時なれば 釈迦の遺法ことごとく 龍宮にはいりたまいき
・・・・・末法時代にどんな修行をしても悟りを開くことはない・・・・・正像末和讃より

さらに告白していう
「悲しいかな 愚禿親鸞 愛欲の広海に沈没し・・・真証の証にちかづく事をたのしまざることを 恥ずべし 傷むべし」   教行信証より

パウロはいう
「私の内にすなわち私の肉に、善が住んでいないことも知っている」 ローマ人への手紙  第七章-18

つまり
人間はいくらよい事をしようと思っても、まったく無駄であると。人間はそのように出来ているのだ、と。

人間は、その行為により救われることは絶望的!!!! 親鸞もパウロも同意見
ここまでは・・・・

どこが違うか 救われかたが違う

浄土真宗   阿弥陀如来から一方的に救いがくる
キリスト教  神から「予定」されたものが信者となり、「神はイエスを死から蘇らせた」       と信ずるものを救う

条件付と無条件
キリスト教には人間側に救われる条件がある。
法然、親鸞の教えには人間側に救われる条件はない。

悪人であろうと善人であろうと阿弥陀を信仰すれば救われる。無条件。これが決定的。

さらに重大なことは

よく知られているように、日本でもっとも活動的宗教団体は日蓮宗あるいは日蓮の影響を受けた団体であり、法然、親鸞の浄土宗、浄土真宗は日本最大の宗教団体である。

これら宗教団体の開祖、宗祖である日蓮、法然、親鸞達の行った布教活動の一面として、仏教から戒律を全て抹殺したこと。これである。

つまり
戒律・・・「法」・・・の考え方を日本人の内から抹殺したことになった。

日本でもっとも普及した宗教が、戒律を消し去った・・・・・
このことによって
日本人が「法」の論理を使えなくなった・・・・彼らの意図せざる結果として・・・・

小室の結論

日本における「法の不在」は、日本人の生活に浸透している仏教から戒律を全て取り去ったことにより「法」論理の考え方が出来なくなったことによる。


う~んそういうことか。日本人の実感として、法は生活と関係ないし、すぐ法を持ち出す奴は嫌な奴と決め付ける。
こういった感覚は、生活と密接な関係を持つ宗教に「法の不在」があるからか・・・・
妙に納得した次第。

これで第六章 日本における「法の不在」 は終わります。

次に小室は 
第七章 天皇と日本 に移り、いよいよ天皇システムの分析に入ります・・・・・

さて、小室の天皇論や如何。