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小室直樹を読む  天皇恐るべし を読む

2010-02-26 22:37:25 | 日記
第九章 摩訶不思議なるもの


保元の乱によって、名行は振るわず、皇道は失墜して世の中は一変した・・・・
までが前章でした。

今回から第九章を読みます。


その契機をつくった崇徳上皇はどうなった。

しばらく仁和寺に幽閉され、戦後処理の結果讃岐に流される事になった。

この崇徳上皇は、栗山潜鋒の論ずるところだけを読むと、不道徳で、臆病で、卑怯で、いいとこなしの人物であり、歴史に足跡を残すような人物とも思えない。

しかし
崇徳上皇の真の活動は、讃岐遠流から始まる。
終ったと思った時から、彼の真の人生が始まった。

保元元年1156年七月 仁和寺を出発して八月讃岐松山についた。
ここで三年過ごした後、志度の鼓が岡に移り、ここに六年住んだ後、
長寛二年1164年八月四十六歳で崩御した。

上皇は、いつか京都に帰れるものと考えていた。
しかし、待てど暮らせど赦免の知らせは来ない。

京都に帰れないと悟った崇徳上皇は写経をはじめた。
ただ写したのではない、自分の血で五部大乗経を写した。

五部大乗経とは「華厳経」「大集経」「大品般若経」「法華経」「涅槃経」この五つをいう。

「華厳経」だけでも読破は大変。
「大品般若経」はそれよりもっと大変。僧侶はこれを読破すると、わざわざお祝いをした。

これに、さらに三つのお経が加わる。

読むだけでも大変なこと。それを崇徳上皇は自分の血で書き写したという。
崇徳上皇の執念、怨念いかほどか。

この執念、怨念によって、崇徳上皇は大魔王のトップとして永く人々を戦慄させることになる。

さて、
平治元年1159年 五部大乗経の写経終了。
崇徳上皇はこれを仁和寺門主覚性法親王に送り、安楽寿院に安置をたのんだ。

覚性法親王は後白河上皇に、この願いを聞くよう奏上した。
後白河もその気になった。

ところが、少納言藤原信西入道がこれに強く反対。

「崇徳上皇は讃岐にいるのに、このような血書写経だけを京都に帰したいとは・・」
「この写経には呪詛が込められている・・・」
 こういった。

そのため血染めの写経は、崇徳上皇に返却された。

崇徳上皇は怒った
「後白河は保元の乱を根に持って、わしを許そうとしない。この写経は懺悔のために書き、目的は冥福にある。それを都から返してくるとは何事ぞ」

上皇は、舌を噛みその血で写経の各巻に本当に「呪詛」の誓文を書き付けた。

曰く
「願わくは、大魔王となりて天下を悩乱せん。五部大乗経を以って、悪道に廻向す」と。

五部大乗経を写すことは、大変な功力がある。その功力全てを、悪道に向けようとするのだ。


その悪道の内容とは、
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」
「人の福を見ては禍とし、世の治まるをみては乱を発さしむ」

つまり
幸福なものを不幸にし平和を乱してやる。革命を起こし君と民を入れ替えてやる。

これが大魔王崇徳上皇の「呪詛」である。


五部大乗経は無限の威力を持つ。その五部大乗経を全部血書した崇徳上皇は無限の威力を持つ。

崇徳上皇の誓願は必ずかなえられる。人々はそう確信した。思っただけでもぞっとした。

写経を突き返された後の崇徳上皇は、髪は伸び放題、爪も切らない。衣服も着替えない。
常に歯軋りをし、目をいからせ、痛み悩んでやせ衰え、骨があらわれていた。



そして、長寛二年1164年八月四十六歳で崩御した。


崩御後の崇徳上皇はどうなった・・・・


「太平記」に、世にも不思議な物語が記してある・・・・・・








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2010-02-25 10:52:14 | 日記
第八章 日本皇道の失墜
保元の乱はわずか一日で決着がつき、後白河・関白忠通派の完勝。

敗北した崇徳上皇は仁和寺に幽閉されていた。

小室は「保建大記」をたたき台にして先に進む。

保元の乱後の倫理破壊はさらにすすむ。
敗戦後、
崇徳は幽閉
頼長は流れ矢にあたり死亡
源為義、平忠正は自首してきた

後白河派の戦後処理は厳しいものとなった。

清盛は 「叔父」忠正を死刑にした。
これはライバル源義朝を倫理破産させる陰謀であった。

死刑にするほどの事でもない「叔父」忠正を死刑にする事で、平家のけじめをつける。
すると、ライバル源義朝は 「父」為義 を死刑にせざるを得なくなる。

義朝は天皇に「父」の助命嘆願をした。
天皇は許さなかった。

義朝は郎党鎌田正清に命じ、「父」為義を殺させた。

これにより、義朝は父殺しの倫理破産人となった。
それと同時に父殺しを命じた朝廷もまた倫理破産した。

栗山潜鋒は論じていう

義朝が保元の乱において、父と敵味方に別れ戦ったのは、朝廷のためにしかたないことであった(義朝、勤王の日に当たりて、父に抗せざるを得ず・・)

しかし、戦乱が収まり父が自首してきたときに、父を殺すという道はない。
天皇がどうしても殺せといった時、なぜ勅命に抗し自分も共に死刑にならなかったのか
(禍乱既に平らぎ、其の父、我に帰す。なぜその子従りて之を殺すの道有らんや。君命に方い、与に倶に死刑といえども可なり)

小室はこれを受け
鳥羽上皇が「天倫の序」を蹂躙したことで、根本規範が解体した。
皇位継承を乱した事で、皇位という国の根本が揺らいだ。

その結果あらゆる倫理が融解をはじめた。
その現われが「保元の乱」であり、その戦後処理における人倫破壊である。

義朝の父殺しは、すでに骨がらみになっていた急性アノミー(根本規範の融解)の象徴的現象である。

栗山潜鋒は論じていう
国が滅びようとしている時には、正大はしぼみ、人々は道徳を忘れる。義朝が父をかばいきれなかったのも、この理由による(蓋し、邦まさに廃せんとするや、正気萎惰し、人心道をわする。)

北畠親房もその著書「神皇正統記」で論じて

義朝は、先祖代々朝廷に仕えた武士である。保元の乱の戦功もおおきい。
朝廷がその義朝に父の首を斬らした事は大変な誤りである。

今まで、中国にも日本にもこのような例はなかった。
 この誤りにより、天下の名行がやぶれた(規範が解体した)。

保元・平治の乱以来、天下が乱れ内乱が盛んになり、皇位は軽くなった。
いまだ太平の世にかえらないのは、この名行が破れたからである。

・・・と

「天倫の序」の乱れにより国の根本規範が揺らいだ。
その結果人倫が融解を始めた・・・

第八章 日本皇道の失墜 はここで終わります。

次ぎは 第九章 摩訶不思議なるもの を読みます





小室直樹を読む  天皇恐るべし を読む

2010-02-24 10:43:37 | 日記
第八章 日本皇道の失墜
鳥羽上皇崩御。崇徳上皇は当然鳥羽宮に駆けつけた。ところが鳥羽宮の役人によって追い返されるという屈辱的な仕打ちを受けた。

崇徳上皇の怒りは髪を逆立て天を突いた。
崇徳・頼長同盟は軍事行動を起こした。

「保元の乱」である・・・・

敵対関係を少し整理すると

崇徳上皇 対 後白河天皇  兄弟関係
藤原頼長 対 藤原忠通   兄弟関係
源為義  対 源義朝    父子関係
平忠正  対 平清盛    叔父甥関係(忠正が叔父さんにあたる)

となる。これで判るように、父子・兄弟・叔姪相分かれての紛争であった。

話をすすめる

崇徳上皇派の藤原頼長は直ちに、源為義を召集した。
為義は義朝以外の息子を集め馳せ参じた。

この崇徳上皇派に馳せ参じた源氏の中に源為朝もいる。

この為朝の強さは、当時の武士で知らぬものはない。まさに無双。
たとえば、弓の張りの強さ。
一人張りが通常。二人張りとなると剛の者といって、めったにいない。三人張りとなると引けるものがほとんどいなくなる。

ところが、為朝は八人張りの弓を引く。

ワイヤーロープを張ったような弓である。
しかも百発百中。

こんな男が崇徳上皇側についた。
一騎当千とはこのこと。

そこで崇徳上皇派の司令官頼長が為朝に彼の作戦を聞いた。

為朝答えて
今夜直ちに夜襲をかけ、三方に火を放ち一方を攻めれば勝負はすぐ決まり当方の勝ち。

ところが、頼長はその教養が邪魔をしたか、そのような下品な戦いは上皇のすることではない、と却下。

為朝はこれを聞き嘆いた。
後白河派の兄義朝は必ず夜襲をかけるに違いない。この戦は敗北だ。

案の定、後白河派が夜討をかけてきた。

ここで少し寄り道をして「保元物語」から、この場面を語ります。

保元元年7月11日午前4時
後白河派の平清盛、源義朝連合が崇徳上皇の立てこもる白河殿を攻めた。

平清盛は西門攻撃を担当
清盛が西門で、「我こそは・・・」と呼ばわり、相手になってやるから出て来いと格好をつけた。

そこに登場した源為朝
「ここを固め候者は、清和天皇九代の後胤、鎮西八郎源為朝なり」
と返答。

清盛、真っ青。えらいのに当たったと思ったかどうか・・・

戦わずして逃げるわけにもいかず、郎党の伊藤五と伊藤六を出した。
結果は・・・

為朝の矢がミサイルのように飛んできた。
伊藤六を貫き、伊藤五を馬の鞍に突き刺した。

清盛はあわてて退却。
清盛に代わって源義朝が西門へ向かった。

さすがの為朝も兄を射殺すには忍びない。

為朝は狙いを少しはずし、兄義朝の兜の星を吹き飛ばした。義朝は失神寸前。

義朝は普通に戦っていたのでは為朝に勝てない、と思い火攻めの計に転じた。
白河殿は黒煙につつまれ、崇徳上皇派は総崩れとなった。

そして・・・
藤原頼長は流れ矢に当たり死亡。
崇徳上皇は仁和寺に逃亡し命乞い。
崇徳上皇に付き従う源為義等武士達は、上皇から恭順の邪魔になるといわれ解散。

後白河派の完勝となった・・・・・



栗山潜鋒は、この上皇の行動に容赦なく筆誅を加える。

上皇が天皇を攻めるということは、考えの及ばないほど不倫なことである。
上皇が髪をそり、降伏したのは非を悔い改めたのではない。
ただ命が惜しかっただけだ。

これほど恥知らずな行為はない。

天皇・上皇の行動における倫理性の欠如。「保建大記」における第二のテーマである。

かくも、倫理性を欠く天皇・上皇が何ゆえ絶対でありうるのか。いや、絶対でないといけないのか。

その証明こそ小室の中心テーマである・・・・・・










  

小室直樹を読む  天皇恐るべし を読む

2010-02-21 16:00:24 | 日記
第八章 日本皇道の失墜
鳥羽上皇と関白忠通は「天倫の序」を乱した。
近衛天皇崩御により後白河に皇位を継がせ、弟から兄へ皇位継承順位を逆流させた。
同じ兄でも崇徳上皇であれば、鳥羽上皇第一子であるから、好ましくないといっても「天倫の序」の乱れとまではならない。

本来なら崇徳上皇の皇子に継がせるべきであろう。これであれば父子相続の継承は保たれた。

さあ天下大乱の予感・・・・

第八章 日本皇道の失墜 を読みます

すでに挙げた倫理犯罪人「関白」藤原忠通。
この忠通に弟がいる。

藤原頼長である。
ウルトラ秀才であった。

この頼長
18歳で論語と史記を全部読み記憶した。
19歳で漢書を読み記憶した。
21歳で後漢書、書経、詩経、荘子を読み記憶した。
読んだものはすべて記憶した。

23歳のとき豁然として、今まで中国の学問ばかりしていたが、これでは朝廷に対し忠義を尽くすに十分でないと悟り、日本の学問も研究した。
そしてたちまち、大家となった。

これほどのウルトラ秀才であった。

父である前関白太政大臣藤原忠実は、兄関白忠通より弟ウルトラ秀才頼長をかわいがった。
そのため、出世も早かった。

11歳で少将 13歳で権中納言 15歳で権大納言 16歳右大将 17歳内大臣 
まさにエリートコース。超スピード出世。

「大臣」といっても近頃の二十数名もいる大臣と値打ちが違う。
当時大臣はわずか四名。

太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣。
このうち太政大臣は「則闕の官」といい、ふさわしい人物がいなければ欠員でもよい。

このくらい大臣の価値が高い時代であった。
その内大臣に頼長は17歳で就任。
さらに、30歳で左大臣にまで昇った。

後は関白になるだけ。ところが関白は兄忠通がすでに就任している。

忠通と頼長兄弟の父前関白太政大臣藤原忠実は頼長がかわいくてしょうがない。
関白職を頼長に譲れと兄忠通に要求したが、当然拒否。

そこで父忠実は忠通の「氏の長者」を忠通から取り上げ頼長に与えた。

関白職は公職であるから父の一存ではどうしようもない。
しかし、「氏の長者」は一門の統括最高責任者であるから、公職ではないので一門の同意があればどうしようと一門の勝手。

しかし、藤原一門は当時政治の責任者。

「氏の長者」が最高政治責任者を兼務するのが自然なかたち。

例えて言えば、自民党総裁が総理大臣を兼務(2010年現在であれば民主党代表が総理大臣を兼務)するような関係。

それを、兄が「関白」で弟が「氏の長者」。
不自然極まりない。

頼長も自分のほうが兄忠通より優秀だと思っているから「氏の長者」だけでは不満。

この不満分子頼長に、同じ不満分子崇徳上皇が結びついていた。

崇徳・頼長同盟である。
この同盟に強力な軍事力もついていた。「源氏の棟梁」源為義である。


そしてついに嵐がおきた。

久寿二年1155年近衛天皇崩御、後白河即位。
その翌年
保元元年1156年鳥羽上皇崩御。

鳥羽上皇崩御。ただちに崇徳上皇は鳥羽宮にかけつけた。
ところが鳥羽宮の役人は崇徳上皇を追い返した。

崇徳上皇の憤懣は極点に達し、崇徳・頼長同盟の軍事行動が作動を始めた・・・・・





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2010-02-20 08:44:27 | 日記
第七章 天下大乱

崇徳天皇が皇位を奪われ、鳥羽上皇と美福門院とのあいだの皇子体仁(ナルヒト)親王が3歳で即位した。近衛天皇である。
永治元年1141年の冬であった。

崇徳天皇は23歳で上皇にまつりあげられた。しかし実権は鳥羽上皇が握ったまま、為す事も無く過ぎた。

それから14年・・・突然近衛天皇が崩御した。宝算17歳。
近衛天皇は皇子も無く崩御した。

崇徳上皇はまだ37歳。ほくそえんだかどうか・・・


皇位継承は当然鳥羽上皇第一子である崇徳上皇が再び継ぐか、彼の皇子重仁親王に継がせるしかない。

ところがここに出てきた美福門院
「わが子近衛天皇が死んだのは、崇徳上皇が呪詛したからです」と鳥羽上皇に訴えた。

鳥羽上皇は美福門院にメロメロ。美福門院のいいなり。
「なにお小癪な崇徳め」といったかどうか。皇位継承レースから崇徳は外された。

皇位を継いだのは、鳥羽上皇第四子雅仁親王であった。後白河天皇である。
美福門院の強い推薦があった。

この人選に公家さんも世人も驚いた。後白河誰?
まったく評判になったことのない親王であったからだ。

しかし、驚きのより根本的な理由は、その相続順序であった。

栗山潜鋒は力説する・・・・
以下「保建大記」を意訳

「皇位ほど貴いものは無く、天人これにすがり生きていける。ゆえに皇位継承順序ほど大切なものは無い。
 それを鳥羽上皇は恣意的に一婦人の意見によって皇嗣を決定した。
その上、関白忠通までもが美福門院に諂い、こんな暴挙に賛成した・・・」
「皇位継承は天倫の序によって決められるべきで、恣意的に決めるものではない・・」

これが「保建大記」のテーマの一つである。

栗山潜鋒のいう「天倫の序」とは、長子相続法のことである。

長子相続とは相続順位が、父子相続を基本として、兄から弟へ、姉から妹へと順位が一義的に決められていることをいう。

鳥羽上皇から崇徳天皇の相続は、父(実父かどうかについては異論もある)から第一子相続である。

崇徳天皇から近衛天皇は、第一子から第八子、兄から弟への相続である。

それが近衛から後白河は、第八子から第四子への相続となり「天倫の序」が崩れる。

皇位継承は日本の根本規範である。
この根本規範が天皇家自らによって壊された。
しかも政権を支える関白(関とは:あずかる 白とは:もうす の意)忠通までもが共同謀議するとは。

栗山潜鋒の追求が始まる
「自分の家を自分で壊すということであれば、他人がこれを止めさせることは出来ない。
 自壊する国は、人の力でとめる事は出来ない」

これが潜鋒の「保建大記」の要諦である。
彼はいう
「歴史の本を読んできて、ここのところへくると、本を閉じたくなる。涙があふれてどうしようもなくなる。こういうことは必ずしも昔の仁人志士だけではない・・・」

皇位継承という国の根本規範が崩壊した。
その他の規範もつぎつぎと融解するだろう。

自壊する国は、人の力で止めることはできない・・・・

社会は大混乱する・・・・・・・

第七章 天下大乱 はこれで終わります

次回は第八章 日本皇道の失墜 を読みます。