第九章 摩訶不思議なるもの
保元の乱によって、名行は振るわず、皇道は失墜して世の中は一変した・・・・
までが前章でした。
今回から第九章を読みます。
その契機をつくった崇徳上皇はどうなった。
しばらく仁和寺に幽閉され、戦後処理の結果讃岐に流される事になった。
この崇徳上皇は、栗山潜鋒の論ずるところだけを読むと、不道徳で、臆病で、卑怯で、いいとこなしの人物であり、歴史に足跡を残すような人物とも思えない。
しかし
崇徳上皇の真の活動は、讃岐遠流から始まる。
終ったと思った時から、彼の真の人生が始まった。
保元元年1156年七月 仁和寺を出発して八月讃岐松山についた。
ここで三年過ごした後、志度の鼓が岡に移り、ここに六年住んだ後、
長寛二年1164年八月四十六歳で崩御した。
上皇は、いつか京都に帰れるものと考えていた。
しかし、待てど暮らせど赦免の知らせは来ない。
京都に帰れないと悟った崇徳上皇は写経をはじめた。
ただ写したのではない、自分の血で五部大乗経を写した。
五部大乗経とは「華厳経」「大集経」「大品般若経」「法華経」「涅槃経」この五つをいう。
「華厳経」だけでも読破は大変。
「大品般若経」はそれよりもっと大変。僧侶はこれを読破すると、わざわざお祝いをした。
これに、さらに三つのお経が加わる。
読むだけでも大変なこと。それを崇徳上皇は自分の血で書き写したという。
崇徳上皇の執念、怨念いかほどか。
この執念、怨念によって、崇徳上皇は大魔王のトップとして永く人々を戦慄させることになる。
さて、
平治元年1159年 五部大乗経の写経終了。
崇徳上皇はこれを仁和寺門主覚性法親王に送り、安楽寿院に安置をたのんだ。
覚性法親王は後白河上皇に、この願いを聞くよう奏上した。
後白河もその気になった。
ところが、少納言藤原信西入道がこれに強く反対。
「崇徳上皇は讃岐にいるのに、このような血書写経だけを京都に帰したいとは・・」
「この写経には呪詛が込められている・・・」
こういった。
そのため血染めの写経は、崇徳上皇に返却された。
崇徳上皇は怒った
「後白河は保元の乱を根に持って、わしを許そうとしない。この写経は懺悔のために書き、目的は冥福にある。それを都から返してくるとは何事ぞ」
上皇は、舌を噛みその血で写経の各巻に本当に「呪詛」の誓文を書き付けた。
曰く
「願わくは、大魔王となりて天下を悩乱せん。五部大乗経を以って、悪道に廻向す」と。
五部大乗経を写すことは、大変な功力がある。その功力全てを、悪道に向けようとするのだ。
その悪道の内容とは、
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」
「人の福を見ては禍とし、世の治まるをみては乱を発さしむ」
つまり
幸福なものを不幸にし平和を乱してやる。革命を起こし君と民を入れ替えてやる。
これが大魔王崇徳上皇の「呪詛」である。
五部大乗経は無限の威力を持つ。その五部大乗経を全部血書した崇徳上皇は無限の威力を持つ。
崇徳上皇の誓願は必ずかなえられる。人々はそう確信した。思っただけでもぞっとした。
写経を突き返された後の崇徳上皇は、髪は伸び放題、爪も切らない。衣服も着替えない。
常に歯軋りをし、目をいからせ、痛み悩んでやせ衰え、骨があらわれていた。
そして、長寛二年1164年八月四十六歳で崩御した。
崩御後の崇徳上皇はどうなった・・・・
「太平記」に、世にも不思議な物語が記してある・・・・・・
保元の乱によって、名行は振るわず、皇道は失墜して世の中は一変した・・・・
までが前章でした。
今回から第九章を読みます。
その契機をつくった崇徳上皇はどうなった。
しばらく仁和寺に幽閉され、戦後処理の結果讃岐に流される事になった。
この崇徳上皇は、栗山潜鋒の論ずるところだけを読むと、不道徳で、臆病で、卑怯で、いいとこなしの人物であり、歴史に足跡を残すような人物とも思えない。
しかし
崇徳上皇の真の活動は、讃岐遠流から始まる。
終ったと思った時から、彼の真の人生が始まった。
保元元年1156年七月 仁和寺を出発して八月讃岐松山についた。
ここで三年過ごした後、志度の鼓が岡に移り、ここに六年住んだ後、
長寛二年1164年八月四十六歳で崩御した。
上皇は、いつか京都に帰れるものと考えていた。
しかし、待てど暮らせど赦免の知らせは来ない。
京都に帰れないと悟った崇徳上皇は写経をはじめた。
ただ写したのではない、自分の血で五部大乗経を写した。
五部大乗経とは「華厳経」「大集経」「大品般若経」「法華経」「涅槃経」この五つをいう。
「華厳経」だけでも読破は大変。
「大品般若経」はそれよりもっと大変。僧侶はこれを読破すると、わざわざお祝いをした。
これに、さらに三つのお経が加わる。
読むだけでも大変なこと。それを崇徳上皇は自分の血で書き写したという。
崇徳上皇の執念、怨念いかほどか。
この執念、怨念によって、崇徳上皇は大魔王のトップとして永く人々を戦慄させることになる。
さて、
平治元年1159年 五部大乗経の写経終了。
崇徳上皇はこれを仁和寺門主覚性法親王に送り、安楽寿院に安置をたのんだ。
覚性法親王は後白河上皇に、この願いを聞くよう奏上した。
後白河もその気になった。
ところが、少納言藤原信西入道がこれに強く反対。
「崇徳上皇は讃岐にいるのに、このような血書写経だけを京都に帰したいとは・・」
「この写経には呪詛が込められている・・・」
こういった。
そのため血染めの写経は、崇徳上皇に返却された。
崇徳上皇は怒った
「後白河は保元の乱を根に持って、わしを許そうとしない。この写経は懺悔のために書き、目的は冥福にある。それを都から返してくるとは何事ぞ」
上皇は、舌を噛みその血で写経の各巻に本当に「呪詛」の誓文を書き付けた。
曰く
「願わくは、大魔王となりて天下を悩乱せん。五部大乗経を以って、悪道に廻向す」と。
五部大乗経を写すことは、大変な功力がある。その功力全てを、悪道に向けようとするのだ。
その悪道の内容とは、
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」
「人の福を見ては禍とし、世の治まるをみては乱を発さしむ」
つまり
幸福なものを不幸にし平和を乱してやる。革命を起こし君と民を入れ替えてやる。
これが大魔王崇徳上皇の「呪詛」である。
五部大乗経は無限の威力を持つ。その五部大乗経を全部血書した崇徳上皇は無限の威力を持つ。
崇徳上皇の誓願は必ずかなえられる。人々はそう確信した。思っただけでもぞっとした。
写経を突き返された後の崇徳上皇は、髪は伸び放題、爪も切らない。衣服も着替えない。
常に歯軋りをし、目をいからせ、痛み悩んでやせ衰え、骨があらわれていた。
そして、長寛二年1164年八月四十六歳で崩御した。
崩御後の崇徳上皇はどうなった・・・・
「太平記」に、世にも不思議な物語が記してある・・・・・・