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読書感想文的日記を書くことにしよう。

小室直樹を読む  奇蹟の今上天皇 を読む

2010-05-19 23:42:21 | 日記
第四章 日本人は「天皇教」だ
昭和天皇は宣戦の大詔にもあるように国民に対し絶対の信頼をする。
天皇は原則として絶対に臣下を信頼される。

これが大前提である。

それであればこそ、信頼の裏切りに対し赫怒する。
張作霖爆殺事件において叱咤したというのも、白川陸相の上奏が総理大臣の上奏と違い、「総理の言う事はちっともわからない」からであった。

また対米戦争前
杉山参謀総長と永野軍令部総長が拝謁すると、天皇は「外交と戦争準備は並行せしめず
外交を先行せしめよ」といい。「南方作戦は予定通り出きると思うか・・・・予定通り進まぬ事もあるだろう・・・・・天候の障害はどうするか・・・・」と戦争に対する危惧を表明した。
杉山参謀総長が南方作戦は5ヶ月で完了すると奉答すると、大声で下問した
「お前の陸軍大臣のとき、蒋介石はすぐ参るといったが、いまだやれぬではないか」
杉山総長が、シナは奥地が広いものですから、と奉答すると、さらに声高く、
「シナの奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか」と指摘された。

天皇が軍部の一部に不信をいだき、その代表を叱責するといのも、言う事なすことが一致しないからである。

約束が守られなかったり、前後矛盾したり、言行が一致しなかったりする、といった大きな理由がない場合には、天皇は臣下を絶対に信頼する。

それであればこそ、昭和十六年十一月二十六日ハル・ノートが発せられ、政府も軍部も一致して、このような無茶な要求を受け入れたら日本はおしまいです、勝つ見込みもありますから、戦争をやらせて下さいと言われれば、これを信ずる。

不幸にして、戦争に勝つ事において天皇の期待を実現できなかった。
しかし、その行為においては、充分に天皇の信頼にこたえた。
天皇はこれを高く評価された。

終戦の大詔はいう
「交戦スデニ四歳を閲シ、朕カ陸海将兵ノ勇戦、朕カ百僚有司ノ励精、朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲツクセルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス・・・・」

天皇の日本国民に対する絶対の信頼は微動だにしない。

愛するに値しないものを愛する事が真の愛だとすれば、信ずるに値しないものを信じてこそ、真の信である。

天皇は日本国民を信ずる。そして人は天皇を信ずることで義とされる。そこにはなんらの差別もなく代償も必要とされない。

終戦の大詔はいう
「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル汝臣民ノ赤誠ニ信依シ常ニ汝臣民ト共ニ在リ」

昭和二十年八月十五日天皇玉音放送に対する国民の反響は如何なるものであったろうか。
山下秀之助 我が大君五内は裂くとのたまえばこの身一つの置き所なし
潟岡路人  残されし命に沁みてヌカ伏しぬラジヲ切れ切れに告ぐる御声
西田アイ子 大君の御詔の前に泣き伏して至らざりきを悔い詫びまつる
(昭和万葉集 巻七 講談社)

玉音放送を聴いて、宮城前の玉砂利に額づき、我々の努力が足りなくて戦争に負けました、
申し訳ございませんと天皇に詫びる国民が、ひきもきらなかった。

この日、日本国民はみんな泣いた。


これで第四章 日本人は「天皇教徒」だ  は終わり次に 第五章 奇蹟の今上天皇 に
移ります。


第五章 奇蹟の今上天皇
今上天皇-時の裕仁親王-の治世は、二人の刺客と印象的な多くの死と未曾有の大震災をもって明けた・・・・・・・


来月初めまで出張業務のため、暫く休止します。再開は6月6日ごろです。

小室直樹を読む  奇蹟の今上天皇 を読む

2010-05-15 16:29:21 | 日記
第四章 日本人は「天皇教」だ

日本人は元来、行動を合理的に計画することが下手であった。非合理的な衝動や情念に動かされやすい。

このような行動様式を、徹底的に変えたのが軍隊である。
日本の軍隊とは天皇教のための禁欲を作り上げるための修道院の役割をしたのではないのか。

人々が非合理的な衝動や情念に動かされること無く、目的合理的に行動するようになる事。
これぞ、近代軍隊や、近代経済(資本主義あるいは社会主義)がまともに動く要件である。

日本人の行動様式を、前近代的非合理なものから、近代的目的合理的なものにしたこと。
ここに天皇教の修道院たる帝国陸海軍の最大意義がある。

もっとも、大多数の軍人の行動は目的合理的行動からほど遠いものであった。
しかし、軍隊教育による目的合理的行動教育の重要性は強調されすぎることは無い。

戦前において「禁欲」と目的合理的行動は、天皇の軍隊の中だけにあった。

その軍隊の中だけにあった「天皇教」が、敗戦後復員してきたものたちによって、社会の中に入っていった。

それは、中世ヨーロッパにおいて、「禁欲」がカトリック修道院の中だけにあったものが、カルバン派などの禁欲的プロテスタンティズムによって、この「禁欲」を世間一般の倫理としたように。

天皇教によって、「禁欲」と目的合理的行動が広く社会一般の倫理となり、資本主義社会を
構築する条件ができた。
そして、わが国は戦後驚異的経済発展をとげたのである。

※若干疑問もわく。小室は戦後の経済発展は、天皇の奇蹟を強調するためなのか、戦争中吹かなかった神風がまとめて吹いたため、としていたのでは。小室の天皇教分析に従うと、経済発展は軍隊教育にあるのであって神風の奇蹟ではなくなる・・・・・のでは
それはさておき、先に進みます。

日本人は天皇教徒であり、その典型的な例が小野田氏と横井氏である。
その天皇教も危うく倒れんとした事がある。言うまでも無く大東亜戦争である。

この危機を天皇は見事に乗り切った。何が天皇と天皇教を守ったのか。


孔子は、政治で一番大事なものは「信」であるといった。

子貢が孔子に問うた
「政治に大切なものはなにか」
孔子曰く
「食糧と軍備と、人民に信を持たせることだ」
子貢はさらに
「この三つのうち、やむを得ず捨てるならどれを先に捨てるか」
孔子
「軍備だ」
子貢はさらに
「どうしてもやむを得ず捨てるとしたら、この二つのうちどれか」
孔子
「食糧をすてる。昔から誰にも死はあるが、人民は信がなければ安定しない」
  論語 顔淵 第十二

信のなかでも政治的に特に重要なのが、君主と国民のあいだの信頼関係である。
君臣間の信頼関係がないと、無規範状態(アノミー)が発生して、国は成り立たない。いつ革命が起きてもおかしくないのだ。

経済破綻と食糧難で、餓死者がでるようになっても、信頼関係さえあれば国民は必死に働き、経済復興できる。

敗戦により経済破綻することとなった対米英戦争。この戦争こそ天皇が最も虞れ、その阻止のためあらゆる努力を集中した。

では、なぜ天皇は最後には開戦の許可を与えたのか。
終戦のときの如く、聖断によって開戦をくい止めることはできなかったのか。

この疑問をもつものは多い。
このなぞを解くことこそ本書のテーマの一つなのである。

鍵はまず、宣戦の大詔の中に見出される。

「朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信依シ・・・・・速ヤカニ禍根ヲサンジョシテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」

すなわち、
日本国民は東亜永遠の平和を確立し、日本の光栄を保全するのに充分なだけ忠誠勇武である。天皇はそれを、信ずればこそ世界相手の大戦争も決行する。というのである。

日本国民に対する、かくのごとき絶対の信頼が、すべての前提となる・・・・・・









小室直樹を読む  奇蹟の今上天皇 を読む

2010-05-07 11:18:44 | 日記
第四章 日本人は「天皇教」だ
※小室のこの主張について異論が多いと思われますが、まずは彼の論理を拝聴。

戦前、戦中、天皇は宗教であり、イデオロギーでもある。
天皇信仰の強烈さは、ルバング島の小野田少尉とグアム島の横井伍長の例を想起しただけでも思い半ばに過ぎよう。

私がフィリピンにいったとき、たまたま話題が小野田少尉のことに及んだ。
「日本兵はジャングルの中に住めるんだから凄い。こんなことは、フィリピン人やアメリカ人には想像もできない。密林の中に30年も生きているなんて、実際に起きていなかったら荒唐無稽の物語と思うだろう。」とフィリピン人はこういって驚いた。

小野田・横井両氏の思想と行動は、世界史的大事件である。

このことがもつ、真の意味を理解するためには、蘇武と比較してみるとよい。

蘇武とは、どんな人物か
蘇武は漢の武帝のとき、漢の大使として匈奴に赴いた。

匈奴の王が講和を持ちかけてきたためである。しかし和議は成立しなかった。
すると、匈奴は蘇武を無法にも、拘束した。

匈奴の王、単于(ぜんう)は蘇武の人物を見込み、「我がほうに投降したら、地方の王にしてやる」と盛んに勧めた。
蘇武は当然断る。いくら強要しても駄目であった。

単于は怒り、彼をバイカル湖の近くの荒野に抑留した。原始生活が始まった。
蘇武は、この間19年氷雪に耐え、漢の節(節とは使者のしるしとして皇帝から与えられる旗竿)を持っていた。

残された、蘇武の一家は離散。妻は再婚していた。

漢の武帝が崩御し、昭帝が即位したころ、蘇武は名案を思いついた。
雁にSOS通信をつけて放したのだ。

昭帝が上林で狩をしていたとき部下がその雁を捕まえ、SOS通信が結び付けられているのを昭帝に報告。(消息・貴重なことを伝える手紙を雁書という出典)
蘇武は生きていることが判った。

それまで匈奴は「蘇武は死んだ。蘇武問題は解決済み」といっていたが、それじゃ仕方がないと、蘇武を送還した。

蘇武は19年ぶりに漢の都長安に帰った。
以来中国では蘇武を義士として誇り、文天祥は「漢にあっては蘇武が節」と讃えた。

19年にも渡り、囚人生活以下の原始人生活を送った、蘇武の持つ儒教イデオロギーがこのように重大な意味を持つのであるなら、横井・小野田両氏の場合ならどうなる。

蘇武19年。小野田氏30年、横井氏28年である。

さらに重要な点は、小野田氏、横井氏は一般人であることだ。
一方、蘇武は大使である。中朗将という政府高官である。皇帝と国家に対する責任は大きく、またそれだけの待遇も受けている。その分、支配階級の人の責任はすこぶる大きい。

小野田元少尉は密林から出てきたときの態度が、あまりに堂々としていたから「エリート軍人」と書き立てられたが、彼はエリート軍人ではない。

海南中学を出て「田島洋行」で働き、漢口方面で活躍していたいわばサラリーマンだ。
昭和17年に二等兵として入隊したが、彼はかなり優秀だったようで、一年後には甲種幹部候補生になり伍長に昇進している。

しかし、だからといって小野田氏は陸軍のエリートではない。陸軍のエリート・コースは陸軍士官学校を出て、陸軍大学校を卒業してなければならない。

まして、天皇から印をもらい特殊任務についたわけではない。

彼はエリート意識で、その任務についていたのではない。ここが重要なのだ。
まったく普通の人が30年間も降伏することなく、アメリカと戦っていたのだ。

横井氏も同様である、彼は入隊前は仕立て屋であった。まったく普通の日本人である。
その彼が、虜囚よりも原始人の道を選び、グアム島で28年間頑張ったのである。
「天皇陛下のために28年間生き抜いてきました。大和魂を信じていました。必ず日本軍がもう一度グアム島にくると・・・」

横井氏は天皇を信ずる事によって、頑張り抜けたのであった。


この小野田氏、横井氏こそ「天皇教」の徒である。



ここから小室のいう「天皇教」についての解説が始まります。

まずは、・・・・天皇教のための禁欲(アスケーゼ)をつくりあげる修道院的役割を日本の軍隊が担った・・・・から語ります。




小室直樹を読む  奇蹟の今上天皇 を読む

2010-05-04 22:38:27 | 日記
第三章 将軍は去り、天皇は残った
立憲政治が成立するためには、機軸が必要である。西欧諸国で立憲政治が成功しているのは、キリスト教という「機軸」があるからである。キリスト教の上に乗って初めて作動できるのである。


では、なぜ近代憲法政治には、キリスト教という機軸が必要なのか。

立憲政治とは、憲法を持って根本規範とする政治のことである。
しかも、憲法は、主権者(国政機関も含まれる)と人民のあいだの統治契約でなければならない。

この契約が根本規範であるためには、それは「絶対」でなければならない。

「契約は絶対である」この考え方は「契約とは、本質的には唯一絶対神との契約である」という考え方がなければ出てきようがない。

そのうえ、人間と人間の間の契約も絶対である、という思考が発生しない事には、憲法は根本規範になりえない。


日本には元来「契約」観念がない。(このことについては川島武宣:日本人の法意識 岩波新書 に詳しい)
それゆえ、「契約は絶対」であるという考え方が生まれてくる余地はない。

中国儒教に「聖人との契約」「天との契約」という考え方があるだろうか。
仏教に「仏との契約」という考え方があるだろうか。

立憲政治の根本規範「憲法」は、主権者と人民とのあいだの契約である。
ゆえに、絶対なるものを設定しない以上、憲法はありえない。

しからば、絶対者を設定すれば憲法はありえるか。
そう容易なものでもない。

イスラム教国において、「アラー」は絶対者である。アラーとの契約こそ社会の根本規範である。
イスラム教社会においては、アラーとの契約は絶対である。それでいて、立憲政治の可能性はない。

その理由は何か。
神と人間との間の絶対契約、いわば「タテの契約」の根本原理が、人間と人間との間の、「ヨコの契約」に延長される事がないからである。

イスラム教社会では、アラーと人間の契約は絶対である。しかしこの絶対性は、人間と人間のあいだの「ヨコの契約」に延長される事がなかった。

立憲政治には機軸になる宗教がいるが、儒教不可、仏教不可、イスラム教不可であり、その宗教は「キリスト教」的なものでなければならない。

しかし、元来日本人にはキリスト教的考え方は向かない。
だが明治政府にとって、「近代化」は緊急この上ない要請である。

では、何がなされるべきか。上からの変革である。

「わが国において機軸とすべきは、独り皇室あるのみ。コレを以ってこの憲法草案においてもっぱら意をこの点に用い、君権を尊重してなるべくコレを束縛せさらんことをツトメリ。
すなわち、この草案においては君権を機軸とし・・・・かの欧州の主権分割の精神に拠らす」 帝国憲法制定会議  :丸山真男 「日本の思想」 岩波新書

キリスト教的機軸が必要不可分と知った明治の指導者達は、「天皇」をもって機軸としようとした。

大日本帝国における天皇制。それは、すぐれて作為の所産であった。

昭和二十年第二次世界大戦終了。

ヒトラーも消え、ムッソリーニも消え去った。
大日本帝国も、アメリカに負け、破壊された。

明治の指導者達が苦心して作り上げた、「機軸」としての天皇制も崩壊するかに見えた。

しかし、天皇は残った。そして新たなる立憲政治の「機軸」となった。
将軍達は去ったが、天皇は残ったのである。


これで第三章 将軍は去り、天皇は残った は終わります。
※なぜ残ったかの理由は前章に書かれているので、そちらをどうぞ。


次は、第四章 日本人は「天皇教」だ  を読みます。

「天皇」は宗教である・・・と小室は考えています。この章は「天皇教」教徒達の行動を通して、「天皇」は宗教であることを語っていきます。





小室直樹を読む  奇蹟の今上天皇 を読む

2010-05-02 23:48:48 | 日記
第三章 将軍は去り、天皇は残った

日本は三国干渉により、遼東半島を返還させられたのみならず、ロシアは朝鮮にまで進出してきた・・・

日本は戦わざるを得ない立場となった。

しかし、当時日本中でこの戦いに勝てると思っているものはいなかった。

元老伊藤博文は金子堅太郎に、ロシアがもし日本に上陸したら、自分は一兵卒となって戦うつもりだと、その決意を語った。


日露開戦の報が伝わると、ある退職官吏は息子達を集めこういった「お父さんはロシアが上陸してきたら真っ先に戦死する。おまえ達に先祖から代々伝わる家法の刀をわたすから、これで身の決着をつけろ」

ところが、いざ日本軍がロシア軍と戦ってみると、信じられないほどの好都合があとからあとからと起きて、日本軍は海陸とも連戦連勝。
負けるはずの戦争に圧勝した。

なんでこうも上手くいくのか。
元寇のときに吹いた神風が思い出された。

「日本は神国だから、神は奇蹟によって日本を助ける」という形で再認識された。
天皇こそ、まぎれもなく天照大神の嫡孫であると、実感できるようになった。

明治の初めには、一部の尊王家だけのものであった、尊王思想はここに至って、全国民にゆきわたった。

ナポレオン帝国が、アルコレ、アウステルリッツ、イェナ、フリートラントなどの戦勝で建てられた如く、大日本帝国は、日清、日露両戦役の大勝から生まれた。

明治維新以来わずか40年のあいだに、日本国民をして、元旦や誕生日にまで「陛下にお礼申し上げろ」といわしめた、日本国における天皇。

それは例えて言えばキリスト教における神のごときものである。
※この命題も小室はよく取り上げます。詳しくは 「天皇」の原理 で語られていますが、ここでも繰り返し語られます。

日本が開国した主な理由は国防的要請であった。
それは、このままでは西欧に負ける。開国して西欧の軍事技術を学び輸入しよう。その結果、充分に国力が整ったらまた鎖国しよう。当時の日本はそのつもりであった。

開国して西欧の技術を輸入しようとしてみたが、そう容易な事ではないことも分かった。

ところが、ここが明治の先覚者達の偉いところ。西欧諸国が強いのは、軍事技術が高いというだけじゃない、かかる高い技術を生み出す「社会組織」にあるのだ、と気付いた。

アメリカインディアンも、銃と馬の扱いは習熟した。しかし、それを製造改良することができる、社会変革はできなかった。
中国、インドも同様である。

その唯一つの例外が日本である。

黒船を造る高い技術水準を支える社会制度がないと、どうしようもないと覚った。

この社会制度のなかで、とくに大切なのが経済制度と政治制度である。

経済制度は近代資本主義でいくことにすんなり決まった。
問題は政治制度である。

あれやこれやと模索し、西欧視察をし、議論した結果「立憲君主制」が日本に一番適しているとされた。

立憲君主制は、憲法政治である。
憲法を定めて、その憲法に基づいて、君主と人民がなかよく政治をしましょう、というのだ。

明治政府は、憲法政治はどうやって作り、これを動かすにはどうすればよいか研究した。
伊藤博文がとくに熱心であった。

伊藤は西欧諸国の憲法を比較検討した。その結果、難問に突き当たった。

憲法政治がまともに動くためには、「機軸」がなければならないのだ。
その「機軸」が日本にはないのだ。

立憲政治は、条文上の「立派な憲法」を作っただけでは作動しないのだ。

第二次大戦後独立したアジア・アフリカの旧植民地諸国は、旧宗主国にならって立派な憲法を作る。これで民主主義国家になれたと思っていたら、いつのまにか国は独裁者の手に・・
たいていこうなっている。

憲法を作動させ、民主主義国家になることは実はなかなか困難なことなのである。
このことに気付いた、明治時代の指導者達は偉大だといわねばならない。

明治の指導者達は、西欧において立憲政治が成功している原因を発見した。

「西欧において立憲政治が成功しているのは、キリスト教という「機軸」があるからだ、と。


では、なぜ近代憲法政治には「キリスト教」という「機軸」が必要なのか・・・・・・