第七章 天皇と日本
後鳥羽上皇が政権奪還の烽火をあげ、幕府討伐軍を起こした。
その時二位の尼政子が鎌倉武士を前に、「官軍につくか鎌倉に付くかハッキリ態度をきめろ」、の大演説で鎌倉武士団は総て鎌倉方に決定。
頼朝はいい政治をしたから正しい 因果律
天皇は無条件に正しい 予定説
二位の尼政子演説の結果、この予定説が覆り因果律が出現。
しかし、イデオロギーの転換はマックス・ヴェバーによると「カタツムリの歩みより遅く、巨大な心的葛藤の後はじめてなされる」または「長期の教育」または「燦然たるカリスマ」によってなされる、という。
そのため、幕府軍司令官泰時に「天皇は無条件に正しい」という予定説がつきまとう。
泰時は父執権義時に「官軍に手向かわず、無条件降伏しよう」と諌める・・・・
ところが、義時は反論してこういった
「但しそれは、君主の御政道正しき時のことなり」
今や天皇の失政は明らか。
「君の政、 古にかえて実を失へり・・・・国土穏やかなるところなし。禍いまだ及ばざる所は恐らくは関東のはからいなり・・・・」
失政の禍がまだ全国に及ばないのは鎌倉幕府の力による。
義時はこういって泰時を叱咤。
天皇絶対の予定説は善政主義の因果律に変わった。
鎌倉軍勢のその数19万・・・事実かどうか疑わしいが・・・
地を埋め尽くす大軍は官軍を連破しながら京都へ到着。
泰時が京へ入ると後鳥羽上皇は、執権義時追討の院宣撤回。
近臣6名を首謀者として泰時に差し出した。全面降伏。
泰時はこの内5名を死刑にした。
今までならこれで戦後処理終了。
頼朝時代、後白河法皇が頼朝追討院宣を木曾義仲、源義経に出した。頼朝は彼らを撃破した。しかし、
戦後処理に後白河法皇の処分はなかった。頼朝が後白河法皇の責任を追及することはなかった。
天皇はなにをしてもしなくても、常に正しい。この予定説が支配していた。
ところが今回は違った。
予定説に変わり因果律が支配的イデオロギーになっていた。
天皇といえども、自分の行為が「原因」となって生じた「結果」には責任がある。
こう考えられるようになった。
泰時は後鳥羽上皇の戦争責任を追及した。戦犯に引きずり出した。マッカーサーも成し得なかった事を泰時は為していた。
後鳥羽上皇の院政廃止のうえ、仲恭天皇は退位。後堀河を即位させた。
そればかりか、後鳥羽上皇を佐渡島へ流し、土御門上皇は土佐へ流した。
なんと、武士によって天皇が処罰された・・・・・
頼山陽嘆くのもむべなるかな。
天皇イデオロギーは木っ端微塵に吹き飛び、武士の世は完成された。
承久の乱は、昭和時代の「ポツダム宣言受諾」「天皇人間宣言」にも比すべき日本史最大事件である。
天皇の神勅的正統性に致命的打撃を与え、これを粉々にした。
「天皇」の死である。
承久の乱により、それまでの天皇イデオロギーは死んだ。
天皇はなにをしようとなにをなされまいと絶対に正しい、という天皇イデオロギーは承久の乱により吹き飛んだのだ。
しかし、この一度吹き飛んだ天皇イデオロギーが復活することになる。
あたかも、イエス・キリストが十字架上で死に、そして三日後復活するように・・・・
「天皇」は復活する・・・・・
これで第七章 天皇と日本 は終了。
いかにして「天皇」は復活したか、の分析を小室は次章から語ります。
後鳥羽上皇が政権奪還の烽火をあげ、幕府討伐軍を起こした。
その時二位の尼政子が鎌倉武士を前に、「官軍につくか鎌倉に付くかハッキリ態度をきめろ」、の大演説で鎌倉武士団は総て鎌倉方に決定。
頼朝はいい政治をしたから正しい 因果律
天皇は無条件に正しい 予定説
二位の尼政子演説の結果、この予定説が覆り因果律が出現。
しかし、イデオロギーの転換はマックス・ヴェバーによると「カタツムリの歩みより遅く、巨大な心的葛藤の後はじめてなされる」または「長期の教育」または「燦然たるカリスマ」によってなされる、という。
そのため、幕府軍司令官泰時に「天皇は無条件に正しい」という予定説がつきまとう。
泰時は父執権義時に「官軍に手向かわず、無条件降伏しよう」と諌める・・・・
ところが、義時は反論してこういった
「但しそれは、君主の御政道正しき時のことなり」
今や天皇の失政は明らか。
「君の政、 古にかえて実を失へり・・・・国土穏やかなるところなし。禍いまだ及ばざる所は恐らくは関東のはからいなり・・・・」
失政の禍がまだ全国に及ばないのは鎌倉幕府の力による。
義時はこういって泰時を叱咤。
天皇絶対の予定説は善政主義の因果律に変わった。
鎌倉軍勢のその数19万・・・事実かどうか疑わしいが・・・
地を埋め尽くす大軍は官軍を連破しながら京都へ到着。
泰時が京へ入ると後鳥羽上皇は、執権義時追討の院宣撤回。
近臣6名を首謀者として泰時に差し出した。全面降伏。
泰時はこの内5名を死刑にした。
今までならこれで戦後処理終了。
頼朝時代、後白河法皇が頼朝追討院宣を木曾義仲、源義経に出した。頼朝は彼らを撃破した。しかし、
戦後処理に後白河法皇の処分はなかった。頼朝が後白河法皇の責任を追及することはなかった。
天皇はなにをしてもしなくても、常に正しい。この予定説が支配していた。
ところが今回は違った。
予定説に変わり因果律が支配的イデオロギーになっていた。
天皇といえども、自分の行為が「原因」となって生じた「結果」には責任がある。
こう考えられるようになった。
泰時は後鳥羽上皇の戦争責任を追及した。戦犯に引きずり出した。マッカーサーも成し得なかった事を泰時は為していた。
後鳥羽上皇の院政廃止のうえ、仲恭天皇は退位。後堀河を即位させた。
そればかりか、後鳥羽上皇を佐渡島へ流し、土御門上皇は土佐へ流した。
なんと、武士によって天皇が処罰された・・・・・
頼山陽嘆くのもむべなるかな。
天皇イデオロギーは木っ端微塵に吹き飛び、武士の世は完成された。
承久の乱は、昭和時代の「ポツダム宣言受諾」「天皇人間宣言」にも比すべき日本史最大事件である。
天皇の神勅的正統性に致命的打撃を与え、これを粉々にした。
「天皇」の死である。
承久の乱により、それまでの天皇イデオロギーは死んだ。
天皇はなにをしようとなにをなされまいと絶対に正しい、という天皇イデオロギーは承久の乱により吹き飛んだのだ。
しかし、この一度吹き飛んだ天皇イデオロギーが復活することになる。
あたかも、イエス・キリストが十字架上で死に、そして三日後復活するように・・・・
「天皇」は復活する・・・・・
これで第七章 天皇と日本 は終了。
いかにして「天皇」は復活したか、の分析を小室は次章から語ります。