第八章 日本皇道の失墜
鳥羽上皇と関白忠通は「天倫の序」を乱した。
近衛天皇崩御により後白河に皇位を継がせ、弟から兄へ皇位継承順位を逆流させた。
同じ兄でも崇徳上皇であれば、鳥羽上皇第一子であるから、好ましくないといっても「天倫の序」の乱れとまではならない。
本来なら崇徳上皇の皇子に継がせるべきであろう。これであれば父子相続の継承は保たれた。
さあ天下大乱の予感・・・・
第八章 日本皇道の失墜 を読みます
すでに挙げた倫理犯罪人「関白」藤原忠通。
この忠通に弟がいる。
藤原頼長である。
ウルトラ秀才であった。
この頼長
18歳で論語と史記を全部読み記憶した。
19歳で漢書を読み記憶した。
21歳で後漢書、書経、詩経、荘子を読み記憶した。
読んだものはすべて記憶した。
23歳のとき豁然として、今まで中国の学問ばかりしていたが、これでは朝廷に対し忠義を尽くすに十分でないと悟り、日本の学問も研究した。
そしてたちまち、大家となった。
これほどのウルトラ秀才であった。
父である前関白太政大臣藤原忠実は、兄関白忠通より弟ウルトラ秀才頼長をかわいがった。
そのため、出世も早かった。
11歳で少将 13歳で権中納言 15歳で権大納言 16歳右大将 17歳内大臣
まさにエリートコース。超スピード出世。
「大臣」といっても近頃の二十数名もいる大臣と値打ちが違う。
当時大臣はわずか四名。
太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣。
このうち太政大臣は「則闕の官」といい、ふさわしい人物がいなければ欠員でもよい。
このくらい大臣の価値が高い時代であった。
その内大臣に頼長は17歳で就任。
さらに、30歳で左大臣にまで昇った。
後は関白になるだけ。ところが関白は兄忠通がすでに就任している。
忠通と頼長兄弟の父前関白太政大臣藤原忠実は頼長がかわいくてしょうがない。
関白職を頼長に譲れと兄忠通に要求したが、当然拒否。
そこで父忠実は忠通の「氏の長者」を忠通から取り上げ頼長に与えた。
関白職は公職であるから父の一存ではどうしようもない。
しかし、「氏の長者」は一門の統括最高責任者であるから、公職ではないので一門の同意があればどうしようと一門の勝手。
しかし、藤原一門は当時政治の責任者。
「氏の長者」が最高政治責任者を兼務するのが自然なかたち。
例えて言えば、自民党総裁が総理大臣を兼務(2010年現在であれば民主党代表が総理大臣を兼務)するような関係。
それを、兄が「関白」で弟が「氏の長者」。
不自然極まりない。
頼長も自分のほうが兄忠通より優秀だと思っているから「氏の長者」だけでは不満。
この不満分子頼長に、同じ不満分子崇徳上皇が結びついていた。
崇徳・頼長同盟である。
この同盟に強力な軍事力もついていた。「源氏の棟梁」源為義である。
そしてついに嵐がおきた。
久寿二年1155年近衛天皇崩御、後白河即位。
その翌年
保元元年1156年鳥羽上皇崩御。
鳥羽上皇崩御。ただちに崇徳上皇は鳥羽宮にかけつけた。
ところが鳥羽宮の役人は崇徳上皇を追い返した。
崇徳上皇の憤懣は極点に達し、崇徳・頼長同盟の軍事行動が作動を始めた・・・・・
鳥羽上皇と関白忠通は「天倫の序」を乱した。
近衛天皇崩御により後白河に皇位を継がせ、弟から兄へ皇位継承順位を逆流させた。
同じ兄でも崇徳上皇であれば、鳥羽上皇第一子であるから、好ましくないといっても「天倫の序」の乱れとまではならない。
本来なら崇徳上皇の皇子に継がせるべきであろう。これであれば父子相続の継承は保たれた。
さあ天下大乱の予感・・・・
第八章 日本皇道の失墜 を読みます
すでに挙げた倫理犯罪人「関白」藤原忠通。
この忠通に弟がいる。
藤原頼長である。
ウルトラ秀才であった。
この頼長
18歳で論語と史記を全部読み記憶した。
19歳で漢書を読み記憶した。
21歳で後漢書、書経、詩経、荘子を読み記憶した。
読んだものはすべて記憶した。
23歳のとき豁然として、今まで中国の学問ばかりしていたが、これでは朝廷に対し忠義を尽くすに十分でないと悟り、日本の学問も研究した。
そしてたちまち、大家となった。
これほどのウルトラ秀才であった。
父である前関白太政大臣藤原忠実は、兄関白忠通より弟ウルトラ秀才頼長をかわいがった。
そのため、出世も早かった。
11歳で少将 13歳で権中納言 15歳で権大納言 16歳右大将 17歳内大臣
まさにエリートコース。超スピード出世。
「大臣」といっても近頃の二十数名もいる大臣と値打ちが違う。
当時大臣はわずか四名。
太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣。
このうち太政大臣は「則闕の官」といい、ふさわしい人物がいなければ欠員でもよい。
このくらい大臣の価値が高い時代であった。
その内大臣に頼長は17歳で就任。
さらに、30歳で左大臣にまで昇った。
後は関白になるだけ。ところが関白は兄忠通がすでに就任している。
忠通と頼長兄弟の父前関白太政大臣藤原忠実は頼長がかわいくてしょうがない。
関白職を頼長に譲れと兄忠通に要求したが、当然拒否。
そこで父忠実は忠通の「氏の長者」を忠通から取り上げ頼長に与えた。
関白職は公職であるから父の一存ではどうしようもない。
しかし、「氏の長者」は一門の統括最高責任者であるから、公職ではないので一門の同意があればどうしようと一門の勝手。
しかし、藤原一門は当時政治の責任者。
「氏の長者」が最高政治責任者を兼務するのが自然なかたち。
例えて言えば、自民党総裁が総理大臣を兼務(2010年現在であれば民主党代表が総理大臣を兼務)するような関係。
それを、兄が「関白」で弟が「氏の長者」。
不自然極まりない。
頼長も自分のほうが兄忠通より優秀だと思っているから「氏の長者」だけでは不満。
この不満分子頼長に、同じ不満分子崇徳上皇が結びついていた。
崇徳・頼長同盟である。
この同盟に強力な軍事力もついていた。「源氏の棟梁」源為義である。
そしてついに嵐がおきた。
久寿二年1155年近衛天皇崩御、後白河即位。
その翌年
保元元年1156年鳥羽上皇崩御。
鳥羽上皇崩御。ただちに崇徳上皇は鳥羽宮にかけつけた。
ところが鳥羽宮の役人は崇徳上皇を追い返した。
崇徳上皇の憤懣は極点に達し、崇徳・頼長同盟の軍事行動が作動を始めた・・・・・