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「隠し国」で生まれた忍術 通じ合う忍の心と和の心 梟の城

2014-09-29 07:02:18 | 社会
「隠し国」で生まれた忍術 通じ合う忍の心と和の心 梟の城
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20140927120.html へのリンク
産経新聞:2014年9月27日(土)15:03

 四方を山に囲まれているにもかかわらず、不思議と閉塞(へいそく)感はない。連なる山々はなだらかで、峠を越えれば京都はすぐそこだ。隠れ里でありながら権力の中枢に近い伊賀の地(三重県伊賀市)で、諜報や謀略を請け負う忍びの術が生まれたのは、必然であったのかもしれない。

 この地を司馬遼太郎は「隠し国」と呼んだ。長編小説「梟(ふくろう)の城」では、諸大名が天下を狙った戦国末期、雇い兵として暗躍する伊賀忍者の生き方を描く。

 《かれらの多くは、ふしぎな虚無主義をそなえていた。他国の領主に雇われはしたが、食禄(しょくろく)によって抱えられることをしなかった。(中略)おのれの習熟した職能に生きることを、人生とすべての道徳の支軸においていた。》

 物語は戦国時代末期、織田信長が伊賀を制圧した天正伊賀の乱に端を発する。主人公は、この戦いを生き延びた2人の忍者、葛籠重蔵と風間五平。肉親を殺された重蔵は峠の庵室に身を潜めて信長暗殺をうかがっていたが、信長の死で生きる目的を失っていた。

 そんな重蔵に豊臣秀吉暗殺の仕事が舞い込む。重蔵が向かう京には、伊賀を捨て、奉行の隠密役として仕官した五平がいた。

 史実としての「忍者」の読みは「にんじゃ」ではなく「しのびのもの」が正しい。三重県伊賀市にある伊賀流忍者博物館には、市北部で約50年前に発見された忍者屋敷がある。壁の向こうに瞬時に姿を隠す「どんでん返し」や抜け道、刀隠し…。農家の住居でありながら、戦いを前提とした仕掛けが施されていた。

 普段は農業を営みながら忍びの仕事を請け負った忍者。彼らが最も能力を発揮したのは、司馬遼太郎の小説「梟(ふくろう)の城」にも描かれた戦国時代だ。だが現存する資料はすべて江戸時代に書かれ、重要な部分は口伝となっている。実態はほとんど分かっていない。

 手がかりとなる人物はいる。尾張(愛知県)に伝わった甲賀流忍術の一派、伴家の忍術を伝承した川上仁一さん(65)だ。伊賀流忍者博物館名誉館長で、三重大学社会連携研究センター特任教授も務める川上さんは「日本人ならだれもが持つ忍耐を過酷に具現したのが忍びの術。精神力と身体能力を高めたのは、生活を守るためだった」という。

 「梟の城」では、忍者の心の内が描かれる。数々の死闘をくぐりぬけて豊臣秀吉暗殺の任務を遂行しようとする重蔵と、そんな生き方を否定し、武士としての立身のために重蔵を売ろうとする五平。重蔵は翻意を促す僧にこう話す。

 《人間には志というものがある。妄執と申してもよい。この妄執の味が人生の味じゃ。わしの妄執は、稲妻を小さな皿に盛ろうとするに似ている。この清冽(せいれつ)な味は、おぬしら人生の遊び人にはついにわかるまい。(中略)わしは地獄が好きであるによって地獄に行く》

 重蔵は伏見城に侵入し、秀吉の寝所に忍び込む。だがその罪を負ったのは、重蔵を捕らえようと追ってきた五平だった。目的を果たした重蔵は、再び伊賀の峠の庵室に戻っていく。

 今や、忍術は廃れて久しい。川上さんは幼少期から、呼吸法や移動法、視覚や聴覚の鍛錬や1カ月間の断食など、過酷な訓練を続けたという。だが諜報の手段は近代化し、暗視装置や盗聴器もある。原始的な忍術を使う場面はもはやない。

 だが、すべてが消えたわけではない。そもそも不毛な戦いを避けて犠牲を減らす目的で、敵の情報を得て生還するために発達した忍術。何よりも重要だったのは人と交わるコミュニケーション能力だった。

 長年の鍛錬と研究を経て川上さんがたどり着いたのは、相手の様子をうかがいながら話し、争いを避けようとする日本人の民族性と忍術の精神との共通点だったという。「忍者の誇り高さは日本人そのもの。忍の心と和の心は、通じているのです」(文 加納裕子)

                     ◇

【用語解説】梟の城

 戦国時代に暗躍する忍者の死闘を描いた長編小説。昭和33~34年、産経新聞記者だった司馬遼太郎が宗教紙に連載し、34年に単行本となった。司馬はこの作品で第42回直木賞を受賞。38年と平成11年の2度にわたり映画化された。


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