かなしぃ。 蓮見圭一

2008-03-09 00:02:04 | 読書
■かなしぃ。 蓮見圭一 解説:児玉清 新潮文庫 ¥438(税別)

本屋の平積みコーナーに、「児玉清が絶賛」と旗が立っていたのが購入の決め手です。
「水曜日の朝、午前三時」も以前から気になっていたのですが、<失われたものはあまりにも大きい。愛のせつなさと歓びが心にしみるラブストーリー>といううたい文句にビビって、恋愛小説を前面に出されると首も手も引っ込んでしまう私は、この「かなしぃ。」が蓮見圭一デビューとなりました。

単行本では「そらいろのクレヨン」として上梓されている。
文庫本では一編加筆されて、六編のショートストーリー集。
 ◇かなしぃ。
 ◇詩人の恋
 ◇スクリーンセーバー
 ◇セイロンの三人の王子
 ◇1989、東京
 ◇そらいろのクレヨン

表題を「そらいろのクレヨン」としたほうが部数は伸びそうだが、「かなしぃ。」のほうが、情に溺れ過ぎない印象になるから、これは正解だと思う。
蓮見圭一の文体は、正統派のハンサムでかなり寡黙、すっきりしている。 甘ったるいストーリーだとしても、これなら抵抗なく読める。

それぞれの作品はきれいにまとまっている。
どの物語に<感じるか>は、読み手の状況によるからなんとも言えないが、わたしは「セイロンの三人の王子」と「1989、東京」に感じた。

「セイロンの三人の王子」は語り手が新聞記者で、業界の話しがかなり書きこまれている。
高校時代の友人に新聞記者から今は編集委員という人がいて、彼の話とダブるところも多く、感じてしまった。 物語当時(オウム真理教事件頃)の時事も組みこまれていて、架空の小説と思えないところがいい。

「1989、東京」は女性が語り手であるせいか、一段と読みやすかった。
病弱な母親の代わりに面倒を見てくれた女の使用人が急にいなくなった。 語り手はまだ幼かったから、理由もわからず、理解もできなかった。 それから二十年、語り手は裕福な少女時代とはまったくちがう、ある意味では凋落した人生を過ごしていたが、ふとしたことで、失踪した使用人の消息を知ることになる。
なぞ解きの要素と、女性としての人生観を絡めているところがおもしろい。

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物語には題名がついているわけでして、これは蓮見圭一のセンスなんでしょうが、いまひとつぴんときませんでした。 「セイロンの三人の王子」と「1989、東京」、この二編については特にそう、なんでこの題名なんだろう。
「かなしぃ。」はピッタリなんですけれどね。

蓮見圭一作品の批評を見ていると、乙女チックで嫌だという意見もかなりあって、「水曜日の朝、午前三時」のAmazon批評は、星5個から星1個まで分かれていました。
蓮見の長編はまだ読んでいない私ですが、短編のほうが上手なのかと思います。
この短編集については大丈夫、安心して読んでください。



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