本の楽しみ、富岡先生と富岡有隣について

2008-03-06 23:06:56 | 読書
国木田独歩の作品に「富岡先生」がある。

『富岡先生、と言えばその界隈で知らぬ者のないばかりでなく、恐らく東京に住む侯伯子男の方々の中にも、「ウン彼奴か」と直ぐ御承知の、そして眉をひそめらるる者も随分あるらしい程の知名な老人である。
 さて然らば先生は故郷で何を為ていたかというに、親族が世話するというのも拒んで、広い田の中の一軒屋の、五間ばかりあるを、何々塾と名づけ、近郷の青年七八名を集めて、漢学の教授をしていた、一人の末子を対手に一人の老僕に家事を任かして。』

~~~世に棲む日日 雑感~~~
松陰は黒船に乗り込んでアメリカ国へ渡ろうとし失敗、幕府の正式な処分が決まるまで長州藩松本村(故郷)で蟄居の身となりますが、蟄居前の1年半を長州藩の武士階級専用の牢獄で過ごしました。

松陰が入った野山獄の囚人たちはほとんどが殺人の罪を犯した者たちで、他に行状が悪く、それに手を焼いた親族からの依頼で入牢している者もいました。 その場合は費用は自費、親族が払う決まりになっています。 獄は隔離病棟の役割もしていたのでしょう。

姦淫を重ねたからと家族の依頼で入獄させられている女がいました。
司馬遼太郎は、女性との交流がなかった吉田松陰が唯一かかわりを持った女性を、この野山獄に入れられていた高須久子としています。
松陰は後に江戸送りになる際、獄中の高須久子から手布巾を贈られて嬉しがったとか。

独房は横並びに六部屋、それが向かいあって全部で十二。 お互いの顔が見える者、声だけしか聞こえない者がいて(高須久子は向かい側の端っこにいたらしい)、ここからが吉田松陰らしいところなのですが、囚人達に呼びかけ勉強会を始めました。
書が得意、漢詩が得意、和歌の心得がある、各人の長所を見つけて師と仰ぐ、松陰のいい人らしさがよく分かります。

富岡有隣は松下村塾の教師でした。 そして野山塾に繋がれていた囚人でもあります。
松陰はこの富岡を傑出した人物だと認め、出獄後に松下村塾に招きました。
と書きますと、有隣は素晴らしい人物に思えてくるのですが、この人を尊んでいたのはどうやら吉田松陰だけでして、なんてこんな奴を・・・と誰もが舌打ちする、ひねこびた性格の嫌な奴。
ちなみにこの人も親族から頼まれての入獄組。 乱暴者で口が過ぎ、周囲に迷惑を掛け社会に適応しない、これが彼の罪状でした。

有隣は松陰亡き後も生き続け、国木田独歩が彼を訪ねたときには八十歳になろうとしていました。 終生ひねこびた性格は治らずに、厭な人物として通したようです。
しかし、国木田独歩が描く富岡先生は、「眉をひそめらるる者も随分あるらしい程の知名な老人」であったにもかかわらず魅力のある人物に仕上がっています。

吉田松陰よりも富岡有隣が年上でした。 松下村塾では年下の松陰を「尊師」と呼んでいた富岡は、松陰亡き後は彼を呼び捨てにし、たいした男ではないとまで言っていたとか。

~~~ちょきちょき~~~
本を読む楽しみのひとつは、他の本とのつながりを発見することです。
国木田独歩は、実はほとんど読んだことがなくて、「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」を少しだけ読んで、「富岡先生」は題名しか記憶がありません。
機会があったら読んでみたいと思います。

貿易商人クンからメールをもらいました。
「歴史小説はまるごと信じないようにしたほうがいいよ。 僕もシバリョウタロウはずいぶん読んだけれど、本によっては全然ちがうことが書いてあった。 そう思って読まないとね。 でもさ、歴史小説は幕末がおもしろいや、簡単でいい。」

「わたしね、織田信長の顔はどうしても高橋幸治なの」としたためた、私への返信だ。
さて、この写真の中に国木田独歩がいます。 さぁどの人だと思いますか?



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1 コメント

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お間違えでは (神無月仏滅)
2015-02-10 22:43:36
富岡有隣ではなく、富永有隣ですよ。
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