緑皮車の客車区

ある大学生の非日常、旅行記、Trainz、FS、その他ゲームとの戯れなどなど・・・

【CFR】ティミショアラ→ブカレスト【1692列車】

2013年08月19日 23時29分31秒 | 2013年春 東欧
前日に、なんとか宿のベッドにありついた僕は、市中心部から歩いて20分ほどのティミショアラ・ノルド駅に向かった。時刻は既に夕暮れで、暗くならないうちに翌日の切符をとっておこうと思った。

ティミショアラ駅構内は、夕暮れでも電気がまだ点いていなく、非常に暗かった。浮浪者らしき人や、物乞いの子供もいる。やはり、今までのヨーロッパの駅とはだいぶ様子が違う。なんとなく、ルーマニアに来たんだということを、初めて感じた。

窓口は4つあり、そのうちのひとつに、「明日の6時5分発のブカレストまでの切符が欲しいんだけど・・・」といいかけたところで、窓口のおばちゃんが「スピーク、イングリッシュ・・・ムニャムニャムニャ・・・」と、反対側の窓口を指差した。どうやら、4つの窓口のうち、英語が通じるのはひとつだけらしい。

反対側の英語が通じる窓口で、翌朝の6時5分発のインターシティの切符を頼む。ところが、窓口のおばさんはなにやら発券してくれない。なにやら言ってるけど、よく聞こえない。状況がよくわからず、「なぜですか?満席なんですか?」と聞いていると、隣からポンポン肩を叩かれた。そっちを向くと、おっちゃんが「It's STOPPED!明日はその列車は走らないんだよ。」と教えてくれた。

なぜだかわからないが、その列車は運休らしい。窓口のおばちゃんが、モニターをこっちに向けて、残りの選択肢の列車を見せてくれた。

4:40→13:10
14:10→22:27
22:00→7:15


予てから、ブカレストにどうやって入るか、ということについて僕は悩んでいた。というのも、どう予定を組んでも、ブカレスト着が早朝か深夜になってしまうのだ。ナイフ強盗、スリ、ロマのDQNに野犬、ぼったくりタクシーなど、東欧で治安が最悪といわれている、あのブカレストを早朝か深夜に歩くということは、いろいろな噂を聞いていた僕にとって、肝試しそのものである。そして、ルーマニアの夜行列車で、ロマの列車強盗に襲われた日本人の話も聞いていた。

ということで、その場のテンパった判断で、4:40発の列車を予約してしまった。値段は、533キロを95.1レウ(2700円)。いつの間にか、僕と販売員の取引を、ロマの男が数人、真横で割り込んで堂々と覗き込んでいた。何もされなかったけど。ちなみに、あとでちゃんとトマスクック時刻表を見たら、「日曜運休」とちゃんと書いてあったorz

ホステルに帰る途中、最近、ブカレストで起きた、あの日本人女子大生の悲劇を思い出していた。彼女は深夜のアンリ・コリンダ国際空港に降り立ち、よくわからないままタクシーに乗り、深夜の東欧の都市の郊外を連れまわされたあげく、暴行されて殺された。明日は朝4時にこの公園の横の、昼でも人気のない道を通らなければならない。やっぱりUターンして、チケットをキャンセルしようか。そんなことを考えていたけど、もうなすがままにしよう、と考えた。

その日の夕食は、中心街にあるマックだった。ルーマニアはあまり物価が安くない。ビッグマックセットで、日本円で500円ぐらいだった。明るくて美人のルーマニア人女子グループがおしゃべりしている店内を見ながら、今日の駅との差をなんとなく感じていた。

宿に帰って、結局、僕はエクストラベッドをつくってくれたスタッフに、明日の3時半にタクシーを予約してもらった。



翌朝、真っ暗闇の屋外に出て、スタッフに言われたとおりに、宿の鍵を郵便受けに入れた。予約どおりに、ルーマニアの黄色いタクシーが迎えに来ていた。運ちゃんに、「GARA DE NORD?」と確認してから乗り込んだ。

悪名高いルーマニアのタクシーだが、このタクシーはメーターもちゃんと動いていて、寄り道も全くせず、暗闇のティミショアラを駅まで疾走した。料金も、ボラれることなく、宿のスタッフが言っていた相場どおりの9.8レウを示された。僕は、お釣りを渡すのもめんどくさいし、朝はやくから大変だろうということで(深夜料金かもしれないけど)、15レウを「これはチップだよ」と言って渡した。途端に運ちゃんは陽気になり、ザックを出すのも手伝ってくれ、「バイバーイ^^」と言って車を発車させた。意外と誠実だった。


夜のティミショアラ駅構内。発車30分以上前だが、列車は既に入線していた。どことなく、中国の駅に雰囲気が似ている。

ルーマニアの鉄道はほとんどが指定席だ。指定された号車に乗り込み、自分の席を見つけるが、通路側の僕の座席は、ロマの少年が横になって寝ていて占領していた。周りを見ると、列車はガラガラだったので、適当な窓側に座った、実質上の自由席らしかった。反対側の線路では、シーメンス製の最新鋭電車「デジロ」が停車していた。


座席から判断するに、この車両はドイツのお古らしい。Railworksのハーゲン~ジーゲンで出てくる客車と同タイプだ。両端がコンパートメント、中央が開放座席となっている。


ずっと真っ暗闇をごとごと走っていたが、夜が明けて景色が確認できるようになる。どうやら、トランシルバニア山脈の端にさしかかったようだ。トランシルバニアというと、ドラキュラを連想する。


車内。


なんとなく、車窓に見える村は、お世辞にも豊かとはいえなさそうだった。


このような廃工場を、ブカレストまでにたくさん目にした。社会主義時代は元気に動いていたんだろうか。

ルーマニアはチャウシェスク独裁政権崩壊後、貧富の差が急拡大し、東欧でも有数の治安が悪い国に成り下がってしまったという言われようだが、たしかに、車窓で見る感じ、この国は今まで見たヨーロッパのどの国よりも貧しそうだった。中国の田舎と似たような貧しさを感じる。

ただ、東欧を旅していて感じたのが、東欧の田舎はゴーストタウンのように、人気がほとんどない。どれもしんと静まり返っている。都会でも田舎でもどこにいっても、常に人と喧騒があり、活気に溢れている中国とは大違いだ。東欧は僕が想像していた通り、暗く、どんよりとしている。


オルソヴァという駅に到着した。これもなんともまぁ、革命的な駅舎。完成時はさぞピカピカだったんでしょう。


反対側ではボロボロの貨車が停まっていたが、すぐに動き出した。一瞬、留置されている廃車体かと思ったが、現役のようだ。ルーマニアの鉄道は、国営であるが、
CFR Călători, 旅客列車の運行
CFR Marfă, 貨物列車の運行
CFR Infrastructură, ルーマニア鉄道のインフラ管理機構
Societatea Feroviară de Turism, or SFT, 観光鉄道の運行
の4つに別れている。


湖かと思うかもしれないが、これはドナウ川である。対岸はセルビアだ。大陸の河川は規模が違う。


1972年に、ルーマニアとユーゴスラビアの共同開発で完成した「鉄門ダム」。水運用の水門も付随している。鉄門とは、ここらへん一帯の景勝地の名称であり、高校の地図帳にも載っている。


こんなところにも創価の三色旗・・・ではなく、ルーマニア国旗をイメージした変電所のペイントが面白い。


ルーマニアのErectroctere社製のクラス40とクラス45。ルーマニアの機関車は、ほとんどがクラス40番台のこんなタイプの機関車だ。ちなみに、中国のND2型ディーゼル機関車も、Erectroctere社製である。


ドナウ川から分かれると、こんな感じで荒野に油田が見えてくる。実は、ルーマニアは産油国である。エレナ・チャウシェスクが、産油国ルーマニアの工業でも重要な工業化学の博士号を詐称したという話は有名だが、真相は不明である。


何型か現地の鉄オタに聞かないと不明。ルーマニアの40番台の機関車は全部似てる。


ルーマニアの田舎では、今日でも馬車が現役。


クラヨバの街。石油を運んでいたであろう錆び付いたパイプラインと、社会主義なアパート。


たくさん停車しているMARFAの貨車。


クラヨバ駅で、けっこう客が入れ替わる。スカーフを巻いたおばあちゃんが切符を見せながら、「ちょっとあんた、ここはあたしの席だよ!」的なことを言ってきたので、席を移った(ルーマニア語わかんないけど)。


ルーマニア国鉄の旧塗装客車。

ここで、目の前に座っていた男が、「ねぇ、君、英語かルーマニア語は話せる?」と話しかけてきた。僕が英語だけは話せる、と答えたら、「韓国人か中国人の学生?僕は、ルーマニアの大学生だよ。」と自己紹介をしてきた。最初は警戒していたけど、話してみると、ティミショアラの大学で土木を学んでいる大学院修士課程の院生とのことだった。同じ理系だったので、いろいろと話が弾んだ。

Lさんは、ルーマニアのことについていろいろと教えてくれた。
「見てくれよ、社会主義が崩壊してから、システムはみんなダウンして、車窓は廃墟だらけだろう。今見えるとおり、都市の郊外にはゴミの山が広がっている。これがルーマニアなんだ。優秀な学生は、みんな西欧に行ってしまうしね。」

彼曰く、ルーマニアでの就職はなかなか厳しいようだった。彼は既に、ブカレストの企業への就職が決まっているという。でも、ルーマニアの就職で大事なのは「コネ」であって、そういうのがない人の就職は難しいと言っていた。

「ルーマニアで多いのはフォルクスワーゲンかダチアだね。日本車は高級車だよ。そっちでは、逆に欧州車のほうが高級車なのか!面白いね!」

そんな会話をしていると、よくわからない男がやってきて、Lさんの隣の座席に値札のついた商品を置いていってそのまま去っていった。
「物売りだよ。懐中電灯とか、おもちゃとか、ガラクタばっかりだよ。こいつらのほとんどは中国製だね。」

隣のボックス席では親子がいたが、男は子供に、実演入りでおもちゃを売ろうとしていた。が、表情は死んだように無表情である。東欧の客引きはしつこくはないが、商売する気があるのかというぐらい死んだような声と表情は、もうちょっとどうにかならないかと思う。少しぐらい営業スマイルを見せたらどうだろう。イスに置かれた商品は、しばらくすると回収される。

物売りだけでなく、物乞いも乗ってくる。脚をひきずりながら恵んでくれと、座席の前で止まる(すぐに去っていくけど)。ロマではなくルーマニア人っぽかった。数分後に、車掌に追い立てられていくのが見えた。

余談だが、ルーマニアの大学では、授業を選択するという概念がないらしい。全て、高校のように受ける授業が決まっているようだ。


列車は荒野を進んでいく。


ロシオリ駅。これもまた革命的な駅舎である。


ブカレストも近くなると、こんな感じの平原が続くようになる。

だんだん、東京の郊外と似たような感じで家がポツポツ出てきた。ブカレストが近づいているらしい。列車は、止まったり動いたりを繰り返すようになる。

「ノルド駅の北側はロマが多いから、あいつらが線路を渡ったりするんだよなぁ。」

Lさんがそう言った。でも、時計を見る感じ、ブカレストには定刻に着きだった。ルーマニアの鉄道はもっと遅れるかと思っていたから意外だった。

「あいつらがいるからルーマニアのイメージを悪くなるんだよなぁ・・・」

Lさんがぼそりと言った。やはり、ロマはルーマニアでは嫌われているというのは本当のようだった。


予定の13:10とほぼ同じ時間にブカレスト・ノルド駅に到着した。


治安が悪いといわれているブカレスト・ノルド駅構内。しかし、見た感じでは、マックや屋台もたくさんあり、天井も明るく開放的で、利用客もたくさんいるので、そんな感じはあまりしなかった。

「ブカレストはそんなに怖い街じゃないよ。でも、タクシーには気をつけてね。本当に最悪だからw」
Lさんとそんな感じの話をして、最後にメアドを登録し、握手をして別れた。Facebookは時間を無駄にしていまうからやらないのだという。Twitterはルーマニアではあまりメジャーではなく、ルーマニアにはまたルーマニアのSNSがあるのだという。


壮厳なたたずまいのブカレスト・ノルド駅。

Lさんはバスに乗り換えて東の郊外の街へ、僕は歩いて10分のフレンズ・ホステルへ。さぁ、東欧最悪の街、ブカレストでのくるま氏の運命や如何に!?(続く)

【ミニバスで】ベオグラード→ティミショアラ【ルーマニアへ】

2013年08月16日 08時49分39秒 | 2013年春 東欧
翌日は、ルーマニアのティミショアラに向けて出発。

ベオグラードからティミショアラまで、列車はあることはあるのだが、ティミショアラ到着がたしか夜の10時過ぎとかになってしまう。ルーマニアは、旅行者の間でも治安が悪いことで有名だ。そんな時間に、夜のルーマニアを歩きたくはなかったので、ネットでググッて見つけた「GEA Tour」という会社のミニバスを使わせてもらうことにした。たまには自動車で移動もしたかった。

僕は直接オフィスに出向いてミニバスの予約をとることにした。GEA Toursのオフィスは、アメリカ大使館のすぐそばにあった。(今は引っ越したようなので、HPで確認を。GEA Tours Belgradeとググれば出てくる。)事務所の二階に行くと、緩い雰囲気で職員が談笑していた。入って正面のデスクでは、係員が二人客の対応をしていて、空いてから店長っぽい人のところに座り、明日そちらのミニバスでティミショアラに行きたいと言った。職員の人は英語が話せるので、特に何の問題もなく対応してくれ、申請用紙に必要事項を書く。

ここで、「携帯電話番号とかメールアドレスはないの?」と聞かれたが、「僕の携帯は日本でのドメスティック専用だから、海外では使えない」ということを話したら、「マジか、それじゃあ迎えに行けないよ」と言われる。ミニバスサービスは、家からティミショアラの目的地までドアツードアでハンコンで言ってくれる便利なものなのだ。職員の男は、しばらく考えたあとで、「連絡手段がないなら、しょうがない。明日の10時半から11時ぐらいに、ここに来てくれるか?」と言い、僕は「全然問題ないっすよ」と答えた。料金は20ユーロ。念のため、何回も「午前の10時半から11時だよね?」と確認した。

翌日、ホステルのチェックアウトタイムが10時だったので、10時半過ぎまで公園で本を読んだりして時間を潰し、10時半にGEAのオフィスに出向いた。昨日と同じ、社長っぽい人が僕のことを覚えていてくれていて、挨拶をしてくれた。何か飲みたいものはない?タダだよ?と聞かれて、とりあえず水を頼んだ。普通に親切な店だ。

11時半ぐらいに、運転手の人とオフィスを出発。最初はブジョーのミニバンの助手席に乗せられて、「これで行くのかな?」と思っていたが、新市街側の車庫みたいなとこで降ろされて、大きめのバンに乗り換えた。


セルビアも運転がなかなか荒い。ウインカーはあんまりつけないし、車線変更はしょっちゅう。乗ってたブジョーはやっぱりMT車。あと、セルビアに入ってから、ルーマニアの「ダチア」を多く見るようになる。


乗ったバンはこんな感じ。(引用元:http://www.yellowpages.rs/sr/gea-tours-kombi-prevoz/4-14-1394-13545/4071/slika)


出発したあとは、客を拾うためにベオグラード市内をぐるぐるまわる。新市街ではこんな感じの共産圏なアパートが目立つ。


だいぶ郊外まできて、どうやらロマの村みたいなところに来た。道路はボコボコで、車が激しく揺れる。そこらへんを歩いているロマの人の視線をけっこう感じる。お世辞にも豊かそうには見えないところだ。

ある一軒の家の前で停まり、前で遊んでいた子供達がわらわらと集まってくる。子供たちは車に興味深々で、中を覗き込んで僕を見るなりなにか驚いたように叫んだ。「外国人がいるぞ!」とでも言っているんだろうか。キーネ!キーネ!と言ってるから、中国人と思ったんだろう。


カメラを向けると、カッコつけだすコイツ。もう一人は隠れる。


オレイケメン?


みんなで並んでたんだけど、バスに乗るべき人がやってきて解散に。

海外で子供に絡まれるのは、なかなか面白い。ちなみに、ロマの人達のなかから出てきた乗客は、民族衣装を着た白人のおばちゃんでした。ここで何をしていたのか不明。


引き返してまたベオグラードに戻る。


あんまり興味なかったから行かなかったけど、聖サヴァ大聖堂が見えた。


1時間ほどかけて客を集めると、ベオグラードを離れてこんな道をずっと走る。


こういう道を自分でドライブして走ってみたい。


たまにこんな感じの村が現れるが、人気がない・・・。道路にはたまに、バケツと雑巾を持った子供が立っていて、洗車してやるとドアからねだってくる。そんなストリートチルドレンも多く、見た感じ、だいたいがロマだ。


セルビア側の国境に到着。国境審査は緩い。パスポートをいっしょに集めて、顔の確認もしないで、国境審査官が作業みたいにパスポートをスキャンしていく。ちなみに、セルビア出国の際はスタンプが省略される場合が多い。

適当かと思いきや、一人の男が呼び出されて、画面を見せられてこれはなんだ?というように問いただされている。男と運転手と国境審査官はしばらく話をしたあと、男のスーツケースは下ろされて、彼だけ事務所のほうに連行されてしまった。車内で乗客がガヤガヤ騒いでたけど、「コンピューター」が聞き取れただけで、あとは言葉がわからず何があったのか不明。


ルーマニアの国境はちょっと立派。一応ここからはEU圏。EUだから厳しいというわけでもなく、パスポートチェックはさっきと同じ。


ルーマニアに入ってすぐのところで走っていたレールバス。一応、人が乗ってるのが見える。


ルーマニアに入っても景色は同じ。代わったといえば、創価の三色旗・・・ではなく、ルーマニア国旗を掲げている家が増えたぐらい。1時間もしないうちにティミショアラに到着。

降りる前に、セルビア人の女の子が英語で「どこから来たの?」と話しかけた。「日本だよ^^」と言うと、「学生?一人旅?」ときて、「大学生で、一ヶ月ぐらい東欧を一人旅しているんだ」と答える。そのあと、何を話したかよく覚えてないけど、会話が弾んだ。乗客と言葉を交わすのはここが初めてだった。東欧では、乗り合わせた乗客と言葉を交わすことはほとんどない。


ティミショアラは小さいけどきれいな街。ルーマニアだけど治安もよさそう。


一見、西欧の街並みとあまりかわらない。

さて、宿はFreeborn Hostelと言う場所をチェックしていたが、予約はしていなかった。ルーマニアの田舎町だし、空き部屋はあるでしょうということで凸したわけだ。

で、こういうことを書いたからには、何があったかわかると思うけど、まさかのベッドがない・・・という事態になってしまった。

兼ねてから不安だったルーマニアの初日にして焦る。もう一軒、町から少し外れたところにホステルがあるから行ってみようと思ったが、もう一人のスタッフが、「ちょっと待って。ホステルを探すのは大変でしょう。まだ考えがあるよ」と言い、どこかに行った。しばらくして戻ってくると、「エクストラベッドを用意するから、そこで寝ていいよ。」と言い、今日は泊めてもらえることになった。マジでネ申。

このFreeborn Hostel、清潔だったし、Wiiもあるwスタッフが前述の通りすごく親切なので、オレ的にかなりオススメ。

次回は、東欧最悪とよばれている街、ブカレストまでの鉄道の旅をお送りします。

【セルビア】ベオグラード【散策】

2013年08月15日 21時30分30秒 | 2013年春 東欧
ベオグラードでの散策は、飛ばそうかと思っていたんですが、なんとなく、写真でも適当に並べて紹介してみようかと思いました。ちなみに、僕がベオグラードに滞在したのは、早朝6時半に列車で到着してから、次の日の10時半にミニバスで発つまでの約31時間のみです。

2時間か3時間ぐらい眠って、顔を洗おうと部屋を出ると、さっきの長身のボウズ男ではなく、ひげ面のおっさんがレセプションのソファーに寝転がってテレビを見ていて、僕を見るなり「チャオー!」と挨拶。なぜか、ここのホステルのこのおっさんは、いつもイタリア語の「チャオー!」という挨拶をしてくる。顔を洗った後、スーパーの場所などを聞くと、スーパーの場所だけでなくいろいろなところを身振り手振りで教えてくれた。英語があまりできないらしかった。シティを「チティ」と発音したり、ローカルを垣間見れたような気がして面白かった。

このホステル、夜はスタッフなのか近所の住人なのかよくわからない人が集まって、寝室のドアを開けてすぐのレセプションで大声で話をしていてうるさかった。ホステルというより本当の安宿な感じで、面白い体験だったが、オススメはしない。


おっさんからもらった地図をもとに、NATO空爆跡に。といっても、駅から歩いて5分もしないところにある。


コソボ紛争中のNATOによる「アライド・フォース作戦」で、ミサイルをぶち込まれた連邦国防省ビル。当時のままで残されている。建物の足元には兵士が立っていた。写真撮影をしていると撮るなと注意されると聞いていたから、遠くからコソコソ撮っていた。

15年ほど前、もう僕が生まれた頃には戦争をしていた国がこのセルビアだ。ユーゴスラビアは、さまざまな民族や宗教が入り混じっていて、複雑な状態だ。大学受験生のときに、地理の勉強でこのあたりの民族と宗教の分布が特に覚えにくかったのを覚えている。15年前に、「民族浄化」というものが行われていたのがこのユーゴスラビアなのだ。「この民族は邪魔だから追い出そう。追い出すといっても、外に出すのも面倒だし、どうせ少数で弱いんだから、この世から追い出してしまおう」というのが民族浄化だ。そんなことが15年前に実際に行われていたのだ。

しかし、この2棟のビルを除くとベオグラードには紛争の傷跡はほとんど残っていなかった。教科書でも紹介されている建物だけど、ほんとうに、これだけ?という感じだった。もっと、そこらへんに銃痕とかが残っているのかと思っていたが、空爆だけだったからかそんなものはなく、あとは普通に穏やかな平和な街だったのだ。ベオグラードは。15年前に戦争をしていたなんて信じられなかった。


このような旧式のトラムだけでなく、新型のアルストム製のトラムも走っている。


ベオグラードは、旧市街も、今までのヨーロッパの街とは少し違う顔をしている。黒ずんだ建物や、たまにソ連式っぽいアパートも見える。


そこそこ人が多い中心街で。レーニン像が残っているのかと思ったが、違うらしい。


元要塞のカレメグダン公園にも行ってみた。サヴァ側の向こう側の新市街を望む。顔を右に向ければ、サヴァ川がドナウ川に交わるのが見える。


サッカーをする子供をはじめ、いろいろな人で集まっている。


軍事博物館にも行ってみた。


軍事博物館の入り口にドヤ顔で展示されているNATO軍のハンヴィー。予想するに、戦争で奪った戦利品だろう。

この博物館では、古代から現代にいたるまでの、主にユーゴスラビアでの戦争の歴史を展示している。説明書はほとんどがセルビア語。ミリオタよりも、世界史が好きな人向けの博物館だ。入場料は150ディナール。

だが、細かいお金が用意できず、受付の軍服を着たお兄ちゃんに、「今はお釣りが用意できないから、先に中をまわってきて。」と言われた。だが、展示を見終わってまわってきても、「今回はお金を払わなくていいよー」と言って、外に出してくれた(笑)。これは受付のお兄ちゃんがいい人だったのか、めんどくさがりなのかよくわからなかったが、ユーゴに渡航暦のある先輩は、「お金儲けをする気がないからだと思うよ」と言っていた。


ベオグラードの中心街。全体的に穏やかな地方都市みたいな感じだけど、ここは活気で溢れている。ほんとうに、戦争があったなんて信じられない。ちなみに、ベオグラードはハンガリーやチェコと比べ、治安もよさげな印象だった。

あと、セルビアに入った途端に、アジア人を全く見なくなった。ドイツやチェコは、卒業旅行やツアーの日本人観光客、どこでも声がデカい中国人観光客ばかりだったのだが、東にいくほど減っていき、セルビアでは見た記憶がない。そういえば、東欧諸国に入った途端に、中東系や黒人などの人種もめっきり見なくなった。見るとしても、移民ではなく観光客だった。


なんとなく、旧サヴァ橋を渡って、新市街側に行ってみようと思った。貨物駅が見えたが、列車が来る気配はないし、コンテナや貨車もところどころ錆び付いている。鉄道輸送は、貨物も盛んではないようだった。


なんとなく、この写真を見ると、橋の上で感じた孤独感を思い出す。

サヴァ川の上で、よくわからない孤独感に陥っていた。日本人どころかアジア人のいないこの街に、一人でやってきて、アパートの一室にある、外国人が泊まらないような宿に一人で泊まっている。もう日は沈もうとしている。橋の上は、車やトラムがひっきりなしに通るけど、歩道の歩行者は誰もいない。そもそも、日本人でセルビアという国がどこにあるのか知っている人はどれぐらいいるのだろう?僕がここにいるということを知っている人はいない。明日はルーマニアに現地人と混ざってミニバスで揺られていく。旅はまだ半分も過ぎていない。これからどんどん東に行く。

旅をしているときに感じる、心地よい孤独感だった。一人で外国を旅して、こんな気持ちになったのは初めてだった。


宿に帰って、セルビアの国民的ビール「ゼーレン」を飲む。正直、苦くてあまり好きではない。セルビアディナールは、結局ほとんど使わなかった。

自分だけかと思っていた宿の客は、新しく二人入ってきた。若い男性と、30歳ぐらいの女性で、二人ともセルビア人のようだった。宿泊客まで全員セルビア人で、最後まで超ローカルホステルだった。

次回は、ルーマニアに突入です。


【ハンガリーからセルビアへ】ブダペスト→ベオグラード【341列車】

2013年08月14日 23時38分26秒 | 2013年春 中欧
ブダペストの次は、なんとなくセルビアに寄ってみる予定だった。セルビアというと、元ユーゴスラビアで、15年ほど前には戦争をしていたところだ。ちなみに、GTA4の主人公のニコ・ベリックの出身地は、実はセルビアなのである。ニコはボスニア戦争で仲間の裏切りによって自分のいた部隊が全滅し、その復讐も目的の一つとしてリバティシティにやってきたのだ。

話がずれたが、僕のなかのセルビアのイメージはそんな感じだった。戦争のイメージがどうしても強いが、サークルでセルビアに行ったことがある先輩によると、そんなイメージが嘘なぐらい平和で穏やかな国だという。僕は基本、鉄道があまり発達していない地域には興味がないのだが、いろいろと縁があるような気がしていってみることにした。

ベオグラードまで、昼の列車で行くのか、夜行で行くのか迷っていたが、昼の列車に乗ると、夜の9時ぐらいにベオグラードに着くことになる。ユーゴの列車はよく遅れると聞くし、夜の東欧の街は歩きたくない。結局、時間の節約もしたかったし、夜行で行くことにした。前述したかもしれないが、東欧の夜行列車は治安が悪く、コソドロから列車強盗の巣窟となっていると聞いた。ハンガリーあたりからロマの人口も多くなってきて、差別的なことを言うのは本当は好きじゃないけど、彼らが夜行列車で切符も持たずに乗り込んできて、旅行者から金品を盗む、と言う話は渡航前にも聞いていたことだ。1等は金があると思われて狙われる、クシェットは完全開放なので被害が一番多い。だからといって、個室寝台は高すぎる、ということで、普通に2等座席の切符を買うことにした。だいたい、寝台にしても、国境でどうせ起こされるし、二等もコンパートメントが空いてたら、横になれる可能性はあるのだ。

切符は、ブダペスト東駅で前日に購入した。国際列車の値段は常に不明で、いつも値段を聞くまでヒヤヒヤする。だが、ブダペストからベオグラードまでの2等の切符は、今回はたったの15ユーロで済んだ。380キロの距離を、15ユーロで移動できるのは安い。やはり、ハンガリーに入ると、途端に列車の料金が安くなるようだった。ちなみに、地球の歩き方には、「国際学生証を提示すると学割がきく」と書いてあるが、僕が聞いたところ、「No」と無愛想に即答されてしまった。ここでも切符は投げてよこされたが、切符は手書きだった

アンダンテの人たちと別れの挨拶をして、夜のブダペストを歩いていくことにした。平日でも9時過ぎには人通りがほとんどなく、背後にスリがいないかどうか、たしかめながら早足で歩く。ブダペスト東駅はガラガラだった。東京や中国の駅が深夜でも人でごったえがえしているのと対照的だ。


夜のブダペスト東駅。20分前でも既にベオグラード行きの列車は入線していて、乗り込むことができた。なんとなく、右側のハンガリーの普通列車の客車の塗装が好き。


ここでも、列車は東欧デフォのコンパートメント。一人だと強盗にあったときにどうしようもないので、若い男性と女性が座っているコンパートメントに入れてもらった。どうでもいいけど、女性は前髪ぱっつんのブロンドだった。


列車は、ブダペスト22:20発、ベオグラード6:32着の341列車。サボを見る感じ、昼間はECとして運用されることがあるようだ。

列車はゆっくりと、黄色い明かりがともった無人に近いブダペスト東駅を発車していった。すぐに車掌が検札にまわってきて、手書きで検札サインをされる。若い男性の乗客はiPodをずっと聞いていて、前髪ぱっつんの若い女性のほうは、ずっとパソコンをやっていた。それ以外は、窓の外は真っ暗闇で何も見えなかったということぐらいしかない。

途中の駅で、若い男が降りていった。時刻は0時をまわっていたと思う。地元の人にとってはなんてことないのかもしれないが、旅行者の僕にとって、深夜の東欧の真っ暗な田舎町を歩くなんて怖すぎて、降りていった男性をなんとなく尊敬する目で見ていた。いっぽう、そのあと、前髪ぱっつんの若い女性のほうは、僕の前で普通に、堂々とコンパートメントの3列座席に横になって眠ってしまった。この人ノートパソコンもiPadも持ってたし、女性だし・・・。東欧の夜行列車は怖いと聞いていたが、案外そうじゃないのかもしれないな、と考えてた。ちなみに、出発前は、僕はツイッターで

「寝たらパクられる寝たらパクられる寝たらパクられる寝たらパクられる寝たらパクられる寝たらパクられる寝たらパクられる寝たらパクられる寝たらパクられる寝たらパクられる寝たらパクられる寝たらパクられる寝たらパクられる寝たらパクられる寝たらパクられる寝たらパクられる(以下略

とpostしていた。


列車が停車し、国境の駅に着いた。ドアが開き、査証の職員が乗ってくる。同室の前髪ぱっつんのお姉ちゃんは眠ったままだ。

コンパートメントのドアを開ける音がだんだん近くなってきて、やがて僕達の番がきた(女の子はまだ寝ている)。大柄なスキンヘッドの、くりくりとした目をした国境の職員が姿を現し、ガラガラガラッ!っとドアを開けた。職員は僕を見て「パスポート、プリーズ」と言い、用意してあったパスポートを差し出すと、ぱらぱらとしばらくめくったあと、ポン、とEU圏出国のスタンプを押した。前髪ぱっつんの女の子のほうを目を覚まし、職員のほうを見て「Ticket...?」と言った。

かわいいいいいいいいwwwwwww声かわいいいいいいいいいwwwwwwwww

ブロンドのポニーテール前髪ぱっつんといい、声優みたいな声といい、もうめちゃめちゃ萌えた。ちくしょう、一言ぐらい会話してればよかった。

話を戻すと、国境の職員は、「Passport,or your ID^^」と言い、前髪ぱっつんの女の子は、ハンガリーの国旗がデザインされた身分証明書みたいなのを取り出し、職員に渡した。職員はそれを軽くチェックして終わりだった。どうやら、ハンガリー人は、国境通過の際に、パスポートがいらないみたいだった。

セルビア側のスタンプもハンガリー側のEUのスタンプも残っているのだが、人生初の列車での国境越えの体験の記憶はこれしかない。とりあえず、列車はハンガリー側でいっかい停まったあと、セルビア側にも停まり、夜のセルビアをベオグラードに向かって走り続けた。

あれだけ寝たらパクられる!死ぬ!と言っていた僕も、睡魔に耐えられず、コンパートメントの横になって爆睡した(笑)念のため、パックセーフをかけておき、座席にワイヤーをくくりつけておいた。腕に肩ひもを通しておいた状態で寝た。

朝目が覚めると、広い平原のなかを走っていた。ところどころ駅があり、列車を待っている乗客がたくさんいるのが見える。ベオグラードが近いようだった。途中の駅で、労働者風の手ぶらの男が乗ってきた。なんとなく怪しかったが、降りるときのためにパックセーフを外す作業をした。男は、「なにやってんだこいつ?」というように、ちらっとこちらを見たが、あとは早朝で眠いのか、眠ってしまった。

車窓を見ていると、強烈な落書きだらけのロシアのエレクトリーチカ風の車両が目立った。


写真撮れなかったので引用:http://djleekee.wordpress.com/2013/02/15/graffiti-trains-in-belgrade/

やはり、東に行けばいくほど落書きが強烈になり、列車のスピードが遅くなっていく。


やがて、今までのヨーロッパ風の街並みとは一変し、平壌を彷彿させる無機質な団地群が見えてきた。ベオグラードだ。


サヴァ川を渡り、ベオグラード旧市街に入る。朝日に映るベオグラードのシルエットは、なんだか近代的そうだった。


今までの首都とは違い、ペンペン草の生えた線路が目立ち、サヴァ川を越えてベオグラード駅まではなんと単線だった。鉄道があまり発達していないようだ。

ユーゴ圏の列車はよく遅れると聞いていたが、意外にも、定刻ぴったりに到着した。セルビアはまだちゃんとしているのかもしれない。コンパートメントの二人は最後まで爆睡していたので、「We have arrived!」と言って起こす。前髪ぱっつんの女の子は、「Thank you :)」と言って支度をはじめた。うん、やっぱり声が萌えるわ。前髪もだけど。


右側が乗ってきたハンガリーの車両。


セルビア鉄道の一般的な電気機関車、441型。セルビアの鉄道車両については、英語でも文献が少ない。


一国の首都にしては、非常に小さい駅だった。僕が住む松戸駅よりも小さい。


セルビアではキリル文字が使われている。といっても、街中に出ると、けっこうローマ字も併用されてる。


駅を出ると早速、「ハロー、ジャパン、タクシー?」と客引きに声をかけられる。早朝だからか人があまりいない。


日本のODAで贈られたというバス。こんなところで日本国旗を目にするのは意外だった。


今回の宿は、写真中央のアパートにある「Jasmin Hostel」というところに泊まろうとしていた。


こんな社会主義時代の匂いプンプンの階段を登っていく。このワンちゃんは、踊り場でひっくり返ったりしてよく遊んでいた。

アパートのドアに、小さく「Hostel Jasmin」と書かれたシールが貼ってある。呼び鈴を押すと、ボウズの大柄の若い男が出てきた。一晩泊まりたい、と言うと、「10ユーロ」とだけ言われ、中に通された。薄暗い宿のなかは、液晶テレビにサッカーの試合が映されているだけで、ほかに客はいないようだった。レセプションのドアをひとつ隔てたところが6人用のドミトリーだった。

う~ん、ホステルワールドの写真とだいぶ違う気がするんだが・・・。あんま儲かってないのかな?何よりも、早朝なのに客が俺だけってのが不安。レセプション目の前だし。でも、こういうのもアリだろう、ということで、さっさと布団にくるまって寝てしまった。夜行の移動では4時間ぐらいしか寝てなかったから疲れた。

セルビア編、続く。


【ハンガリー】ブダペストの公共交通機関【街歩き】

2013年08月13日 21時15分13秒 | 2013年春 中欧
課題、試験、バイト、合宿といろいろあるうちに、ついにインドに行くのが一週間後という事態になってしまった。次の渡航までに旅行記を完成させるという目標は、予想通り達成できなかったわけだ!

総機だよ、全ては総機が悪いんだ。わけわかんない誰得のクソみたいな課題やるよりは、旅行を振り返ってブログ書いたりして、数少ない海外鉄の同志に還元するほうが有意義だろ。←ゆとり

愚痴はこれぐらいにして、ブダペストの街歩きの様子でもアップしていきたいと思います。街歩きといっても、ブダペストのきれいな夜景とかそういうのは、他のブログで俺なんかよりももっと写真がうまくておしゃれな人が紹介してるから、そっちを見てね。俺はブダペストの交通機関を中心にアップしていくよ。ごめんね。


ブダペスト東駅。僕が行ってた3月ごろは、周辺の道路は工事していたよ。


ブダペスト地下鉄2号線。急発進、殺人ドア、釣掛駆動と、共産趣味者大喜びの車両でございます。ハンガリーのガンツ製かと思ったら、どうやらほんとうに旧ソ連製らしい。


顔は二通りあって、これがそのうちのひとつ。


中央市場近くの、カルビンターミナル駅前で。こんな感じのデザインと重厚な街並みがセットだと、ほんとうに東欧って感じがする。


中央市場と、停車中のトラム。ブダペストも欧州車が多い。


ドナウ川沿いのトラム。


ヨーロッパの長距離バスとか観光バスって、こんな感じでうしろにもなにかくっつけてることが多いんだけど、やっぱりトランクかな。二階建てバスだから荷物収納スペースが小さいんじゃないかなぁ、と思うけど、JR東海バスのエアロキングって、普通にトランクあったような気がする。


ちなみに、ググるのがめんどくさい人に見せておくけど、ブダペストってこういうとこです。ここに上の写真の二階建てバスが停まってました。


王宮の丘のケーブルカー。僕はお金がもったいないんで乗りませんでした。城壁のまわりを歩きながら登るのも楽しいし。


宿の近くで、トロリーバスを撮りました。二両連接で、なんとなく、昔の上海や北京にも走っていそうな感じ。


トラムはこんな感じで、アルストム製の新型車両も走ってます。


ブダペストは、カラフルでかわいい建物が並ぶプラハとは違って、古くて重厚感のある街並み。個人的にはブダペストのほうが断然オススメですね。道はボコボコしていて、なんとなく中国の歩道を思い出す。


さっきは2号線のソ連臭プンプンの地下鉄を紹介したけど、こちらは一号線。この一号線って、実はすごいんです。なにがすごいかっていうと、実はこの地下鉄は世界で2番目に古いんです。1番はロンドンです。


地下を走る路面電車みたいな感じです。こちらの車両はハンガリー・ガンツ製。駅も、道路のすぐ下で、地下深くのソ連風2号線とはまた違います。


誰もいなくなったので、車内の写真を撮ってみました。なんかのテレビで、「世界一オシャレな地下鉄」と紹介されてたみたいですけど、ご覧の通り、落書きだらけです。東欧は裏切りません。


以上、世界で2番目に古い地下鉄でした。

余談ですが、ブダペストに限らず、東欧の地下鉄やバスの運賃は、半年に一回のペースでどんどん値上げされています。ガイドブックの情報があてにならないこともあるので注意してくださいね。物価が比較的安めのハンガリーですが、地下鉄の運賃はやっぱり初乗りでも100円弱ぐらいなのが現状です。


宿の紹介をしたいと思います。ヨーロッパでは数少ない日本人宿のアンダンテホステルです。7区のふつうのアパートの一階にあります。


この住宅のなかにある雰囲気が好き。オーナーの峯田さんもとってもいい人で、なかなか快適に過ごせました。


男性用と女性用にドミは分かれています。なかはこんな感じです。最近Facebookを見たところ、リフォームをしてさらにきれいになったようです。


こちらは、スーパーで700円ぐらいで買ってきたハンガリーならではのワイン、「トカイ」でございます。甘さを示す数字がついているのが特徴。1から6ぐらいまで数字があって、写真のモノは真ん中ぐらいの甘さなんだけど、それでもけっこう甘い。でもおいしいです。日本で買うと、4000円だか6000円だかするらしいんで、ハンガリーに行ったらぜひ飲んでみましょう。アンダンテのみなさんとおいしくいただきました。

[おまけ]恐怖の館


ハンガリーはかつてハンガリー人民共和国とよばれた旧社会主義国。共産趣味者が注目するのはこちらのスポット、恐怖の館。戦前は、ハンガリーナチの本部、戦後からハンガリー動乱にかけてはハンガリー共産党の秘密警察の本部として使われたようです。極右政権、極左政権の両方の時代で、この建物は粛清の舞台となってきたようです。


内部はアートというのか、アバンギャルドというのか、面白い形で歴史の展示がされています。写真撮影は禁止されているので、内部の写真は残念ながらありません。上の写真はこの建物で粛清された人の写真。地下室は懲罰房なんかも生々しく残っていてなかなか印象的でした。

次回は、ベオグラードまでの列車の旅を紹介したいと思います。どうでもいいけど、あしたはバングラデシュのビザをとりに行ってきます。