緑皮車の客車区

ある大学生の非日常、旅行記、Trainz、FS、その他ゲームとの戯れなどなど・・・

【IR382列車】ブカレスト→キエフ【ソ連製客車の旅】

2013年09月16日 15時28分07秒 | 2013年春 東欧
ブカレスト観光を終えた俺は、次の国、ウクライナのキエフに向かう。ウクライナに列車で行く方法はひとつ、朝6時過ぎに発車する、382列車こと「ブルガリア・エクスプレス」に乗ることだ。そう、あのブカレストを未明に歩かなくてはいけなかったのだ・・・。

5時頃にホステルをチェックアウトして、人気の全くない道を歩く。念のため、15秒に一回後方を確認しながら歩いた(笑)。このフレンズホステルは、ロマの居住区から近い。未明ならなおさら注意が必要だ。


なんとか、ブカレスト・ノルド駅に到着。駅構内は、外の静けさとうってかわって賑やかだ。マックも開店している。


そして、結局遅れている・・・。どうやら、80分ほど遅れている模様。ブルガリア国鉄、やってくれます。

僕の乗るブルガリア・エクスプレスは、ブルガリアのソフィアから、ブカレスト、キエフ、ミンスクを経由して、ロシアのモスクワまで行くかなりの長距離列車だ。運賃は、ブカレストからキエフまで11000円もした。クラスは、二等寝台の一択。ブルガリアの鉄道は、ルーマニアよりも整備が進んでおらず、よく遅れるとのことらしい。

暇なので、駅の待合室で待つ。警備員が、物乞いや置き引きなどが入ってこれないように見張っていて、乗車券を持っている人以外通さないようになっているらしいが、俺はすんなり通された。待合室も、今までのヨーロッパとは少し違う雰囲気が漂う。


待っているのも暇なので、そろそろ列車が来るかな~という頃合いに、撮り鉄を始めた。78型気動車と、40型電気機関車。ふたつとも、ルーマニア国産の車両だ。


東独製のダブルデッカーの先頭に立つ、82型スイッチャー。こちらもルーマニア製。


ルーマニアでも大活躍の、東独のダブルデッカー。中はけっこうきれい。


やがて、65型ディーゼル機関車にひかれて、俺の乗る列車が入線してきた。編成は、先頭にルーマニアの2等車が一両、うしろにウクライナの寝台車が一両、そのうしろにロシアの寝台車が2両つながってて、計4両だ。ただ、途中の長時間停車で降りたら、そのうしろの車両が切り離されていたので、もっとつなげて走っていたかもしれない。

ちなみに、ブカレスト・ノルドは行き止まり式ホームのため、折り返します。


ウクライナの車両。車掌のおばちゃんが髪真っ赤。


こちらの塗装はロシアの車両。どちらも、コルゲート巻いてて、いかにも旧ソ連的な車両だ。

ちなみに、窓の行先表示を撮ってたら、ロシア人の車掌のおばちゃんが「ニェット!ニェット!ニェット!」と飛んできた。やっぱり、ロシアは鉄道の撮影に厳しい。

切符を見せると、車掌のおばちゃんの隣にいた、パジャマみたいな服を着た超デブのロシア人っぽいおばちゃんについていけ、みたいなことを言われる。どうやら、このパジャマの、いかにもロシアの超デブおばちゃんみたいな女性も、列車の乗務員らしい。


で、案内された部屋がこの部屋。中国の軟臥そっくりだけど、寝具は上段にまとめて置いてあって、寝支度は自分でする。下段の下はトランクになっていて、荷物を収納できる。

同席の人は、ウクライナ人の男性が二人と、ルーマニア人の男性が一人。ルーマニア人の男性は、アレックスと名乗り、英語を話すことができた。これからビジネスでキエフに行き、そのあとブリュッセルに飛行機で行くのだという。この人は、けっこうおしゃべりな人で、メシもおごってくれたいいやつ。ウクライナ人Aも英語が話せて、昔サーカスの仕事の関係で、日本の静岡に行ったことがあるのだという。だけど、無口であんまり話してくれない。ウクライナ人Bはルーマニア語ができるが、英語は話せなかった。彼はずっとルーマニア人と話していた。


通路はこんな感じ。もう、旧ソ連臭がプンプンする。同席の人たちはみんなベッドメイキングをして寝てしまったので、通路のジャンプシートに座って、車窓を眺める。


相変わらず、ルーマニアの駅はボロい駅が多い。


車窓に広がる、巨大な石油コンビナート。こちらの工場は、元気に稼働している模様。


みなさん昼からお休みの様子。部屋には、ハンガーや読書灯、鏡があり、昇降用の梯子は、ドアの横に折り畳み式のがついてる。


電源プラグもあって、ちゃんと壊れていなくて充電も可能。ちなみに、車内の言語は全てロシア語。


デッキはこんな感じ。車両わたりしようとすると、「Don't move!」と言われて止められる。ちなみに、こっち側ではなくて、反対側のデッキには車掌室があり、その横には石炭ストーブがあって、鉄ちゃんなら香ばしいにおいが楽しめる!

なお、この列車、けっこう空いていて、コンパートメントは三つほどしか使われていなかった。両はじのコンパートメントのひとつは、ルーマニアの車掌の部屋、もう一つは、この列車にずっと乗っているロシア人の車掌の部屋として使われていて、4人ぐらいが交代で乗務している。だから、制服を着ていたり、パジャマを着ていたりする。


なんか絶壁みたいな景色が見えてきた。


便所。ぼろいけど汚れてはいない。これも垂れ流し式なので、停車中は施錠される。


ルーマニア国境の駅。ここで、ルーマニアの軍人っぽい人が乗ってきて、みんなパスポートを渡す。車内に緊張した空気が走る。軍人は、俺のパスポートを見ると、「Where are you from?」と言った。「Japan」と答えると、ハァ?みたいな顔をされる。どうやら、通じてないらしい。ルーマニア人のおっさんが、「Japoniaだよ」と通訳をしてくれる。それから、軍人は3回も4回も、俺の顔を睨むようにじろじろ見て、そのまま無事に出国のスタンプが押される。


やがてまた列車がゴトゴト動きだし、今度はウクライナ側の駅に到着する。この写真を撮っていると、「ここは国境だから、撮らないほうがいいよ」と、ルーマニアのおっちゃんに注意される。

やがて、ウシャンカを被って迷彩服を着た、屈強な兵士が二人乗り込んでくる。パスポートを回収するわけだが、日本人がめずらしいのか、二人は笑いながら、「見ろよ、日本人だってよ」といった風に、俺と俺のパスポートを見比べる。そのままパスポートは回収され、今度は女性の軍人が乗ってきて、入国審査が始まった。ルーマニア人のおっさんは、女性になにかを聞かれるが、「No Russian! No Ukraine!」と、答えていた。どうやら入国審査官は英語が通じないらしい。

まず荷物検査で、みんなの荷物が開けられる。それぞれ、荷物を開けられて、何か質問をされて、「ハラショ」と言われておしまい。最後に俺のザックが調べられたが、ここで俺のホッカイロが少し問題になった。麻薬だと思われているのだろうか。腹の中に入れて、こうやって温めるんだと身振り手振りで質問してもなんか通じてないっぽい。後ろから、ウクライナ人の男性がなにか言って、それでなんか納得して、「ハラショ」と言われた。


そのあとは、標準軌から広軌への台車の交換に入るわけだが、ここで入国カードの記入になる。俺のだけ英語のカードで、少しあとになって渡された。

台車の交換は、入国審査官とか兵士が車内をうろうろしてるので、あんまり撮れなかった。標準軌とロシアンゲージの違いは、10センチにも満たないのであまり大した違いはない。

1時間ほどで台車の交換と列車の再編成は終了し、無事にパスポートは返され、列車はウクライナの地をキエフに向けて走り出す。パスポートを見てみると、一番最後のページにウクライナの入国スタンプが押されてあった。旧ソ連圏の国々は、最後のページからスタンプを押していくのだ。


翌朝。


外では、エレクトリーチカの車両が見える。キエフも近い。


きれいな駅舎だ。もっと旧ソ連的な無機質で暗いのを想像していたんだが。

やがて、ルーマニア人のおっさんが起きだしてきて、「よく眠れたか?」ときいてくれる。そのあと、少し会話をする。ブカレストに住んでいるというおっさんは、「ブカレストは大丈夫だったか?」と聞いてきた。やっぱり、現地住民にも危険な都市という認識らしい。「ブカレストはいわれてるほど危険じゃなかったっすよw普通の街じゃないですかw」と言ったら、「それはお前さんがラッキーだったんだ。ブカレストは危険な都市だよ。たしかに、中心部はそこまで危険じゃないかもしれない。だけど、郊外はひどいところだ。」と返される。さらに、「これから行くキエフも危ないって話だぞ。ブカレストのギャングは銃を持っていないけど、キエフのギャングには銃がある。」と言う。俺は、「でも、俺の友達は、キエフは治安がいいと言っていたぞ?」と返すと、「俺は初めて行くけど、昨日途中で降りて行ったウクライナ人が言っていた。何はともあれ、十分に気を付けるんだ。」と話した。


広軌になったものの、列車のスピードはあまり早くない。60キロぐらいでゴトゴト走る。縦揺れもけっこうあって、安定性はあまりよくなさそうだ。中国の列車のほうがすいすい走る。


キエフに到着した。やはり、タクシーの客引きがホームに待ち構えている。どうやら、キエフ駅も改札はないらしい。


今までのヨーロッパの駅前と違って、どことなく中国の駅前と似た雰囲気がある、キエフ駅前。ここから地下鉄の入り口を探し、キエフに繰り出す。

しかし、ここの客引きは本当にやる気がない。ニコリともせず、死んだような声で「タクシー」という。無視したり、手でいらないと言っても、それ以上は全くついてこなくてあっさりしている。それで商売になるのか、逆に心配になってくる。



【ルーマニア】ブカレスト市内観光【国民の館・軍事博物館など】

2013年09月16日 12時40分59秒 | 2013年春 東欧
ただ今、管理人はインドのバラナシからブログを更新しています。正直な感想、インドは辛い・・・。人生14か国目ですが、これほど帰りたいと思わせた国はないです・・・。

と書く予定でしたが、やはりインドの宿のネット事情ではブログの更新ができず、結局上海に戻ってからブログを書いています。

一言でいうとアレですね、インドに来ると、中国が先進国に見えます、はい。あの中国が、です。先進国は言い過ぎでも、中国が準先進国、東欧は先進国、日本と韓国はSFといったところでしょうか。はい。インド田舎すぎてやることなさすぎで、宿に引きこもってブログの更新をしたりしている次第であります。

インドに疲れてしまって、9月11日には上海に戻りました。では、東欧旅行記に戻ります。

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フレンズホステルは、歩いて10分ほどしたところにありました。駅前だというのに、人気は少ない。途中、悪名高いブカレストの黄色いタクシーが、クラクションを鳴らして客引きにくるが、いらないと手をふると、おとなしく去っていく。


こちらが今回の宿、フレンズ・ホステル。外見はボロ屋だが・・・


内装はけっこうキレイで、スタッフも親切。ここでサークルの先輩と合流。

サークルの先輩とはここで落ち合うことになっていた。とりあえず、飯でも食いにいくことにした。

訪れたのは、フレンズホステルからちょっと歩いたところにあるカリフール。このなかに、ルーマニア料理のチェーン店の「La Mama」があった。

列車のなかで出会ったLさんに、ルーマニアの料理をいろいろおしえてもらった。僕はメモをとっていて、それと同じものを注文した。


こちらは、ルーマニアのスープ、チョルバ。


こちらは、ルーマニアの主食。右側がママリガという、とうもろこしを練ったもの。左側は、サルマーレという、いわゆるロールキャベツに似た食べ物。


カリフールで買った「ティミショアーラ」というビール。こちらは宿に帰ってきてから飲んだ。

ヨーロッパはレストランに行くと一食1000円ぐらいは平気でするので、朝夕と、パンにハムを挟んで野菜ジュースという、お粗末な食事しかとっていなかった僕は、ようやくうまい飯を食べることができて満足だった。


翌日、ブラショフに向かう先輩と別れた僕は、ブカレスト見物に出かけた。


フレンズ・ホステルを出て、国民の館方面に歩いていくと見えてくる巨大な廃墟。どうやら、チャウシェスクが建てようとしていた博物館らしい。政権崩壊後は、そのまま廃墟になっている。


ブカレストの街は、どことなく中国の少し古い町並みに似ている。


チャウシェスクが、パリのシャンゼリゼ通りを真似てつくらせたという大通り。ちなみに、国民の館の入り口は、こちら側ではなく、北の公園側なので注意。


国民の館の入り口では、スタッフが英語で、社会主義国らしくない丁重なおもてなしで迎えてくれる。国民の館は、国会議事堂のようなものなので、普段自由に出入りすることはできず、見学するにはツアーに参加することになる(もっとも、ガイドがいないと広すぎて迷子になるらしい)。ツアーは日替わりなのだが、俺が参加した日は1時間のスタンダードツアーだった。学生は国際学生証を見せれば半額になり、12RONである。


内部は・・・とにかくデカい!チャウシェスクの独裁権力というのが、形になっている建物だ。ちなみに、真ん中の女性がガイドでとても美人だったw


こちらは、国民の館でもっとも大きい部屋。対面の壁に、チャウシェスク夫妻の巨大な肖像画が飾ってあったらしい。ちなみに、カーテンが16mぐらいあるんだとか。

まぁ、全部は書ききれないんで、興味ある人はほかの人のブログを見てみてください。


ダチアが目立つルーマニア。ルーマニアの自動車メーカーはダチア。


こちらは、旧共産党本部。チャウシェスクが、最後の演説を行った場所。この屋上からヘリコプターで逃亡した。


どうやら、最近路面電車が廃止されて、余ったスペースはこんなふうに駐車場と化している。


ブカレストは特になにもない街なので、帰りにフレンズ・ホステルのすぐ近くにある軍事博物館に行ってみた。


列車砲!


この博物館は、旧ソ連製兵器の宝庫。軍オタは絶対に行くことをお勧めする。


水陸両用車のスクリューというのはこうなっているのか。初めて知った。


ほぼスクラップと化した車両もある。こちらはキャタピラ。持ち上げてみたけど、尋常じゃないぐらいに重い。こんなのにひかれたら、間違いなくぺしゃんこになって死ぬ。


ルーマニア初の宇宙飛行士。ソ連のソユーズの乗組員ということらしい。


こちらは、IRA93という、ルーマニアとユーゴスラビアの共同開発による戦闘機。


MIG15もこの通り、中身を見ることができる。


ソ連のT-55などの戦車もたくさん。これらは日本で見ることはできない。

この博物館で見逃せないのが、銃器の展示。中世の槍や銃から、最近の旧ソ連製の銃器まで、そのコレクションの数はなかなか見ものだ。


これは、CoDやMoHでもおなじみの、ナチス・ドイツのMP40。


こちらはアメリカ軍のトンプソン。


ソ連のPPSh。FPSで出てくる武器がすべて出てきて感動だった。


おなじみのRPG!

銃を見学していると、座っていた職員らしき老人に「Japanese?」と声をかけられた。彼は、こっちに日本のサムライの銃があると、案内してくれた。そこには、「風林火山」とたしかに彫りこみがある火縄銃があった。この博物館は、日本の火縄銃までコレクションしてあるのだ。彼は、「日本からはるばる来てくれてうれしい」と、握手までしてくれた。とてもよい人だった。


制服コレクションもある。やっぱり共産圏の制服はかっこいい。


入り口近くには、ルーマニア革命の展示が。これは、革命の際に、社会主義国家の国章が切り取られたルーマニア国旗。

この、ルーマニア国立軍事博物館は、コレクションが非常にすばらしいので、ルーマニアに来たらぜひ寄ってみよう。ただ、説明書きはすべてルーマニア語orz


宿に戻って自炊をしていると、キッチンにいたルーマニア人の男の人が、メシをごちそうしてくれた。彼の身なりは少し貧相で、どうやら旅行者ではなく労働者っぽい人だったが、いろいろとつたない英語で話しかけてきてくれ、とてもいい人だった。というわけで、僕もルーマニアのビールの「ウルサス」を彼にごちそうすることにした。ルーマニア人は、ラテン系からか、そこらへんの東欧の人と違って、陽気で人懐っこい人が多いような気がした。




【CFR】ティミショアラ→ブカレスト【1692列車】

2013年08月19日 23時29分31秒 | 2013年春 東欧
前日に、なんとか宿のベッドにありついた僕は、市中心部から歩いて20分ほどのティミショアラ・ノルド駅に向かった。時刻は既に夕暮れで、暗くならないうちに翌日の切符をとっておこうと思った。

ティミショアラ駅構内は、夕暮れでも電気がまだ点いていなく、非常に暗かった。浮浪者らしき人や、物乞いの子供もいる。やはり、今までのヨーロッパの駅とはだいぶ様子が違う。なんとなく、ルーマニアに来たんだということを、初めて感じた。

窓口は4つあり、そのうちのひとつに、「明日の6時5分発のブカレストまでの切符が欲しいんだけど・・・」といいかけたところで、窓口のおばちゃんが「スピーク、イングリッシュ・・・ムニャムニャムニャ・・・」と、反対側の窓口を指差した。どうやら、4つの窓口のうち、英語が通じるのはひとつだけらしい。

反対側の英語が通じる窓口で、翌朝の6時5分発のインターシティの切符を頼む。ところが、窓口のおばさんはなにやら発券してくれない。なにやら言ってるけど、よく聞こえない。状況がよくわからず、「なぜですか?満席なんですか?」と聞いていると、隣からポンポン肩を叩かれた。そっちを向くと、おっちゃんが「It's STOPPED!明日はその列車は走らないんだよ。」と教えてくれた。

なぜだかわからないが、その列車は運休らしい。窓口のおばちゃんが、モニターをこっちに向けて、残りの選択肢の列車を見せてくれた。

4:40→13:10
14:10→22:27
22:00→7:15


予てから、ブカレストにどうやって入るか、ということについて僕は悩んでいた。というのも、どう予定を組んでも、ブカレスト着が早朝か深夜になってしまうのだ。ナイフ強盗、スリ、ロマのDQNに野犬、ぼったくりタクシーなど、東欧で治安が最悪といわれている、あのブカレストを早朝か深夜に歩くということは、いろいろな噂を聞いていた僕にとって、肝試しそのものである。そして、ルーマニアの夜行列車で、ロマの列車強盗に襲われた日本人の話も聞いていた。

ということで、その場のテンパった判断で、4:40発の列車を予約してしまった。値段は、533キロを95.1レウ(2700円)。いつの間にか、僕と販売員の取引を、ロマの男が数人、真横で割り込んで堂々と覗き込んでいた。何もされなかったけど。ちなみに、あとでちゃんとトマスクック時刻表を見たら、「日曜運休」とちゃんと書いてあったorz

ホステルに帰る途中、最近、ブカレストで起きた、あの日本人女子大生の悲劇を思い出していた。彼女は深夜のアンリ・コリンダ国際空港に降り立ち、よくわからないままタクシーに乗り、深夜の東欧の都市の郊外を連れまわされたあげく、暴行されて殺された。明日は朝4時にこの公園の横の、昼でも人気のない道を通らなければならない。やっぱりUターンして、チケットをキャンセルしようか。そんなことを考えていたけど、もうなすがままにしよう、と考えた。

その日の夕食は、中心街にあるマックだった。ルーマニアはあまり物価が安くない。ビッグマックセットで、日本円で500円ぐらいだった。明るくて美人のルーマニア人女子グループがおしゃべりしている店内を見ながら、今日の駅との差をなんとなく感じていた。

宿に帰って、結局、僕はエクストラベッドをつくってくれたスタッフに、明日の3時半にタクシーを予約してもらった。



翌朝、真っ暗闇の屋外に出て、スタッフに言われたとおりに、宿の鍵を郵便受けに入れた。予約どおりに、ルーマニアの黄色いタクシーが迎えに来ていた。運ちゃんに、「GARA DE NORD?」と確認してから乗り込んだ。

悪名高いルーマニアのタクシーだが、このタクシーはメーターもちゃんと動いていて、寄り道も全くせず、暗闇のティミショアラを駅まで疾走した。料金も、ボラれることなく、宿のスタッフが言っていた相場どおりの9.8レウを示された。僕は、お釣りを渡すのもめんどくさいし、朝はやくから大変だろうということで(深夜料金かもしれないけど)、15レウを「これはチップだよ」と言って渡した。途端に運ちゃんは陽気になり、ザックを出すのも手伝ってくれ、「バイバーイ^^」と言って車を発車させた。意外と誠実だった。


夜のティミショアラ駅構内。発車30分以上前だが、列車は既に入線していた。どことなく、中国の駅に雰囲気が似ている。

ルーマニアの鉄道はほとんどが指定席だ。指定された号車に乗り込み、自分の席を見つけるが、通路側の僕の座席は、ロマの少年が横になって寝ていて占領していた。周りを見ると、列車はガラガラだったので、適当な窓側に座った、実質上の自由席らしかった。反対側の線路では、シーメンス製の最新鋭電車「デジロ」が停車していた。


座席から判断するに、この車両はドイツのお古らしい。Railworksのハーゲン~ジーゲンで出てくる客車と同タイプだ。両端がコンパートメント、中央が開放座席となっている。


ずっと真っ暗闇をごとごと走っていたが、夜が明けて景色が確認できるようになる。どうやら、トランシルバニア山脈の端にさしかかったようだ。トランシルバニアというと、ドラキュラを連想する。


車内。


なんとなく、車窓に見える村は、お世辞にも豊かとはいえなさそうだった。


このような廃工場を、ブカレストまでにたくさん目にした。社会主義時代は元気に動いていたんだろうか。

ルーマニアはチャウシェスク独裁政権崩壊後、貧富の差が急拡大し、東欧でも有数の治安が悪い国に成り下がってしまったという言われようだが、たしかに、車窓で見る感じ、この国は今まで見たヨーロッパのどの国よりも貧しそうだった。中国の田舎と似たような貧しさを感じる。

ただ、東欧を旅していて感じたのが、東欧の田舎はゴーストタウンのように、人気がほとんどない。どれもしんと静まり返っている。都会でも田舎でもどこにいっても、常に人と喧騒があり、活気に溢れている中国とは大違いだ。東欧は僕が想像していた通り、暗く、どんよりとしている。


オルソヴァという駅に到着した。これもなんともまぁ、革命的な駅舎。完成時はさぞピカピカだったんでしょう。


反対側ではボロボロの貨車が停まっていたが、すぐに動き出した。一瞬、留置されている廃車体かと思ったが、現役のようだ。ルーマニアの鉄道は、国営であるが、
CFR Călători, 旅客列車の運行
CFR Marfă, 貨物列車の運行
CFR Infrastructură, ルーマニア鉄道のインフラ管理機構
Societatea Feroviară de Turism, or SFT, 観光鉄道の運行
の4つに別れている。


湖かと思うかもしれないが、これはドナウ川である。対岸はセルビアだ。大陸の河川は規模が違う。


1972年に、ルーマニアとユーゴスラビアの共同開発で完成した「鉄門ダム」。水運用の水門も付随している。鉄門とは、ここらへん一帯の景勝地の名称であり、高校の地図帳にも載っている。


こんなところにも創価の三色旗・・・ではなく、ルーマニア国旗をイメージした変電所のペイントが面白い。


ルーマニアのErectroctere社製のクラス40とクラス45。ルーマニアの機関車は、ほとんどがクラス40番台のこんなタイプの機関車だ。ちなみに、中国のND2型ディーゼル機関車も、Erectroctere社製である。


ドナウ川から分かれると、こんな感じで荒野に油田が見えてくる。実は、ルーマニアは産油国である。エレナ・チャウシェスクが、産油国ルーマニアの工業でも重要な工業化学の博士号を詐称したという話は有名だが、真相は不明である。


何型か現地の鉄オタに聞かないと不明。ルーマニアの40番台の機関車は全部似てる。


ルーマニアの田舎では、今日でも馬車が現役。


クラヨバの街。石油を運んでいたであろう錆び付いたパイプラインと、社会主義なアパート。


たくさん停車しているMARFAの貨車。


クラヨバ駅で、けっこう客が入れ替わる。スカーフを巻いたおばあちゃんが切符を見せながら、「ちょっとあんた、ここはあたしの席だよ!」的なことを言ってきたので、席を移った(ルーマニア語わかんないけど)。


ルーマニア国鉄の旧塗装客車。

ここで、目の前に座っていた男が、「ねぇ、君、英語かルーマニア語は話せる?」と話しかけてきた。僕が英語だけは話せる、と答えたら、「韓国人か中国人の学生?僕は、ルーマニアの大学生だよ。」と自己紹介をしてきた。最初は警戒していたけど、話してみると、ティミショアラの大学で土木を学んでいる大学院修士課程の院生とのことだった。同じ理系だったので、いろいろと話が弾んだ。

Lさんは、ルーマニアのことについていろいろと教えてくれた。
「見てくれよ、社会主義が崩壊してから、システムはみんなダウンして、車窓は廃墟だらけだろう。今見えるとおり、都市の郊外にはゴミの山が広がっている。これがルーマニアなんだ。優秀な学生は、みんな西欧に行ってしまうしね。」

彼曰く、ルーマニアでの就職はなかなか厳しいようだった。彼は既に、ブカレストの企業への就職が決まっているという。でも、ルーマニアの就職で大事なのは「コネ」であって、そういうのがない人の就職は難しいと言っていた。

「ルーマニアで多いのはフォルクスワーゲンかダチアだね。日本車は高級車だよ。そっちでは、逆に欧州車のほうが高級車なのか!面白いね!」

そんな会話をしていると、よくわからない男がやってきて、Lさんの隣の座席に値札のついた商品を置いていってそのまま去っていった。
「物売りだよ。懐中電灯とか、おもちゃとか、ガラクタばっかりだよ。こいつらのほとんどは中国製だね。」

隣のボックス席では親子がいたが、男は子供に、実演入りでおもちゃを売ろうとしていた。が、表情は死んだように無表情である。東欧の客引きはしつこくはないが、商売する気があるのかというぐらい死んだような声と表情は、もうちょっとどうにかならないかと思う。少しぐらい営業スマイルを見せたらどうだろう。イスに置かれた商品は、しばらくすると回収される。

物売りだけでなく、物乞いも乗ってくる。脚をひきずりながら恵んでくれと、座席の前で止まる(すぐに去っていくけど)。ロマではなくルーマニア人っぽかった。数分後に、車掌に追い立てられていくのが見えた。

余談だが、ルーマニアの大学では、授業を選択するという概念がないらしい。全て、高校のように受ける授業が決まっているようだ。


列車は荒野を進んでいく。


ロシオリ駅。これもまた革命的な駅舎である。


ブカレストも近くなると、こんな感じの平原が続くようになる。

だんだん、東京の郊外と似たような感じで家がポツポツ出てきた。ブカレストが近づいているらしい。列車は、止まったり動いたりを繰り返すようになる。

「ノルド駅の北側はロマが多いから、あいつらが線路を渡ったりするんだよなぁ。」

Lさんがそう言った。でも、時計を見る感じ、ブカレストには定刻に着きだった。ルーマニアの鉄道はもっと遅れるかと思っていたから意外だった。

「あいつらがいるからルーマニアのイメージを悪くなるんだよなぁ・・・」

Lさんがぼそりと言った。やはり、ロマはルーマニアでは嫌われているというのは本当のようだった。


予定の13:10とほぼ同じ時間にブカレスト・ノルド駅に到着した。


治安が悪いといわれているブカレスト・ノルド駅構内。しかし、見た感じでは、マックや屋台もたくさんあり、天井も明るく開放的で、利用客もたくさんいるので、そんな感じはあまりしなかった。

「ブカレストはそんなに怖い街じゃないよ。でも、タクシーには気をつけてね。本当に最悪だからw」
Lさんとそんな感じの話をして、最後にメアドを登録し、握手をして別れた。Facebookは時間を無駄にしていまうからやらないのだという。Twitterはルーマニアではあまりメジャーではなく、ルーマニアにはまたルーマニアのSNSがあるのだという。


壮厳なたたずまいのブカレスト・ノルド駅。

Lさんはバスに乗り換えて東の郊外の街へ、僕は歩いて10分のフレンズ・ホステルへ。さぁ、東欧最悪の街、ブカレストでのくるま氏の運命や如何に!?(続く)

【ミニバスで】ベオグラード→ティミショアラ【ルーマニアへ】

2013年08月16日 08時49分39秒 | 2013年春 東欧
翌日は、ルーマニアのティミショアラに向けて出発。

ベオグラードからティミショアラまで、列車はあることはあるのだが、ティミショアラ到着がたしか夜の10時過ぎとかになってしまう。ルーマニアは、旅行者の間でも治安が悪いことで有名だ。そんな時間に、夜のルーマニアを歩きたくはなかったので、ネットでググッて見つけた「GEA Tour」という会社のミニバスを使わせてもらうことにした。たまには自動車で移動もしたかった。

僕は直接オフィスに出向いてミニバスの予約をとることにした。GEA Toursのオフィスは、アメリカ大使館のすぐそばにあった。(今は引っ越したようなので、HPで確認を。GEA Tours Belgradeとググれば出てくる。)事務所の二階に行くと、緩い雰囲気で職員が談笑していた。入って正面のデスクでは、係員が二人客の対応をしていて、空いてから店長っぽい人のところに座り、明日そちらのミニバスでティミショアラに行きたいと言った。職員の人は英語が話せるので、特に何の問題もなく対応してくれ、申請用紙に必要事項を書く。

ここで、「携帯電話番号とかメールアドレスはないの?」と聞かれたが、「僕の携帯は日本でのドメスティック専用だから、海外では使えない」ということを話したら、「マジか、それじゃあ迎えに行けないよ」と言われる。ミニバスサービスは、家からティミショアラの目的地までドアツードアでハンコンで言ってくれる便利なものなのだ。職員の男は、しばらく考えたあとで、「連絡手段がないなら、しょうがない。明日の10時半から11時ぐらいに、ここに来てくれるか?」と言い、僕は「全然問題ないっすよ」と答えた。料金は20ユーロ。念のため、何回も「午前の10時半から11時だよね?」と確認した。

翌日、ホステルのチェックアウトタイムが10時だったので、10時半過ぎまで公園で本を読んだりして時間を潰し、10時半にGEAのオフィスに出向いた。昨日と同じ、社長っぽい人が僕のことを覚えていてくれていて、挨拶をしてくれた。何か飲みたいものはない?タダだよ?と聞かれて、とりあえず水を頼んだ。普通に親切な店だ。

11時半ぐらいに、運転手の人とオフィスを出発。最初はブジョーのミニバンの助手席に乗せられて、「これで行くのかな?」と思っていたが、新市街側の車庫みたいなとこで降ろされて、大きめのバンに乗り換えた。


セルビアも運転がなかなか荒い。ウインカーはあんまりつけないし、車線変更はしょっちゅう。乗ってたブジョーはやっぱりMT車。あと、セルビアに入ってから、ルーマニアの「ダチア」を多く見るようになる。


乗ったバンはこんな感じ。(引用元:http://www.yellowpages.rs/sr/gea-tours-kombi-prevoz/4-14-1394-13545/4071/slika)


出発したあとは、客を拾うためにベオグラード市内をぐるぐるまわる。新市街ではこんな感じの共産圏なアパートが目立つ。


だいぶ郊外まできて、どうやらロマの村みたいなところに来た。道路はボコボコで、車が激しく揺れる。そこらへんを歩いているロマの人の視線をけっこう感じる。お世辞にも豊かそうには見えないところだ。

ある一軒の家の前で停まり、前で遊んでいた子供達がわらわらと集まってくる。子供たちは車に興味深々で、中を覗き込んで僕を見るなりなにか驚いたように叫んだ。「外国人がいるぞ!」とでも言っているんだろうか。キーネ!キーネ!と言ってるから、中国人と思ったんだろう。


カメラを向けると、カッコつけだすコイツ。もう一人は隠れる。


オレイケメン?


みんなで並んでたんだけど、バスに乗るべき人がやってきて解散に。

海外で子供に絡まれるのは、なかなか面白い。ちなみに、ロマの人達のなかから出てきた乗客は、民族衣装を着た白人のおばちゃんでした。ここで何をしていたのか不明。


引き返してまたベオグラードに戻る。


あんまり興味なかったから行かなかったけど、聖サヴァ大聖堂が見えた。


1時間ほどかけて客を集めると、ベオグラードを離れてこんな道をずっと走る。


こういう道を自分でドライブして走ってみたい。


たまにこんな感じの村が現れるが、人気がない・・・。道路にはたまに、バケツと雑巾を持った子供が立っていて、洗車してやるとドアからねだってくる。そんなストリートチルドレンも多く、見た感じ、だいたいがロマだ。


セルビア側の国境に到着。国境審査は緩い。パスポートをいっしょに集めて、顔の確認もしないで、国境審査官が作業みたいにパスポートをスキャンしていく。ちなみに、セルビア出国の際はスタンプが省略される場合が多い。

適当かと思いきや、一人の男が呼び出されて、画面を見せられてこれはなんだ?というように問いただされている。男と運転手と国境審査官はしばらく話をしたあと、男のスーツケースは下ろされて、彼だけ事務所のほうに連行されてしまった。車内で乗客がガヤガヤ騒いでたけど、「コンピューター」が聞き取れただけで、あとは言葉がわからず何があったのか不明。


ルーマニアの国境はちょっと立派。一応ここからはEU圏。EUだから厳しいというわけでもなく、パスポートチェックはさっきと同じ。


ルーマニアに入ってすぐのところで走っていたレールバス。一応、人が乗ってるのが見える。


ルーマニアに入っても景色は同じ。代わったといえば、創価の三色旗・・・ではなく、ルーマニア国旗を掲げている家が増えたぐらい。1時間もしないうちにティミショアラに到着。

降りる前に、セルビア人の女の子が英語で「どこから来たの?」と話しかけた。「日本だよ^^」と言うと、「学生?一人旅?」ときて、「大学生で、一ヶ月ぐらい東欧を一人旅しているんだ」と答える。そのあと、何を話したかよく覚えてないけど、会話が弾んだ。乗客と言葉を交わすのはここが初めてだった。東欧では、乗り合わせた乗客と言葉を交わすことはほとんどない。


ティミショアラは小さいけどきれいな街。ルーマニアだけど治安もよさそう。


一見、西欧の街並みとあまりかわらない。

さて、宿はFreeborn Hostelと言う場所をチェックしていたが、予約はしていなかった。ルーマニアの田舎町だし、空き部屋はあるでしょうということで凸したわけだ。

で、こういうことを書いたからには、何があったかわかると思うけど、まさかのベッドがない・・・という事態になってしまった。

兼ねてから不安だったルーマニアの初日にして焦る。もう一軒、町から少し外れたところにホステルがあるから行ってみようと思ったが、もう一人のスタッフが、「ちょっと待って。ホステルを探すのは大変でしょう。まだ考えがあるよ」と言い、どこかに行った。しばらくして戻ってくると、「エクストラベッドを用意するから、そこで寝ていいよ。」と言い、今日は泊めてもらえることになった。マジでネ申。

このFreeborn Hostel、清潔だったし、Wiiもあるwスタッフが前述の通りすごく親切なので、オレ的にかなりオススメ。

次回は、東欧最悪とよばれている街、ブカレストまでの鉄道の旅をお送りします。

【セルビア】ベオグラード【散策】

2013年08月15日 21時30分30秒 | 2013年春 東欧
ベオグラードでの散策は、飛ばそうかと思っていたんですが、なんとなく、写真でも適当に並べて紹介してみようかと思いました。ちなみに、僕がベオグラードに滞在したのは、早朝6時半に列車で到着してから、次の日の10時半にミニバスで発つまでの約31時間のみです。

2時間か3時間ぐらい眠って、顔を洗おうと部屋を出ると、さっきの長身のボウズ男ではなく、ひげ面のおっさんがレセプションのソファーに寝転がってテレビを見ていて、僕を見るなり「チャオー!」と挨拶。なぜか、ここのホステルのこのおっさんは、いつもイタリア語の「チャオー!」という挨拶をしてくる。顔を洗った後、スーパーの場所などを聞くと、スーパーの場所だけでなくいろいろなところを身振り手振りで教えてくれた。英語があまりできないらしかった。シティを「チティ」と発音したり、ローカルを垣間見れたような気がして面白かった。

このホステル、夜はスタッフなのか近所の住人なのかよくわからない人が集まって、寝室のドアを開けてすぐのレセプションで大声で話をしていてうるさかった。ホステルというより本当の安宿な感じで、面白い体験だったが、オススメはしない。


おっさんからもらった地図をもとに、NATO空爆跡に。といっても、駅から歩いて5分もしないところにある。


コソボ紛争中のNATOによる「アライド・フォース作戦」で、ミサイルをぶち込まれた連邦国防省ビル。当時のままで残されている。建物の足元には兵士が立っていた。写真撮影をしていると撮るなと注意されると聞いていたから、遠くからコソコソ撮っていた。

15年ほど前、もう僕が生まれた頃には戦争をしていた国がこのセルビアだ。ユーゴスラビアは、さまざまな民族や宗教が入り混じっていて、複雑な状態だ。大学受験生のときに、地理の勉強でこのあたりの民族と宗教の分布が特に覚えにくかったのを覚えている。15年前に、「民族浄化」というものが行われていたのがこのユーゴスラビアなのだ。「この民族は邪魔だから追い出そう。追い出すといっても、外に出すのも面倒だし、どうせ少数で弱いんだから、この世から追い出してしまおう」というのが民族浄化だ。そんなことが15年前に実際に行われていたのだ。

しかし、この2棟のビルを除くとベオグラードには紛争の傷跡はほとんど残っていなかった。教科書でも紹介されている建物だけど、ほんとうに、これだけ?という感じだった。もっと、そこらへんに銃痕とかが残っているのかと思っていたが、空爆だけだったからかそんなものはなく、あとは普通に穏やかな平和な街だったのだ。ベオグラードは。15年前に戦争をしていたなんて信じられなかった。


このような旧式のトラムだけでなく、新型のアルストム製のトラムも走っている。


ベオグラードは、旧市街も、今までのヨーロッパの街とは少し違う顔をしている。黒ずんだ建物や、たまにソ連式っぽいアパートも見える。


そこそこ人が多い中心街で。レーニン像が残っているのかと思ったが、違うらしい。


元要塞のカレメグダン公園にも行ってみた。サヴァ側の向こう側の新市街を望む。顔を右に向ければ、サヴァ川がドナウ川に交わるのが見える。


サッカーをする子供をはじめ、いろいろな人で集まっている。


軍事博物館にも行ってみた。


軍事博物館の入り口にドヤ顔で展示されているNATO軍のハンヴィー。予想するに、戦争で奪った戦利品だろう。

この博物館では、古代から現代にいたるまでの、主にユーゴスラビアでの戦争の歴史を展示している。説明書はほとんどがセルビア語。ミリオタよりも、世界史が好きな人向けの博物館だ。入場料は150ディナール。

だが、細かいお金が用意できず、受付の軍服を着たお兄ちゃんに、「今はお釣りが用意できないから、先に中をまわってきて。」と言われた。だが、展示を見終わってまわってきても、「今回はお金を払わなくていいよー」と言って、外に出してくれた(笑)。これは受付のお兄ちゃんがいい人だったのか、めんどくさがりなのかよくわからなかったが、ユーゴに渡航暦のある先輩は、「お金儲けをする気がないからだと思うよ」と言っていた。


ベオグラードの中心街。全体的に穏やかな地方都市みたいな感じだけど、ここは活気で溢れている。ほんとうに、戦争があったなんて信じられない。ちなみに、ベオグラードはハンガリーやチェコと比べ、治安もよさげな印象だった。

あと、セルビアに入った途端に、アジア人を全く見なくなった。ドイツやチェコは、卒業旅行やツアーの日本人観光客、どこでも声がデカい中国人観光客ばかりだったのだが、東にいくほど減っていき、セルビアでは見た記憶がない。そういえば、東欧諸国に入った途端に、中東系や黒人などの人種もめっきり見なくなった。見るとしても、移民ではなく観光客だった。


なんとなく、旧サヴァ橋を渡って、新市街側に行ってみようと思った。貨物駅が見えたが、列車が来る気配はないし、コンテナや貨車もところどころ錆び付いている。鉄道輸送は、貨物も盛んではないようだった。


なんとなく、この写真を見ると、橋の上で感じた孤独感を思い出す。

サヴァ川の上で、よくわからない孤独感に陥っていた。日本人どころかアジア人のいないこの街に、一人でやってきて、アパートの一室にある、外国人が泊まらないような宿に一人で泊まっている。もう日は沈もうとしている。橋の上は、車やトラムがひっきりなしに通るけど、歩道の歩行者は誰もいない。そもそも、日本人でセルビアという国がどこにあるのか知っている人はどれぐらいいるのだろう?僕がここにいるということを知っている人はいない。明日はルーマニアに現地人と混ざってミニバスで揺られていく。旅はまだ半分も過ぎていない。これからどんどん東に行く。

旅をしているときに感じる、心地よい孤独感だった。一人で外国を旅して、こんな気持ちになったのは初めてだった。


宿に帰って、セルビアの国民的ビール「ゼーレン」を飲む。正直、苦くてあまり好きではない。セルビアディナールは、結局ほとんど使わなかった。

自分だけかと思っていた宿の客は、新しく二人入ってきた。若い男性と、30歳ぐらいの女性で、二人ともセルビア人のようだった。宿泊客まで全員セルビア人で、最後まで超ローカルホステルだった。

次回は、ルーマニアに突入です。