茂原学習塾・予備校塾長日記(誠心学院予備校)

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和田秀樹

2010年01月05日 | 人物
和田 秀樹(わだ ひでき、1960年6月7日 - )は、大阪府出身の受験アドバイザー、評論家(教育・医療、政治・経済)、精神科医(川崎幸病院精神科顧問)、国際医療福祉大学臨床心理学専攻教授、一橋大学特任教授、学校法人成城学園理事、起業家、映画監督。

一橋大学経済学部(医療経済学)、東北大学医学部、上智大学心理学科などの非常勤講師や東進ハイスクール顧問も歴任。ヒデキ・ワダ・インスティテュート、緑鐵受験指導ゼミナール代表。2007年から一橋大学国際・公共政策大学院特任教授。

会社員の家庭に生まれる。父親は関西大学を卒業してカネボウに入社したが、慶應閥の会社だったため出世できず、そのため秀樹の母は子供たちに学歴の重要性を叩き込んだ。1965年、母親の意向で教育程度の高い私立幼稚園に入園。大阪の公立小学校に入学した時には平仮名や片仮名から漢字の一部まで読み書きできるようになっていたため、大阪市内の名門公立小学校に1年生の2学期から越境入学。しかし小学校2年生のとき、父親の転勤で東京都練馬区に転居。このとき、小学校で「関西弁、関西弁」と囃し立てられて仲間外れにされる。このため小2の2学期から千葉県の津田沼の社宅に移り、地元の小学校に転校。小4のとき父親の転勤で兵庫県に転居し、塾に通い始める。小6から伸学社に通い、私立トップ進学校である灘中学校に5番で入学したものの、入学後は勉強しなかったため灘では中の下の成績に落ちてしまった。灘でも陰湿ないじめを受け、教壇の後ろの大きなゴミ箱に閉じ込められて鍵をかけられ、授業の間じゅうそこに押し込められたこともあった。その他、泳げないことが知られたときはプールに連れ込まれそうになり、2時間ほどクラブの部室に立てこもったこともあった。このとき、秀樹の母は「あなたの性格を直さないとどうしようもない」と言いつつ、「どうせあなたは自分を変えられないから、違うところで見返しなさい」と檄を飛ばして得意分野を見つけるよう促した。

灘在学中に解法暗記を中心とした勉強法を開発した。高校2年のとき藤田敏八監督の映画『赤い鳥逃げた?』を観て衝撃を受けたことから熱狂的な映画ファンとなり、高校3年生のときは受験勉強の傍ら年間300本の映画を観賞していた。当時「1000万映画」と呼ばれる低予算映画が話題となっており、映画製作費を効率的に稼ぐ手段として医師を志し、大学は東大理III、慶大医学部、慶大経済学部への現役合格を果たす。東大在学中は自主映画を手がけたが挫折し、数百万円の借金を作り、その返済のため週刊誌で原稿執筆のアルバイトをしたことが後の評論活動の下地を作った[。自分の弟に勉強法を教え、東京大学文科一類現役合格に導いたこともある。その後、和田の弟である和田雅樹は大阪星光学院中学校・高等学校を経て、東京大学法学部から現役で、かつ優秀な成績で司法試験に合格し、最高検察庁検察官事務取扱検事、東京地方検察庁特別公判部副部長、東京高等検察庁検事等を経て、2009年から法務省刑事局国際課長を務めている。

東大在学中は家庭教師、アイドルプロデュース研究会、ライター業、学習塾経営などに励み、医師国家試験の半年程前までほとんど大学での勉強はしていなかったという。1985年、東京大学医学部医学科卒業。 論文「人間にまつわる研究 により東北大学医学部で博士号(医学)取得(博士課程修了ではない)。この点については経歴では省かれることが多い。

自らの受験体験と家庭教師などの経験を生かし、『試験に強い子が引きつる本』で受験評論家デビュー。「中学、高校と灘では落ちこぼれだった自分が理三に現役合格した方法」として、「誰でも難関大学に受かる受験法」を宣伝文句に、受験アドバイザーとして受験界に確固たる地位を築く。

和田式勉強法は灘高校における勉強法、和田秀樹自身が開発した勉強法などに加え、最近取り入れた認知心理学に基づく勉強法で成り立っている。和田にとって認知心理学はまったくの専門外であるが、東大の認知心理学、教育心理学の研究会に参加している。

現在ベネッセの通信教育である、進研ゼミ高校講座の情報誌「My Vision」に「カイカン勉強スタジオ」という連載記事を書いている。
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