玄太寺 2009-08-29 14:35:28 | 菅沼家ルーツ 田峯菅沼家滅亡後、田峯菅沼家の総領となったのは菅沼定利である。菅沼定利が封ぜられた上野吉井を訪ねてみました。定利の屋敷跡は玄太寺という寺になっています。 入り口には菅沼家の家紋、菅沼三つ目がありました。菅沼定利の墓標は入り口より少し入ったところにありました。 吉井藩の陣屋門が保存されていました « 志賀高原 | トップ | 彼岸 »
4 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 家紋について (ジョン・カモン) 2013-03-16 21:40:35 昔の記事を復習するように拝見しています。「玄太寺」の塀に「菅沼三つ目」の家紋が見えます。ふと思うのですが、菅沼定利は田峯の人だから、「丸にくぎ抜き」かと思いますす。 なぜ、新城菅沼の三つ目になっているのだろうか? ご存知でしたら教えて下さい。 返信する 家紋について (松代) 2013-03-25 23:44:23 昔、父から家紋は三つ釘抜き、裏紋は土岐桔梗と聞かされました。釘抜きとは変ってると子供心に思いましたがデザインは素晴らしいと感じました。確かに墓石や刀の目抜きに使われている紋は三つ釘抜きです。面白いのが古い鉋や錐などの道具類で、「やっとこ」の焼印がありこれは釘抜きのことと後になって気付きました。また馬具?の衣装には品川の【品】(写真の菅沼三つ目)が使われています。この使い分けについては後世のものなのか分かりませんが「丸に三つ釘抜き」と「菅沼三つ目」は初期のころから同等のものとみなされ併用されていたのではないでしょうか? 返信する 松代菅沼様 (ジョン・カモン) 2013-08-06 21:08:01 はじめましてですね。家紋についてですが、「丸に三つ釘抜き」とは「菅沼三つ目(品)」の□を45度傾けた紋のことでしょうか? 返信する 玄太寺の塀の家紋について (ジョン・カモン) 2014-01-04 09:15:19 皆様お久しぶりでございます。 昨年12月、群馬・吉井を初訪問、探索しました。 玄太寺の塀の紋(菅沼三つ目)が気になっていまし た。お寺には「墓碑」があり、やはりそこにも「菅沼 三つ目」 がありました。 この墓碑は新城菅沼(定盈の子孫)の三代城主、 定用が建立したようです。当時の新城菅沼の家紋 そのものでした。 定利も定盈も同世代、ほぼ同時期に、近接地域に 移封されたが、その期間が10年程度と短い為か記 録が少ないのが残念です。 特に、定盈はほとんど皆無状態です。埼玉県立の 資料館?に長谷川典明氏の「菅沼定盈考」という研 究資料がありました。それによると、やはり現神川 町の元阿保付近に居住していたのでしょうか。 以前、管理人さんから記事として「埼玉県の菅沼」 資料がありました。その中に、定利、定盈の子孫が いるのかなとも期待しています。 返信する 規約違反等の連絡
「玄太寺」の塀に「菅沼三つ目」の家紋が見えます。ふと思うのですが、菅沼定利は田峯の人だから、「丸にくぎ抜き」かと思いますす。
なぜ、新城菅沼の三つ目になっているのだろうか?
ご存知でしたら教えて下さい。
釘抜きとは変ってると子供心に思いましたが
デザインは素晴らしいと感じました。
確かに墓石や刀の目抜きに使われている紋は三つ釘抜きです。
面白いのが古い鉋や錐などの道具類で、「やっとこ」の焼印があり
これは釘抜きのことと後になって気付きました。
また馬具?の衣装には品川の【品】(写真の菅沼三つ目)が
使われています。
この使い分けについては後世のものなのか分かりませんが
「丸に三つ釘抜き」と「菅沼三つ目」は
初期のころから同等のものとみなされ
併用されていたのではないでしょうか?
家紋についてですが、「丸に三つ釘抜き」とは「菅沼三つ目(品)」の□を45度傾けた紋のことでしょうか?
昨年12月、群馬・吉井を初訪問、探索しました。
玄太寺の塀の紋(菅沼三つ目)が気になっていまし た。お寺には「墓碑」があり、やはりそこにも「菅沼 三つ目」 がありました。
この墓碑は新城菅沼(定盈の子孫)の三代城主、 定用が建立したようです。当時の新城菅沼の家紋 そのものでした。
定利も定盈も同世代、ほぼ同時期に、近接地域に 移封されたが、その期間が10年程度と短い為か記 録が少ないのが残念です。
特に、定盈はほとんど皆無状態です。埼玉県立の 資料館?に長谷川典明氏の「菅沼定盈考」という研 究資料がありました。それによると、やはり現神川 町の元阿保付近に居住していたのでしょうか。
以前、管理人さんから記事として「埼玉県の菅沼」 資料がありました。その中に、定利、定盈の子孫が いるのかなとも期待しています。