活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

遊歩公園で出会った400年前

2007-03-19 13:37:54 | Weblog
 大分駅のインフオメーションで聞いた名店で関アジ・関サバを堪能し、不謹慎にも少々、麦焼酎まできこしめして、探索を開始したのです。
 まず、失礼ながら、府内のお城にお尻を向けて遊歩公園でブロンズの彫刻とご対面。もちろん、出会いの最初は伊東ドン・マンショ像です。

 馬に乗った凛々しいマンショ。教皇グレゴリウス13世に拝謁するためヴァチカン
宮殿に向かって行進したときも、こんなポーズを決めていたのでしょうか。日向の都於郡城で伊東裕益として日を送った幼少時代に覚えた馬術かも知れません。

 2005年にグレゴリウスの陪臣の子孫宅でマンショと使節の引率者メスキータの肖像画が出てきて、新聞紙上をにぎあわせたことは記憶に新しいですし、私も、
長崎歴史博物館の特別展で現物を拝みました。
 あのとき、マンショの父、伊東裕青がお寺に奉納した天井板も出品されていて、かすかに墨書されたマンショの幼名裕益も見てきました。あまり、よく、見えませんでしたが、よく残っていたものですね。

 遊歩公園の彫刻の中で印象的だったのは、かわいらしい童子が大きな口をあけて神父の奏するビオラにあわせて聖歌を歌っている「西洋音楽発祥記念碑」。アルメイダが日本人の助手と外科手術をしている「西洋医術発祥記念碑」の2つでした。

 いずれにしても、21歳の若い領主だった大友義鎮、のちの宗麟は、ザビエルから
直接、教えを説かれた最初のキリシタン大名です。
 彼が教会やコレジヨ、病院建設まで積極的にヨーロッパを取り入れたのに、「印刷」に興味を示したという文献がないのが残念です。 

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