活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

だれが嵯峨本を印刷したのか

2011-04-05 15:11:01 | 活版印刷のふるさと紀行
さて、企画を立てた人の問題の次は「だれが嵯峨本を印刷したのか」です。
そのころのほかの「古活字版」の木活字と嵯峨本の木活字とでは明らかに「顔」が違うので、恐らく、活字作りから新規のプロジェクト・チームが組まれたと考えなくてはなりません。

 顔の違いは寺院などの古活字版は版面を見ると、漢字ばかりが並んでいる漢籍調であるのに対して嵯峨本の方は、あたかも手書きのように見えるほど美しい版面です。漢字とひらがなまじりというのも特徴ですが、さらに、古活字版の続き字よりも嵯峨本では流麗な続き字が出てくるというのがより大きな特徴です。

 前出の家康が駿河に呼んだという版木之衆の本拠は京です。だからプロジェクトの主力は木活字作りに長けた版木之衆で、そこへ同じ京の原田アントニオ印刷所でキリシタン版の『こんてむつすむんち』にかかわっっていた木切や字彫りの職人を仲間として引き込んだのではないかと私は推理しました。
 
 キリシタン版はグーテンベルク方式の金属活字を使っていますが、この『こんてむつすむんち』は日本語で唯一、木活字を使っております。行書・草書の漢字に平仮名が交じっております。嵯峨本の制作工程でアントニオ出身職人はさぞかし利用価値がたかかったのではないでしょうか。

 ただ、『こんてむつすむんち』が出たのが1610年(慶長15)で、伊勢物語が慶長13年刊という刊行年の問題があります。しかし、当時、キリシタン版は弾圧下で秘密裡に印刷しなくてはならない段階に差し掛かっていましたことから考えるると、前工程の職人はとっくに手離れしていたでしょうし、存外、給金につられて宗旨がえしたのかもしれません。

 
コメント
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