馬屋記ーヤギとクリの詩育日誌

南フランス田舎紀行(19)スイヤック、踊るイザヤ像

スイヤックSouillacは、人口3,200人 (2019年) 程の田舎町である。

歴史的建造物と古民家がなんの違和感なく同居している町である。下の写真中央に見える古サン・マルタン教会の鐘楼 l'ancienne église Saint-Martin et son beffroi は現在、時計台として活用されている。

スイヤックという名はこの地方の古語 « souilh »「泥だらけの湿地」に由来している。沼地を開拓して建てられた修道院を中心に村落が形成された。

フランス南西部 オクシタニ Occitanie地方ロット Lot 県を流れるドルドーニュDordogne川流域にある。

フィジャックFigeacから北西30km、ロカマドゥールRocamadour も近い。

南はラングドック地方と北はリムーザン地方に挟まれたこの地方は、古くはケルシー Quercy と呼ばれていた。今でもこの地方の人は好んでケルシーを使う。

サント・マリ修道院教会 L'église abbatiale Sainte-Marie de Souillac は、12世紀に建造されたビザンツ様式風(ドームを取り入れている)のロマネスク教会で、17世紀と18世紀に再建されている。窓が少なくて、柱が太くて、壁が厚い。このどっしり感と、ちゃらちゃら飾り立てていない(装飾が華美でない)ところ、まさにロマネスク建築の渋みが詰まっている。

この教会は、何といっても内壁に彫られた12世紀のロマネスク彫刻が圧巻である。これらは本当は西ファッサード扉口に飾られるべきものだったが、13世紀に身廊内部に移されたらしい。

ベネディクト会がSouillèsの平原に創設した修道院。最初、僧侶たちは「泥だらけの湿地」から必死になって水を汲みだしたて豊かな付属農園を造った。宗教戦争とフランス革命で破壊されたが、再建されている。革命中は修道院の建物では、タバコが商いされていた。

ちなみに、上のサント・マリ修道院の版画は、17世紀に刷られたミシェル・ジェルマン『モナスティコン・ガリカヌム』Michel Germain, Monasticon Gallicanum(パリ国立図書館所蔵)に納められている168枚の修道院図および地形図のなかの一枚である。単身廊ラテン十字バジリカ式の基本構造は現在とほぼ同じである。特に後陣祭室とアプスにある3つの放射状祭室は上の写真3枚目と共通している。この版画は Google Livres で見ることができる。(Monasticon Gallicanum, Vol. 1 (1871) - avec les planches sur Google Livres)

教会堂に入って振り向くと、パイプオルガンと彫刻が目に飛び込んでくる。

このオルガンは、フランスの有名なオルガン職人のシュトルツ Jean-Baptiste Stoltz が1850年に製作したものである。彼は1813年にドイツ国境の町ブーゾンヴィル Bouzonville に生まれ、1874年パリで亡くなっている。スイヤックの他に、カオール Cahors やアジャン Agen の大聖堂オルガンも彼の作である。

本来は外壁にあったタンパンには修道士テオフィルの伝説 LÉGENDE DU MOINE THÉOPHILE が彫られている。修道士テオフィルは6世紀に生きた人で、悪魔と契約して宝物の管理職についていた修道士である。そのことを悔い改めて聖母マリヤによって救われたという伝説が残っている。L.  J.  Guénebault, LÉGENDE DU MOINE THÉOPHILE, Revue Archéologique11e Année, No. 2 (OCTOBRE 1854 A MARS 1855), pp. 622-624. この伝説の両側にいる二人の像は、右が聖ペテロで、左が聖ブノワだと言われている。聖ペテロは天国の鍵を手に持っている。このタンパンの下、入り口の右側にいるのが予言者イザヤ。

イザヤは旧約聖書に登場する預言者で、紀元前8世紀頃に生きた。メシアが現れることを預言したが、最後はのこぎりで挽かれて体を真っ二つにされて殉教したと伝えられている。『イザヤ書』第7章の14節にある「乙女が身ごもり、インマヌエルという名の男の子が生まれる」と予言している場面である。インマヌ=ともにいる、エル=神で、インマヌエルは「神とともにいる」を意味している。この像はしなやかな手足にヴェールのような衣服が絡み、中性的な妖艶さを漂わせている。

イザヤの反対側にあるのはヨセフ像だと言われている。マリアの夫、イエスの養父である。職業は大工であったとされる 。このイザヤとヨセフは生きた時代が全然違う。顔が刻まれているところが痛ましい。

「スイヤックの柱」 pilier de Souillac と呼ばれている、怪獣・奇獣が抱き合うように彫られた柱。イザヤのすぐそばにある。こんなに近くとは思わなかった。この柱の左側面にはアブラハムが子供のイサクを犠牲に捧げる場面「イサクの燔祭」が描かれている。

燔祭とは、古代ユダヤ教で生贄の動物を祭壇で焼いて神に捧げた儀式のこと(古代中国では、柴を焼き煙を上げて天を祭る儀式)。柱に彫られている場面は、旧約聖書の『創世記』22章1節から19節にかけて記述されているアブラハムの逸話である。アブラハムが年老いてから授かった一人息子イサクを生贄に捧げるよう神に命じられ苦悩している場面である。「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」(22章2節)。自分の一人息子を殺すという神の試練に彼は苦しんだ。柱の下の二人、右側がアブラハムで、左側で頭を押さえつけられているのがイサク。彼らの下に麦の穂を刈っている農民が、過酷な労働に喘いでいる。アブラハムがまさに息子を屠ろうとした時、神はアブラハムの信仰の確かさを知ってこれを止めた。柱の上から頭を下にして天から降りてきた天使がアブラハムの腕をとり、イサクを殺すのを止めさせる。代わりに生け贄とする子羊を差し出している。この子羊が後に磔刑に処された神の子羊=キリストとなる。スイヤックの柱に掘られたアブラハム、まさに我が子を殺そうとしているときの彼の頭は、真横にねじれている。苦しみの深さがこのねじれに表わされているように思われる。神の受難啓示の残酷さと、信仰はそう容易いことではないことが暗示されている。それにしても我が子を殺して生贄に捧げるくらいなら信仰を捨てるほうがましと普通の人は考える。受難はないに越したことはない。

 それにしても、なぜだろう。

時代や立場は違うのに、また、人間や動物や鳥、植物でさえ、この教会堂に置かれている彫刻はどれも、同じような悲哀というか、苦しみを背負って生きた命であるように見える。これらを、あえて選んで石を刻み続けた石工が表現したかったことが、言葉を越えて伝わってくる。生きることは耐えることなのか。

スイヤックの旧市街、ほとんど人は歩いていない。鉄でできた店の看板、何の店だったか覚えていないが、たぶんフォワ・グラの店。


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