神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

痒いところに手が届かない信仰。

2018年05月28日 | キリスト教


「痒いところに手の届く介護」……みたいな言葉って、たぶん聞いたことがある方、多いと思います(^^;)

 たとえば、オムツのちょっとしたズレも直してくれるとか、車椅子に座った時に腰が後ろまでぴったり着く形で移乗してくれるとか――それが介護じゃなくても、痒いところ以外のところは色々かいてくれるんだけど、本当に痒いところだけ何故かかいてくれない……みたいなこと、人間関係でもあると思います。

 たぶん、子育てとかボランティアなどでもそうかもしれないんですけど……結構あると思うんですよね。「本当はこうして欲しい」と思ってること以外はお父さんもお母さんも色々してくれて感謝してるんだけど、「本当に痒いところさえかいてくれたら」それ以外のことは実はどうでもよかったりするんだよね――みたいなことなんですけど(^^;)

 とりあえず、わたしが「介護」ということに関して一番難しいと思ったのが「見守り支援」ということでした。たとえば、左半身に麻痺のある方の場合、介護する側が手とり足とりなんでもしてあげるっていうのが、一番簡単なんですよね。向こうからも「ありがとう、ありがとう」って感謝してもらえるし、そう言ってもらえるとこっちもやり甲斐がある。

 でも実際には、「なんでも全部してあげる」というのは利用者(患者)さんにもよくないことですし、自分で出来ることは自分でしてもらう――となると、やっぱり時間もかかりますし、その様子を「じっと見守りながら待つ」っていうのが大切なんですよね。

 本当は痒いところに手が届いてないのに、「何かしてあげた」気になるっていうのが介護でもボランティアでも結構危険だったり……これはたぶん子育でもそうなんだろうなって思ったりするんですけど(^^;)

 それで、これは信仰ということも一緒だなって思ったり。。。

「神は心を見る。」のところで、サウルの信仰のことに触れたんですけど、サウルはこの時、神さまに捧げるべき一番良いものは自分のために取っておいて、それ以外のつまらないものを聖絶しました。

 つまり、わたしたちも神さまの痒いところ(?笑)はかかないで、どうでもいい「そんなところかいてもかかなくてもどーでもいいわい!!」みたいなところをゴッシゴッシ血が出るまでかきまくり――それで自分はなんて信仰深いんだろう……みたいに思ってることがあったりしたらどうしよう、とたまに思ったりします(^^;)

 たとえば、神さまの痒いところに手の届いてない祈り、神さまの痒いところに手が届いてない賛美、神さまの痒いところに手の届いてない礼拝……などなど、旧約聖書のイスラエル民族は、神さまに選ばれた民族でありながら、言ってみれば神さまにとって痒くもなんともないどーでもいいところをバリっバリ☆かくといった信仰によって――最終的には滅びの道を辿るということになってしまいました。。。

 もっとも、今は旧約時代と違ってイエスさまのことを信じている信者には聖霊が与えられているので、もしそうしたことがあったとしたら「あ、それちょっと違うよ~」とか、「方向間違ってるよ~」みたいに、祈りの中で注意して聞くなら、必ず聖霊さまが教えてくださるので、ある部分安心といえば安心なんですけれども(^^;)

 また、そうした聖霊さまの促しのことにも耳を傾けず、何もかも自分の思いどおりにした場合、何が起きるかというと……サウルと同じように「神さまの言葉が止まる」、「語りかけが一切なくなる」ということだと思うんですよね

 でも、やっぱりイエスさま降誕後の今という時代を生きるわたしたちはサウルと違って恵まれてるな~と思います。サウルの場合はその後悔い改める気持ちがあっても、神さまの御心は次代の王ダビデに移ってのちは、そのままでしたから。。。

 こうした神さまのせっかくの恵みを無駄にすることなく、祈りにおいても賛美においても礼拝においても、ちゃんと神さまの痒いところに手が届いている……常に神さまの御心と一致できているようにと意識しつつ、聖霊さまのそうしたお導きと助けとを日々願いたいと思います

 それではまた~!!





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