神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神は心を見る。

2018年05月21日 | キリスト教
【エン・ドルの口寄せの家でサウルに現れるサムエルの霊】サルヴァトール・ローザ


 時々、町の中で黒に黄色の文字で「世の終わりは近い」とか、「イエス・キリストは神の子」といったような看板を見かけますよね?(^^;)

 わたし、自分がノンクリスチャンだった頃は、あの看板を見るたびに「へー☆」という感じで、まるで興味ないどころか、むしろキリスト教に対する不信感を強めていたような気がします。そしてそんな中でわたしが唯一、その看板の中で心に残った聖句が「神は心を見る」という言葉でした。

 その後、かなり経ってからクリスチャンになった時、まず新約聖書から読みはじめ、次に旧約聖書を創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記第一……と読んできて、この言葉を読んだ時には少し感動しました

 何故といって、相当昔、自分がいつかクリスチャンになるだなんて想像もしてない頃に出会った言葉を聖書の中に見つけた時――「あ、あの看板の言葉はこのことだったんだ~♪」と思って、なんだか嬉しかったのです。

 わたしの持っている聖書によると、「神は心を見る」ではなく「主は心を見る」となっていて(意味は同じですけど^^;)、以下はその部分の引用ですm(_ _)m


 >>しかし主はサムエルに仰せられた。

「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」

(サムエル記第一、第16章7節)


 イスラエル民族が「自分たちも他の国々と同じように王が欲しい」と求め、その民が求めた王は彼らに災いをもたらすと最初に警告したのち、神さまはベニヤミン族のサウルをイスラエルの初代の王としました。ところが、主は>>「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ」と仰せられ、主が次にイスラエルの王として選んだのがダビデだったのでした。


 >>「彼らが、『私たちをさばく王を与えてください』と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに仰せられた。『この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから』」

(サムエル記第一、第8章6~7節)


 イスラエル民族の歴史の中で、もっとも栄えたとされるのが、ダビデ・ソロモン時代なわけですけど……その前にイスラエルの初代の王にサウルという人物がいたと知って、驚きました。なんでかっていうと、ダビデとソロモンって名前だけは誰でも聞いたことあると思うんですけど、その前にサウルという王がいたと知り、彼の名前は初耳だったので、それで驚いたのです。

 ダビデとソロモンとは、それぞれ失敗がありながらも主にあってとても祝福された人生だったと思うのですが、サウルって最初は神さまの御心に適った人物でありながら、途中から神さまと心がひとつではなくなったため、王位から退けられてしまうんですよね


 >>「サムエルはサウルに言った。『あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ』」

(サムエル記第一、第13章13~14節)

「するとサムエルは言った。『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた』」

(サムエル記第一、第15章22~23節)


 いえ、正直わたし、ここを読むたびに思うんですよね。神さま、ちょっと厳しいな~なんて(^^;)

 そして、聖書のサウルの失敗って、現代のクリスチャンにとっても結構身につまされると言いますか、そんなところがあるなって、自分としては思っていて。。。

 つまり、最初は神さまに選ばれて、イスラエルの王となり……その後、高慢になったというよりは(そういう部分もあったのだとは思いますが)、自分が王さまなんだから、少しくらい自分の好きなようにしてもいいじゃないか……っていうんでしょうかね(^^;)

 サウルはこの世に頼るべき方は自分をイスラエルの王にした主しかいないということをよく知っており、神さまの声がなくなった後には、霊媒師にまで頼っています。いえ、わたしこの箇所やサウルと息子のヨナタンの死に様のことを思うと――本当に「嗚呼」って思うんですよね。。。

 わたしたちも、イエスさまのことを自分の救い主として受け容れて以後は、まず最初は思うんですよね。「よっしゃー!!これからオラの人生は変わるでえ~♪」みたいに。

 ところが、そこから神さまの聖霊さまを通した整えの御手が入りますから、そういう意味では折に触れて神さまに助けていただけるのと同時に、結構大変なところもあったりして

 そして、サウルの場合は、やはり彼はイスラエルの王ですから、それだけ求められる神さまの基準というのは高いものではなかったかと思われます。「ちょっとくらいなら神さまの御心から外れても……」、「このくらいならいいじゃん。ほーんのちょっと、ほーんのちょこっとだけ自分の好きなようにしてもさあ。俺、王さまなんだしィ♪」みたいな気の緩みというのでしょうか。

 わたしたちも、そういうところって結構あるような気がします。基本的な線では神さまに聞き従おうとするものの、「人生のこの部分については、自分の好きなようにしちゃってもいいんじゃね?」みたいに思ったことが(神さまに祈りの中でそのことについて聞かなかった、確認を取らなかったことが)、のちに災いになるといったようなことですけど(^^;)

 でもやっぱり、サウルの場合は王さまという特別な地位にあったことから――常に「神さまの御心とひとつ」であることが求められていたわけです。また、そこから逸れた時に悪霊から攻撃を受けたりと、これと同じことは現代のクリスチャンにもまったく同じことが起きると思うんですよね。

「まあ、この部分は自分の好きにしちゃってもいーじゃん!」と思ってることに夢中になっているうちに、いつの間にか神さまを第一とする生活から離れ、最終的には「こんなはずじゃなかったのに」といった罪の刈り取りをすることになる、ということです。

 なんにしてもわたし、ダビデやソロモンのように祝福されたいとか思っていながら、サウルの信仰で躓いた部分を読むたびに、まるで自分のことのように胸が痛むというか

 そして、サウル的信仰ではなく、ダビデやソロモンのような信仰に習いたいと思いつつも、ふと気づくと、「あれ?これってもしかして、つまらないものを聖絶して一番良いものを自分に残しておいたサウルみたいになってない?」と思うことが時々あったり。。。

 神さまを第一にしたい、いや、第一にしようと思っていても、ふと気づくとなんかちょっとズレている、逸れてきている気がする……というのは、祈りの中で聖霊さまを通して修正がなされていくと思うんですけど、この祈りや礼拝を守るといったことが出来なくなっていくと、だんだんに神さまが本来用意してくださっている道から離れていく(そしてそれが敵の目的でもある)といったことがあるので、日々注意して見ていく必要があるんだろうな~と思います(^^;)

 それではまた~!!





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