
【結婚式】マルク・シャガール(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m)
今回の【2】では、作中で描かれている宗教的なことに少し注目して書き進めてみたいと思いますm(_ _)m
本当は、原作のほうも読んでから色々書いたほうがいいのかな~って思うんですけど、まあ頭の悪いわたしがある程度知っていることを元に、ということが前提になってるっていうことでよろしくお願いします(^^;)
まず、キリスト教に関連したポイントとしては、作中でロシア兵の偉そうな雰囲気の方が「ユダヤ人はキリストを十字架につけた民族だぞ」みたいに言うシーンがあったと思います。
もしわたしがクリスチャンになる前にこの映画を見ていたとしたら――正直、いい映画だな~って思うのと同時に、こうした部分については「だからどうしたの?
」という感じだったと思います(^^;)
それまでにも映画や海外ドラマの中で、ユダヤ人の方がそうとバレないために名前を変えているとか、本当はユダヤ人であることを隠している……といった描写があっても、「どうしてユダヤ人だとそんなにいけないんだろう?
」とよくわからなかったものでした。
もちろん、それが第二次世界大戦下だというのならわかります。でもそれ以外の時代が描かれている時にも、ユダヤ人の方がそうであることを隠していたり、そのためにユダヤ風の名前を変えてしまって、親御さんと喧嘩になってたりとか……「?」と思いながらドラマを見ていたんですよね。
ユダヤ人、ユダヤ民族が何故迫害されるのかというと、おそらく一番の理由が「あいつらはイエス・キリストを十字架につけた民族じゃないか」ということなんだと思います。
それと、第二次世界大戦下の一般に言うホロコースト(ポグロム/ショア)が何故起きたのか――それは今も解明されない歴史的謎である……と以前ある本で読みましたが、「その理由のひとつとして、ユダヤ人に対する嫉妬というのは間違いなくあっただろう」とも別の本に書かれているのを読んだことがあります。
ようするに、ユダヤ人、ユダヤ民族であるということは、そのくらい<特別>だといっていいのではないでしょうか。
実際、ユダヤ系の方には優れた方が多いというのは、多くの人々が認めるところだと思います。ノーベル賞を受賞した方の中にユダヤ系の方は多いと言いますし、また迫害され、散らされていった土地で就業できる職業が少なかったことから――質屋や金貸し業をしてお金持ちになるなど、あらゆる土地でユダヤ人たちはず太くというか、根強く生き残っていったのだとも聞きます。
橋のたもとに一軒の居酒屋があった。
そこで裕福なユダヤ人が荒くれ者どもとともに、酒の席に着いた。
翌日、居酒屋の店主が橋から川をのぞいて見ると、金持ちユダヤ人の死体が流れてきた。
「やれやれ。さもありなん!」
店主はそう呟いて、胸の前で十字を切った。
この小話の一体何が面白いのか、日本人にはさっぱりですが、ユダヤ人にまつわるジョークには、何故かこういうのが多いです(^^;)
つまり、簡単に言うとすれば――「あいつらはキリストを十字架につけた奴らだ」、「ゆえに何をしてもいい」、「キリストを十字架にかけた民族のくせに、あんなに金を持っとるとはけしからん」……といった理論が成り立つものらしく、『屋根の上のバイオリン弾き』の結婚式を滅茶苦茶にされた場面、それもこうした思想(?)が背景にあるのだろうと思います。
日本人から見ると、こういう種類の<ユダヤ人憎悪>の感情はまったく理解出来ないものですが、実をいうと日本人はこのユダヤ人に共通するものを持っている……とよく言われるそうです。
つまり、アジア人の中でも日本人は<特別>、他のアジア人とは違う<まったく別の種族>といったように感じると答える欧米の方は多いのだとか。
いえ、わたし思うんですけど、日本って島国だから今もこうして独立した国であるわけですけど、もっと中国のほうに距離的に近い感じだったとしたら、とっくに国として滅ぼされて、アジア全土に散っていたんじゃないかなという気がしてなりません。そして太平洋戦争ののちは、あらゆる土地で迫害されてたと思うんですよね。
「あいつは日本人だ」→「だから何をしてもいい」……こんなふうに考えてみると、ユダヤ人が何故排斥されるのかって、日本人にも少しは理解できてくるんじゃないかなって、そんな気がしたり(^^;)
さて、そろそろ聖書に関する本題のほうにお話を移したいと思うのですが、新約聖書のローマ人への手紙には、こんなふうに書き記されています。
>>兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人(ユダヤ人)の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。
「救う者がシオンから出て、
ヤコブから不敬虔を取り払う。
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。
それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である」
彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。
神の賜物と召命とは変わることがありません。
ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。
なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
(ローマ人への手紙、第11章25~36節)
ユダヤ教を信じ守っている方々――というか、ユダヤ教は旧約聖書のみを聖典としており、この旧約聖書にはいずれユダヤ民族を救う救世主が現れる……と預言されています。
『屋根の上のバイオリン弾き』の中でも、仕立て屋のモーテルが「こんな時にこそ、救世主が現れて救ってくださるべき」みたいに言うシーンがあったと思うのですが、キリスト教徒というのはこの旧約聖書に預言された救世主こそがイエス・キリストであると信じている人々ということなんですよね。
それに対し、ユダヤ教を信じている方々は、イエス・キリストが旧約聖書に預言されている救世主であるとは信じていません。ゆえに、今も彼らは「いつかユダヤ民族を救う救世主が現れるはず」と、ずっと待ち続けているのです。ゆえに、彼らの立場からしてみれば「旧約」聖書という言い方もおかしいというか。キリスト教徒はユダヤ教を信じる人々が聖典としている(旧約)聖書と、それに加えて新約聖書とを聖典としているわけですが、旧約聖書というのは、新約聖書から見た場合において「旧約」という呼び方になるということなんですよね(^^;)
そしてさらに、イスラム教徒の方々というのは、この旧約聖書と新約聖書にプラスしてコーランを聖典としているのだと思います。彼らの立場からしてみると、イエス・キリストというのもまた数多くいる預言者のひとりに過ぎない……といった、そうした考え方のようです。
つまり、ユダヤ教徒の方にしてみると、「何故自分たちにはキリスト教徒とイスラム教徒という、一緒に育ったわけでもない弟がふたりもいるのか」という、そうした立場といっていいと思うんですよね。ユダヤ教徒の方の立場から見た場合、知らない弟が突然ふたり現れて、「自分こそが親(神)から資産を受け継ぐべき唯一の子である」と主張しだしたようなものだと思います(^^;)
それに対して当然、ユダヤ教徒の方はこう思うわけですよね。「馬鹿を言うな。我々ユダヤ民族こそが神から選ばれた唯一の民であり、神からすべての資産を受け継ぐべく定められた長男であるぞ」と……。
話が色々とややこしくなりますので、キリスト教の立場から見た場合、ということに話を戻しますと、ユダヤ教徒の方々が一度は救世主を拒絶し、受け容れなかったとしても――それもまた父なる神の御計画の一部である、ということなんですよね。
旧約聖書の中にはそうした預言がありますし、またユダヤ民族の方々が世界中に散らされるということや、けれどまたもう一度集められてきて国を建てるということも、聖書に記されているとおり成就している……といったようにキリスト教側の人々はそうした見方をするわけです。
そしてユダヤ人の方々の中にも、キリスト教を信じている人々はいて、そうした方々のことをメシアニックジューというのですが、ユダヤ民族の方々が一度頑なにされたのも、それは他のすべての民族がイエス・キリストを知る機会を得るためである……けれど、そうしたユダヤの人々にも<回復の時>が来た時にはイエス・キリストこそがすでに来られたメシアであると信じることが出来るようになる――これがキリスト教側から見たユダヤ教を信じている人々への考え方なんですよね(^^;)
そもそも神さまから選ばれたユダヤ民族の方々がいなければ、当然キリスト教というのものは成立していません。ゆえに、日本人クリスチャンの場合は特に「ユダヤ人の方」と聞いただけで、ある種の敬意に打たれるものがあると思います。仮にその方がユダヤ教の信徒であり、イエス・キリストをメシアと信じていなくても、「あなた方あってこそのわたしたち」といったような、深い尊敬の気持ちが自然に芽生えるとでもいったらいいでしょうか。
なので、第二次世界大戦下であった<ユダヤ人憎悪>の感情であるとか、単に「ユダヤ人である」というだけで嫌悪するといったことは、日本人にはやっぱり根本的に理解が難しいなと思うんですよね(^^;)
わたしも、ある程度話を進めやすくために、なんとも中途半端な知識によってこの記事を書いておりますので、ユダヤ民族迫害の歴史といったことについては、またあらためて色々と学んでから記事にしてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
今回の【2】では、作中で描かれている宗教的なことに少し注目して書き進めてみたいと思いますm(_ _)m
本当は、原作のほうも読んでから色々書いたほうがいいのかな~って思うんですけど、まあ頭の悪いわたしがある程度知っていることを元に、ということが前提になってるっていうことでよろしくお願いします(^^;)
まず、キリスト教に関連したポイントとしては、作中でロシア兵の偉そうな雰囲気の方が「ユダヤ人はキリストを十字架につけた民族だぞ」みたいに言うシーンがあったと思います。
もしわたしがクリスチャンになる前にこの映画を見ていたとしたら――正直、いい映画だな~って思うのと同時に、こうした部分については「だからどうしたの?

それまでにも映画や海外ドラマの中で、ユダヤ人の方がそうとバレないために名前を変えているとか、本当はユダヤ人であることを隠している……といった描写があっても、「どうしてユダヤ人だとそんなにいけないんだろう?

もちろん、それが第二次世界大戦下だというのならわかります。でもそれ以外の時代が描かれている時にも、ユダヤ人の方がそうであることを隠していたり、そのためにユダヤ風の名前を変えてしまって、親御さんと喧嘩になってたりとか……「?」と思いながらドラマを見ていたんですよね。
ユダヤ人、ユダヤ民族が何故迫害されるのかというと、おそらく一番の理由が「あいつらはイエス・キリストを十字架につけた民族じゃないか」ということなんだと思います。
それと、第二次世界大戦下の一般に言うホロコースト(ポグロム/ショア)が何故起きたのか――それは今も解明されない歴史的謎である……と以前ある本で読みましたが、「その理由のひとつとして、ユダヤ人に対する嫉妬というのは間違いなくあっただろう」とも別の本に書かれているのを読んだことがあります。
ようするに、ユダヤ人、ユダヤ民族であるということは、そのくらい<特別>だといっていいのではないでしょうか。
実際、ユダヤ系の方には優れた方が多いというのは、多くの人々が認めるところだと思います。ノーベル賞を受賞した方の中にユダヤ系の方は多いと言いますし、また迫害され、散らされていった土地で就業できる職業が少なかったことから――質屋や金貸し業をしてお金持ちになるなど、あらゆる土地でユダヤ人たちはず太くというか、根強く生き残っていったのだとも聞きます。
橋のたもとに一軒の居酒屋があった。
そこで裕福なユダヤ人が荒くれ者どもとともに、酒の席に着いた。
翌日、居酒屋の店主が橋から川をのぞいて見ると、金持ちユダヤ人の死体が流れてきた。
「やれやれ。さもありなん!」
店主はそう呟いて、胸の前で十字を切った。
この小話の一体何が面白いのか、日本人にはさっぱりですが、ユダヤ人にまつわるジョークには、何故かこういうのが多いです(^^;)
つまり、簡単に言うとすれば――「あいつらはキリストを十字架につけた奴らだ」、「ゆえに何をしてもいい」、「キリストを十字架にかけた民族のくせに、あんなに金を持っとるとはけしからん」……といった理論が成り立つものらしく、『屋根の上のバイオリン弾き』の結婚式を滅茶苦茶にされた場面、それもこうした思想(?)が背景にあるのだろうと思います。
日本人から見ると、こういう種類の<ユダヤ人憎悪>の感情はまったく理解出来ないものですが、実をいうと日本人はこのユダヤ人に共通するものを持っている……とよく言われるそうです。
つまり、アジア人の中でも日本人は<特別>、他のアジア人とは違う<まったく別の種族>といったように感じると答える欧米の方は多いのだとか。
いえ、わたし思うんですけど、日本って島国だから今もこうして独立した国であるわけですけど、もっと中国のほうに距離的に近い感じだったとしたら、とっくに国として滅ぼされて、アジア全土に散っていたんじゃないかなという気がしてなりません。そして太平洋戦争ののちは、あらゆる土地で迫害されてたと思うんですよね。
「あいつは日本人だ」→「だから何をしてもいい」……こんなふうに考えてみると、ユダヤ人が何故排斥されるのかって、日本人にも少しは理解できてくるんじゃないかなって、そんな気がしたり(^^;)
さて、そろそろ聖書に関する本題のほうにお話を移したいと思うのですが、新約聖書のローマ人への手紙には、こんなふうに書き記されています。
>>兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人(ユダヤ人)の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。
「救う者がシオンから出て、
ヤコブから不敬虔を取り払う。
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。
それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である」
彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。
神の賜物と召命とは変わることがありません。
ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。
なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
(ローマ人への手紙、第11章25~36節)
ユダヤ教を信じ守っている方々――というか、ユダヤ教は旧約聖書のみを聖典としており、この旧約聖書にはいずれユダヤ民族を救う救世主が現れる……と預言されています。
『屋根の上のバイオリン弾き』の中でも、仕立て屋のモーテルが「こんな時にこそ、救世主が現れて救ってくださるべき」みたいに言うシーンがあったと思うのですが、キリスト教徒というのはこの旧約聖書に預言された救世主こそがイエス・キリストであると信じている人々ということなんですよね。
それに対し、ユダヤ教を信じている方々は、イエス・キリストが旧約聖書に預言されている救世主であるとは信じていません。ゆえに、今も彼らは「いつかユダヤ民族を救う救世主が現れるはず」と、ずっと待ち続けているのです。ゆえに、彼らの立場からしてみれば「旧約」聖書という言い方もおかしいというか。キリスト教徒はユダヤ教を信じる人々が聖典としている(旧約)聖書と、それに加えて新約聖書とを聖典としているわけですが、旧約聖書というのは、新約聖書から見た場合において「旧約」という呼び方になるということなんですよね(^^;)
そしてさらに、イスラム教徒の方々というのは、この旧約聖書と新約聖書にプラスしてコーランを聖典としているのだと思います。彼らの立場からしてみると、イエス・キリストというのもまた数多くいる預言者のひとりに過ぎない……といった、そうした考え方のようです。
つまり、ユダヤ教徒の方にしてみると、「何故自分たちにはキリスト教徒とイスラム教徒という、一緒に育ったわけでもない弟がふたりもいるのか」という、そうした立場といっていいと思うんですよね。ユダヤ教徒の方の立場から見た場合、知らない弟が突然ふたり現れて、「自分こそが親(神)から資産を受け継ぐべき唯一の子である」と主張しだしたようなものだと思います(^^;)
それに対して当然、ユダヤ教徒の方はこう思うわけですよね。「馬鹿を言うな。我々ユダヤ民族こそが神から選ばれた唯一の民であり、神からすべての資産を受け継ぐべく定められた長男であるぞ」と……。
話が色々とややこしくなりますので、キリスト教の立場から見た場合、ということに話を戻しますと、ユダヤ教徒の方々が一度は救世主を拒絶し、受け容れなかったとしても――それもまた父なる神の御計画の一部である、ということなんですよね。
旧約聖書の中にはそうした預言がありますし、またユダヤ民族の方々が世界中に散らされるということや、けれどまたもう一度集められてきて国を建てるということも、聖書に記されているとおり成就している……といったようにキリスト教側の人々はそうした見方をするわけです。
そしてユダヤ人の方々の中にも、キリスト教を信じている人々はいて、そうした方々のことをメシアニックジューというのですが、ユダヤ民族の方々が一度頑なにされたのも、それは他のすべての民族がイエス・キリストを知る機会を得るためである……けれど、そうしたユダヤの人々にも<回復の時>が来た時にはイエス・キリストこそがすでに来られたメシアであると信じることが出来るようになる――これがキリスト教側から見たユダヤ教を信じている人々への考え方なんですよね(^^;)
そもそも神さまから選ばれたユダヤ民族の方々がいなければ、当然キリスト教というのものは成立していません。ゆえに、日本人クリスチャンの場合は特に「ユダヤ人の方」と聞いただけで、ある種の敬意に打たれるものがあると思います。仮にその方がユダヤ教の信徒であり、イエス・キリストをメシアと信じていなくても、「あなた方あってこそのわたしたち」といったような、深い尊敬の気持ちが自然に芽生えるとでもいったらいいでしょうか。
なので、第二次世界大戦下であった<ユダヤ人憎悪>の感情であるとか、単に「ユダヤ人である」というだけで嫌悪するといったことは、日本人にはやっぱり根本的に理解が難しいなと思うんですよね(^^;)
わたしも、ある程度話を進めやすくために、なんとも中途半端な知識によってこの記事を書いておりますので、ユダヤ民族迫害の歴史といったことについては、またあらためて色々と学んでから記事にしてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!

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