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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

人生の皮肉。

2018年04月24日 | キリスト教
【ファラオの穀物倉庫監督のヨセフ】ローレンス・アルマ=タデマ


 今回は、前回のヨセフのお話の続きですm(_ _)m

 以前何かの本で、「ずっと欲しいと願っていたものが手に入った時、それが手に入ってもすでに高い価値を持っていないというのは人生の皮肉だ」……といったような文章を読んだことがあります。

 何を言いたいかといいますと、たとえばわたしが誰かに何かのことで恨みを抱いており、そいつらに神の鉄槌が下るがいい!!と思っていたとして――そう思った時に神さまの鉄槌が下らず、そんなことがあったのも忘れた頃に、相手が非常な不幸の連続ののちに死んだ……と聞いても、すでにもう少しも嬉しくなどなく、そんな卑しい思いを抱いたことを思いだし、むしろ恥かしくすらなる……といったようなことが、時に人生にあったりするのではないでしょうか(^^;)

 さて、父のヤコブが兄弟たちの中でヨセフを特に猫可愛がりしたことで、嫉妬した兄弟たちにヨセフは奴隷として売られてしまったわけですが、その後、エジプトのパロ(王)に取り立てられ、エジプトで王に次ぐ宰相の地位にまでのぼりつめた……といったようなところまで、前回は書きました。

 そしてヨセフは祭司ポティ・フェラの娘アセナテという女性と結婚し、彼女は彼のためにマナセとエフライムというふたりの息子を生みました。


 >>ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた」からである。

 また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が私の苦しみの地で、私を実り多い者とされた」からである。

(創世記、第41章51~52節)


 いえ、わたしこの間聖書のこの部分を読んだ時に……実は初めてハッとしたんですよね。

 わたしの聖書の欄外注を読むと、


 マナセ=「忘れる」から派生した語。ヨセフが忘れたのは過去の忌まわしい出来事と苦痛であり、兄たちに対する憎しみ、怒りであった。

 エフライム=「実る」の意。奴隷として売られて来てからの数々の試練こそ、今日の実りある生活の前提となるべきものであった。


 とあります。

 愛するというのはつまり、「赦すこと。そして忘れること」だと言いますが、自分が一度赦したつもりでいても、相手がもう一度同じ罪を犯した時、二度目の罪以前の一度目の罪が思いだされる、さらに、相手が今度は別の三度目の罪を犯した時にも、やはり一度目と二度目の罪が思いだされ――なんていうこと、ないでしょうか?(^^;)

 でもヨセフはこの時、兄弟たちに対してあった怒りも憎しみも、牢獄時代の苦痛も何もかも、赦すと同時に本当に「忘れた」、忘れてしまったのだと思います。

 そして、神さまが以前から語っておられたとおり、エジプトでは権力者として祝福され、おそらく家庭生活のほうも恵まれて、ヨセフはとても幸せであったものと思われます。

 こののちさらに、ヨセフが兄弟たちに売られる原因となったあの夢――預言の夢が成就する時がやって来ます。ヨセフがパロの夢の解き明かしをしたとおり、地を激しい飢饉が襲ったため、パレスチナ(約束の地、カナン)にいたヤコブの息子たちは、エジプトに食糧があると聞き、エジプトにまで兄弟十人でやって来ます。

 けれども、食糧を買いに来た兄弟たちを見て、ヨセフには彼らが自分の兄であるとすぐにわかりますが、兄弟たちにはヨセフのことがわかりません。そこでヨセフは、昔の恨みを思いだしてのことではなく、彼らの心の内を知りたいのと、弟のベニヤミンと会いたかったためでしょう。兄弟たちに間者の疑いをかけ、シメオンを人質とし、次にやって来る時には末の弟のベニヤミンを連れて来るようにと他の兄弟たちに言い渡します。


 >>彼らは互いに言った。

「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ」

 ルベンが彼らに答えて言った。

「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ」

 彼らは、ヨセフが聞いていたとは知らなかった。彼と彼らの間には通訳者がいたからである。

 ヨセフは彼らから離れて、泣いた。それから彼らのところに帰って来て、彼らに語った。そして彼らの中からシメオンをとって、彼らの目の前で彼を縛った。

 ヨセフは、彼らの袋に穀物を満たし、彼らの銀をめいめいの袋に返し、また道中の食糧を彼らに与えるように命じた。それで、人々はそのとおりにした。

(創世記、第42章21~25節)


 この、>>ヨセフは彼らから離れて、泣いた。というところは、とても感動的だと思います

 そして、ヨセフ自身とても嬉しかったことでしょう。やはり、わたしたちも過去にあった何かのことで、相手が間違っていて自分が害をこうむったといったような場合――その後何年もが過ぎたのちでも、相手がそのことで実は後悔していたとわかったら、「そんなことはもうどうでもいいことだ」として、心からその人を赦すのではないでしょうか。

 こののち、ヨセフは弟のベニヤミンと再会できただけでなく、ヨセフは獣に裂かれて死んだと聞かされていた父のヤコブとも再会し……ヨセフは家族の全員に食糧のみならず、財産的なことに関してもとても良くしてあげました。

 それよりも順序としては先のこととなりますが、ヨセフは自分を売った兄弟たちが十分反省し、また年老いた父がまだ生きているということも知り、人払いをしたのち、彼らに自分の正体を明かします。


 >>ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、

「みなを、私のところから出しなさい」

 と叫んだ。

 ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。

 しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。

 ヨセフは兄弟たちに言った。

「私はヨセフです。父上はお元気ですか」

 兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。

 ヨセフは兄弟たちに言った。

「どうか私に近寄ってください」

 彼らが近寄ると、ヨセフは言った。

「私はあなたがエジプトに売った弟のヨセフです。

 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。

 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。

 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。

 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

 それで、あなたがたは急いで父上のところに上って行き、言ってください。

『あなたの子のヨセフがこう言いました。神は私をエジプト全土の主とされました。ためらわずに私のところに下って来てください。

 あなたはゴシェンの地に住み、私の近くにいることになります。あなたも、あなたの子と孫、羊と牛、またあなたのものすべて。

 ききんはあと五年続きますから、あなたも家族も、また、すべてあなたのものが、困ることのないように、私はあなたをそこで養いましょう』

 さあ、あなたがたも、私の弟ベニヤミンも自分の目でしかと見てください。あなたがたに話しているのは、この私の口です。

 あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄誉とあなたがたが見たいっさいのことを私の父上に告げ、急いで私の父上をここにお連れしてください」

 それから、彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。

 彼はまた、すべての兄弟に口づけし、彼らを抱いて泣いた。そのあとで、兄弟たちは彼と語り合った。

 ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、パロの家に伝えられると、パロもその家臣たちも喜んだ。

(創世記、第45章1~16節)


 こうして、事態は大団円を迎えるわけですが、ヨセフが兄弟たちの罪をすっかり赦しているのに対して、兄弟たちのある者たちはそのことに疑いを持ったというのは、本当に悲しいことであるような気がします。


 >>ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、

「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない」

 と言った。

 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。

「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。

『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい。と』

 今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください」

 ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。

 彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。

「私たちはあなたの奴隷です」

 ヨセフは彼らに言った。

「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。

 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう」

 こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。

(創世記、第50章15~21節)


 ヨセフが見たあの夢――太陽と月と十一の星(ヨセフの兄弟)がヨセフのことを伏し拝むという――は完全に成就したわけですが、やはりわたしたちも出来ることならヨセフのように、彼ほどの苦難に遭うのは出来れば避けたい気もしますが(^^;)、でもやっぱり、赦される者ではなく、出来るなら赦す者でありたいと願う者とされたいと思います。

 それではまた~!!





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