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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

報い。

2018年04月20日 | キリスト教
【ヨセフとポティファルの妻】グイド・レーニ


「報い」という言葉には、大体ふたつの意味があるような気がします。

 つまり、長年何かのことで努力を続ける、苦難を耐え忍ぶなどして、そのことが報われたといった意味の「報い」と、犯罪などに手を染め、悪いことをし続けた人間が逮捕されるなどして、「とうとうあいつも報いを受けたか」といった意味の「報い」と。

 ここはキリスト教のことについて何か書くといったブログですので(^^;)、クリスチャンにとっての神の報い、ということについて、今回は何か書いてみたいと思いましたm(_ _)m

 旧約聖書の創世記に、ヨセフという人物が出てきます。

 彼は族長ヤコブの秘蔵っ子で、他の兄弟たちよりもより多く可愛がられていたということで、ある時嫉妬したこの兄弟たちに奴隷として売られてしまいます。

 しかも、奴隷として売られた先の家の主人の妻から「わたしと寝ておくれ」と言われ、そんなことは出来ないと逃げだすと、この妻がヨセフが自分を誘惑したと夫に訴えたことで、ヨセフは牢獄へ入れられてしまいます。

 わたし、この時ヨセフ、ものすごくショックだったろうなって思うんですよね。だって、忠実に仕えた家の主人に疑われ、濡れ衣の罪で牢獄へ行ったというだけでなく、いわば強姦未遂事件を起こして牢獄へ行くって……盗みで捕まるといったこと以上に、恥辱が伴うという意味で「そりゃないべよ、神さま」とつい思ってしまうくらいです(^^;)

 このあともヨセフには、エジプトの国の高官に夢の解き明かしをして欲しいと言われ、その解き明かしをしたにも関わらず、その高官が「解放してくれる」との約束を忘れてしまい……といった苦難が続きます。けれども、最終的にヨセフには神さまからの守りがあり、この長きに渡る牢獄期間を脱したのちは、エジプトの宰相という地位にまで上りつめます。

 その頃、世界には大飢饉があって、カナンの地にいたヤコブ一族もまた、食糧を求めてエジプトへやって来――自分を奴隷として売った兄弟たちに対し、ヨセフは寛大にも十分な食糧を与えてあげたのでした。

 また、このことこそがヨセフがあれほどの苦難にあった理由、神の試しを受けた理由であり、この試みの期間を終えたのち、ヨセフは神さまにあって堅く立てられ、十分な報いを受けることが出来たといっていいと思います。

 さて、ここで創世記という遥か昔の時代から、現代という今の時代に話を移してみますと、「みんな、まったくもって報いのある人生を送っているな♪」などとはとても言えない気がします(^^;)

 聖書の時代も今も、>>「正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある(伝道者の書、第7章15節)」ということにはまるで変わりないような気がしますし、いつでも誰もが「神の報いなど、一体どこにあるのだろう」と探し求めるような世界であることに、何も変わりがない気がしますよね。

 けれども、>>「わたしが報いをする」と言われる神は、確かに今も生きていて、悪者に対しては裁かずにおかず、最後まで忠実に聞き従った信仰者にもまた、必ず報いてくださる方である――と、クリスチャンと呼ばれる人々は信じているんですよね。時に、その信仰が絶望に揺らぎそうになる時にも……。

 イサクのことで試みを受けたアブラハムもそうですが、ヨセフもまた自分が牢獄に囚われている間、「神の約束はどこへいったのだろう」と何度も疑ったでしょうし、信仰に堅く立っていたにしても、流石に十年もの牢獄生活というのはあまりに長すぎます。

 でも、わたしが勝手に想像するには――この時の経験があったことで、ヨセフはおそらく相当人間性が神さまにあって磨かれていたのではないでしょうか。もともとヨセフは素直で正直な、良い性質を持った若者ではあったかもしれません。けれども一方、父親に甘やかされたお坊ちゃま的なところもあり、世間というものをよく知らなかったのではないでしょうか。

 ですから、宰相という地位にまで上り詰めても、いつでも非常に謙遜に事にあたり、特に裁きということに関しては、自分に起きたことと鑑みて、慎重かつ公正だったのではないかという気がします。また、ヨセフがそのように優れた人物であったればこそ、エジプトのファラオは彼に権力のすべてを任せた……ということなのではないでしょうか。

 わたしも昔、今よりずっと若くてクリスチャンでもなかった頃、悪者にはすぐに神の鉄槌が下り、善人にはその善良さに従ってすぐにも報いがあるべきだ……と一時期思っていたことがあります(=「だから神などいないんだ」という・笑)。

 けれども、神さまの御思いはわたしたちの想像を遥かに超えて高いものでした。


 >>そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。

 必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

(イザヤ書、第55章11節)


 アブラハムもそうですが、ヨセフもまたおそらくは、「自分が今身に受けているこの苦難は一体なんなのだろうか」と思ったのではないかと想像します。けれども、ふたりとものちになって十分すぎるほどの主の「報い」を受けることが出来たと思うんですよね。

 わたしたちにもまた、「今わたしが身に引き受けているこの苦難は一体なんなのだろうか」と思うことがたくさんありますが、それもおそらくはヨセフと同じように「長い視点」で見た場合に、その苦難がのちに生かされてくるという、そういうことが多いのではないかと想像します。

 それではまた~!!





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