神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

脳死とラザロ。

2016年03月01日 | キリスト教
【ラザロの復活】カラヴァッジョ


 デヴィッド・ボウイさんがさる一月十日にお亡くなりになられました

 そのことを知ったのはラジオを聴いていて、だったのですが……そのあと最後のアルバムに収められている「ラザルス」という曲がかかっているのを何度か聴きました。

「ラザルス」といえば、聖書の「ラザロ」のことであり、デヴィッドさんは歌詞の中で「天国にいる」、「自由になる/解放される」といったように歌っていらっしゃるみたいなので、「ラザルス」という曲名はそうした意図があってのことなんだろうなあと思ったりしたんですよね(悲しまなくていい/俺は死ぬんじゃないよ/天国へ甦っていくんだ、というような)。

 聖書に出て来るラザロという人は、イエス・キリストによって死後四日経ってから甦らせていただいたという方でした。

 そしてここから、前回の記事と関連して、ということになるのですが――脳死状態の方が示す<ラザロ兆候>という状態があって、これは脳死と診断された方が腕を持ち上げたりして体を動かすことがあることから、「脳死は本当に人の死なのか」ということが論じられる際に、必ず話として出てくることのようです。

 もし、自分の肉親や身近な人、友人・恋人などが「脳死」とお医者さんから告げられても、一般の方にはいまいちピンと来ないことのような気がします。わたしもその昔、「脳死法案が議会で通った」というようなことをテレビでやっていた時、「そんなおかしなことがあるものだろうか」と思っていたものでした(^^;)

 というのも、わたしの場合「脳死」と「植物状態」とを混同していまして、「まだ息のある人を植物状態だからといって見捨てるなんてひどい」といったように勘違いしていたようなのです

 でもこのあたりのことに関しては、実際に交通事故などで自分の家族が脳死状態とお医者さんに言われてはじめて――「脳死とは何か」について知るという方のほうが圧倒的に多いのではないでしょうか。

 わたしの場合は、前にどこかで書いたように、看護助手として働いていた病院に植物状態とか意識不明の昏睡状態という患者さんが多かったので、そこの病院を辞めたあと、そのことと関連してホスピスとか脳死といったことを自分で調べはじめたというのがありました。

 そして、<脳死>といったことについては一言で説明するのが難しいというか、文章がとても長くなるため、日本臓器移植ネットワークさんのページをリンクさせていただきたいと思いますm(_ _)m


       『脳死と植物状態』


 物凄くざっくり簡単に言ったとすれば、もし今ほど医療が発達してなくて、人工呼吸器なるものが開発されていなかったとしたら、この脳死といった問題は存在していなかったものと思われます。つまり、脳死状態の方というのは人工呼吸器によって生かされている状態なので、人工呼吸器を抜去してしまえば自力で呼吸が出来ないわけですから、自然とお亡くなりになることになるわけですよね。

 わたしも医療従事者ではないので難しいことはわからないのですが、それでもわたしが病院で見ていた印象だと、人工呼吸器をされている方というのはIVH(中心静脈栄養法)や胃ろうなどによって生かされている……といった印象でした。

 IVH(中心静脈栄養法)というのは、口から食事を取れなくなった患者さんの栄養確保のために血管から点滴によって栄養補給するということで、胃ろうというのは、胃に小さな穴をあけてカテーテルを通し(胃ろうカテーテル)そのカテーテルと経管栄養とを繋いで、胃に直接栄養を送る方法……ということだと思います(経管栄養については、こちらをご覧ください→『健康長寿ネット』様)


 胃ろうに関しては、今では「胃ろうの功罪」ということが言われているかと思うのですが、簡単に言えば「物凄く栄養バッチリ」(エンシュアリキッドなど)なものを胃に直接送るため、不摂生な食生活を送っている若い方よりも、胃ろうによって生かされてる方のほうか体の栄養状態に関していえばすごくいいんじゃないかなと思ったりします(^^;)

 なんにしても、脳死のことについて話を戻しますと、わたしが最初に調べはじめた頃、脳死っていうのは確かに人の死といっていいのかもしれないな……と、そんなふうに思いました。やっぱり、寝たきりの意識不明状態の方のお世話をしていると、介護者の間で一度は話題になるのが「こういう状態になっても生きていたいと思う?」、「ううん、思わないよね」ということであり、もしこの状態から脳死へ移行した場合、それが<死>として認められるのなら、「死ねる幸福」というものがこの世には存在するのではないだろうか……とも少し思ったりしました。

 わたしが脳死に関して一番誤解していたのは、植物状態(遷延性意識障害)との混同ということだったのですが、簡単にいえば植物状態であれば、その後十六年して奇跡的に生還した、実は自分のほうから意志表示できないだけで、自分のまわりで話されていることについてはすべて理解していた……という例が少ないながらもあるのに対し、脳死と診断された方の意識がその後甦ったと医学的に認められたケースは世界に一例もないそうです。

 臓器移植法というのは、こうした脳死に陥った患者さんは「遠からずお亡くなりになる」ことを前提にして、それならば脳死を人の死として受け止め、生前に御本人にその意志があったのであれば臓器を他の病気の方の治療などに役立てよう……ということなのだと思います(その後、御本人がそうした明確な意志を残してなくても、御家族の承諾によっても出来るようになりました)。

 ただその後、大分経ってから、『脳死・臓器移植の本当の話』(小松美彦さん著/PHP新書)という本を読みまして

 脳死に関してはやはり、そう診断されてからも髪や爪が伸びるといった生理現象は続くため、正直「生きているようにしか見えない」ということから、そのまま病院で介護を続けることを選択される方や、自宅へ連れ帰ってお世話を続ける……ということがあるとは聞いていたので、それも御家族の心情としては当然のことだなあと思っていました。

 ただやはり、植物状態であれば、「万に一つでも意識が戻る可能性もある」のに対し、脳死は「医学的に絶対ありえない」という意味で、より条件が厳しいと思っていて。。。

 でも、わたしは脳死の方のお世話はしたことがないのですが、やっぱり聖書にラザロの話があるもので、やはりそこに縋ることで介護をする心の支えにすることは間違いないと思うのです。


 >>マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。

「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」

 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。

「彼をどこに置きましたか」

 彼らはイエスに言った。

「主よ。来てご覧ください」

 イエスは涙を流された。

 そこで、ユダヤ人たちは言った。

「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか」

 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの方を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。

 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。

 墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。

 イエスは言われた。

「その石を取りのけなさい」

 死んだ人の姉妹マルタは言った。

「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」

 イエスは彼女に言われた。

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」

 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。

「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。

 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです」

 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。

「ラザロよ。出て来なさい」

 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。

 イエスは彼らに言われた。

「ほどいてやって、帰らせなさい」

 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

(ヨハネの福音書、第11章32~45節)


 たぶん、可能性として低いとは思うのですが、実際に脳死状態の方のお世話をされている方がここの記事を読んだ場合、非常に無神経だと感じられるかもしれません。そのことに関しては、先にあやまっておきたいと思いますm(_ _)m

 ただ、こうしたことというのは、介護技術に伴う心の思想性という事柄において、前回書いた「はるかな国の兄弟」同様非常に重要なことだと個人的には思っています。

 大海の中に縋れる藁や板がないよりはずっといいし、わたしは自分の祈っていたことが十年かかってようやく叶ったということもあったので、きっと根気強く祈ることもやめないだろうと思います。

 そして、植物状態の方や意識があるのかどうかよくわからない、そんな状態になってもう十年にもなる……という方が生きていて一体なんの意味があるのか、と思う方がもしかしたらいらっしゃるかもしれません。わたし自身、自分がもしそうした状態になったら「殺して欲しいな」と思いもするのですが、やはりそうした方の介護を通してこんなにも豊かに学ぶべきことがある……という意味合いにおいて、そのことには物凄く意味があったと思いました。

 人間というのは、それがどんな形でも、生き続けている限り、必ず誰かに影響力を与えることが出来るものだと思います。仮にそれが「こんな奴の面倒、もう見たくもないや」というものであり、その方の死後に「そんなふうに思って介護を続けた自分が恥かしい」と後悔したとしても――やはり、そうした経験というのはその後の人生に生きてくるものだと思います。「もう二度とそんなふうに思って誰かを介護したりはしないぞ」とか、そういうのぼり下りが介護というものにはつきものなのではないでしょうか。

 わたし自身、誰かに対して「わたしだったらそんなことはしないし、絶対にもっと~~するのに」と思うことは、まったくに近いくらいなくなったような気がします。そうした人格の練り上がるような過程が介護にはあって、また同時に看護や介護といったものは「これで完璧」ということがないゆえに、本当に「一生勉強だなあ」と感じる事柄でもありました。

 では、ちょっとブログ本来の主旨(?)から少し離れた記事が続いてしまった気がするので、次回はまた聖書中のエピソードに戻りたいと思っています♪(^^)

 それではまた~!!





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