【東方の三博士の礼拝】ジョット・ボンドーネ
そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
これは、クレ二オがシリヤの総督であった時の最初の住民登録であった。
それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
(ルカの福音書、第2章1~7節)
ヨセフとマリヤのナザレからベツレヘムにいたる厳しい旅さえ考えなければ、クリスマスは楽しいときかもしれません。
ふたりは90マイルの険しい山道を旅したのですが、このときマリヤは身重でした。ロバに乗ったり、その傍らを歩いたりしながらの厳しく長い道のりを、マリヤがどう感じながら耐えていたのか、私たちはふだん考えたことはありません。
もし私たちが荒れた山道に立っていて、彼らが側を通り過ぎていくのを眺めたなら「もろびとこぞりて」などと賛美する気にはなれなかったでしょう。
おそらくはこんなことを考えたのではないでしょうか。
「神さまはどうしてマリヤに対して、こんなにつらくあたるのだろう」とか、「マリヤが楽になるように、どうして馬車を差し向けてあげなかったのだろう?」と。
私たちが現在しているようにクリスマスを祝うのは、その最終的な結果を見ているからです。
私たちはすでにお生まれになったイエスさまを思い描き、天の御使いたちが羊飼いたちに大きな喜びの福音を伝えているところを思い描きます。
しかし、神さまが望んでいらっしゃるのは、私たちが現在クリスマスを祝っているのと同じように、自分の人生における困難な旅を祝うことです。
私たちの旅が、キリストのそれと同じように勝利のうちに終わることを信じることを神さまは望まれるのです!
(『あなたはいま幸せになれる~感謝と賛美の奇跡~』マーリン・キャロザースさん著/雲の間にある虹出版)
このことはわたし、あんまり深く考えてみたことがありませんでした(^^;)
わたしの持っている聖書の注釈によると、ルカの福音書二章のこの箇所は、旧約聖書はミカ書、第五章二節の成就とのことでした。
ベツレヘム・エフラテよ。
あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、
あなたのうちから、わたしのために、
イスラエルの支配者になる者が出る。
その出ることは、昔から、
永遠の昔からの定めである。
(ミカ書、第五章二節)
でも、マーリンさんの本のこの箇所を読んでいて、よく考えると本当にそのとおりだなあと思ったというか。
身重の身で90マイル(約144km)っていうのは、間違いなくキツいですよね
そして、ヨセフとマリヤとは、「旧約聖書のミカ書にそう書いてあるから」というようなことで動いたわけではなく、住民登録は先祖の町で行われるため、ベツレヘムというダビデの町へ上っていったのでした。
マーリンさんが書いておられるように、確かにそのとおりなんですよね。
ヨセフとマリヤとは、神さまに選ばれた夫婦でした。そう考えた場合、もっと楽に移動できる手段を神さまが備えてくださり、さらにはいいホテルを与えてくださって、そこでゆったり伸び伸びリラックスして出産する……何故神さまはそうなさらなかったのでしょうか。
イエスさまがお生まれになったのは安宿どころか、馬小屋でした。しかも「飼葉おけに寝かせた。」だなんて……神の子、救世主(メシア)の誕生の仕方として、よく考えるとあまりなような気がします
その上、マリヤはこれが初産だったわけですから、きっととても恐ろしかったでしょうね。聖書には>>聖霊さまの導きによってマリヤは安らかになんの痛みもなく出産した――などとは書かれてありませんから、普通に考えた場合、「ああ、やっと生まれてくれた」といったような、そのような出産シーンが脳裏に思い浮かぶのみです。
そしておそらく、生みの苦しみにあるマリヤのすぐ隣で、ヨセフはただひたすら神さまにお祈りする以外になかったのではないでしょうか。
けれど、子供が生まれた途端、馬小屋はこの上もない神さまの栄光と喜びで満ち溢れていたのではないかと思います。
イエスさまのこうした生まれ方は、救い主としてのつましさ、謙卑といったようにすっかり刷り込まれているため、そのご両親であるヨセフとマリヤとは大変だった……ということには、ちょっと考えが至りませんよね(^^;)
でもやはりここにも、ふたつの考え方があるような気がします。
ひとつは、ヨセフとマリヤとが、「もうすぐ神さまの子が生まれる」と心から喜び、90マイルの道のりもまるで苦ではなかった、またヨセフはマリヤのことを優しく気遣い、そのことでもマリヤは喜びを受け取ることが出来ていたかもしれません。そして、出産の時には「この子は神さまによって身籠った子なのだから」と、すべてを神さまのみこころに委ねてイエスさまをお産みになったのかもしれません。
またもう一方は、「なんで住民登録なぞせにゃならんのよ」とヨセフは思い、ベツレヘムでは宿屋はどこも人でいっぱいで、そこでもぶちぶち文句を言い、「なんでわしゃあ、自分の子でもない赤んぼのために、こんな苦労をしとるんじゃ」と、自分を惨めに感じ……いえいえ、もちろん神さまから選ばれただけあって、間違いなくヨセフはこんな人じゃなかったものと思われます(^^;)
ふたりは初めての子供の誕生を喜び祝っていたことでしょうし、ここに神さまからのサプライズまでありました!!
東方の三博士が贈り物を携えて馬小屋のイエスさまのところを訪れた時――ヨセフとマリヤはここでもまた間違いなくこの子は本当に特別な、神さまの子なのだとの確信を与えられたに違いありません。
この時東方の三博士は、黄金と乳香と没薬とを贈り物として捧げ、キリストを礼拝したと言います。
つまり、ここにもまた、ある種の信仰者が歩むべき<型>を見てとることが出来るのではないでしょうか。
わたしたちも、人生上の何かのことで「なんで90マイルも歩かにゃならんのよ☆」といったような経験を必ずします。
けれど、その時に「つぶやかず、疑わずに」神さまのみこころを行う必要があるのではないでしょうか。
わたしは思うのですが、マリアさまはイエスさまを身籠っている十か月ほどの間、どんな気持ちで過ごしておられたのでしょう。
やがて子供が生まれることをただひたすらに喜んで、恐れかしこみつつ、祈りに専心しておられたのでしょうか。
でもやっぱり、普通に考えたら絶対不安ですよね(^^;)
しかも、ヨセフさんとの間に出来た子というわけでもなく、「夫は本当はこのことをどう考えているのだろう?」と一度も心配しなかった……というのは、なんとなく考えにくいように思わなくもなかったり。けれど、結婚後はヨセフとの間に六人以上は子供がいたと思われることから、ふたりは夫婦として性格的にも一致して暮らしていたのでしょうね。
なんにしても、このヨセフとマリアさまの行動の内には、現代を生きるキリスト者にとっても<型>のようなものを見てとれる気がします。90マイルもの道を歩かなければいけない時にもぶちぶち文句を言わず、「何故△□は○△ではないのか」とか、「もっと~~だったらよいのに」といったように思い悩むことをせず、すべてを神さまのみこころに委ねて従う……こうしてふたりは最終的には、神さまの御子が誕生するという奇跡を体験し、わたしたちもまた神さまのみこころに委ね従う時に、神さまからの祝福や恵みが満ち溢れる瞬間を経験することが出来るのだと思います。
とはいえ、ヨセフとマリアはこのあとも大変でした。聖霊さまによって身籠った子がマリアに生まれ、神さまの栄光の表れを喜んだのも束の間、時の権力者であったヘロデの手を逃れて、今度はエジプトへ一時避難しなくてはなりませんでした。その道のりもきっと、子供を抱えてではなおのこと大変だったはずです。
【エジプトへの逃避】バルトロメ・エステバン・ムリーリョ
そしてこのこともまた、実は信仰あるあるだったりしますよね(^^;)
90マイルもの道を足を腫れさせながら歩き、でもそのことを神さまに感謝し、「あれ?何故か急に痛みと腫れが引いてきたぞ。きっと神さまに感謝し賛美したそのせいだな。神さま、ありがとう♪」と思いながら道をやって来、目的地に到着後は、泊まる場所がない……「おっかしいな~。神さまがこの道をゆけというからやって来たのに、宿さえ取れないとは」、「でもまあ馬小屋でも寝れるところがあるだけいいかな。神さま、感謝します!!」といったような姿勢で生きてきて、仮にようやく大きな神さまの栄光をこのあと見たとしても――今度はエジプトへ一時避難ということになると、「う゛う゛っ。おりゃあもう駄目だ。なんでだよう、神さま。オイラ今までこんなにがんばって来たじゃねえか。なのに今度はエジプトさ行けってか、こんな人生、おりゃもう嫌じゃ~!!」みたいなことは実際結構ありえます(^^;)
でも、マーリン・キャロザースさんの「感謝と賛美の教え」に沿って生きているつもりでも、神さまに聞き従えないことや時というのは、おそらくどんな方にも最低一度くらいは訪れるものなのではないでしょうか。けれど、神さまの偉大なところは、そうした不満やつぶやきをわたしたちが祈りの中で洩らしても、うまいことアメやチョコレートを道端に置いて、「あ、チョコレートだ!」、「キャンディもあるから、やっぱりこっちに行ってみよう☆」みたいに、現金なわたしたちをそれは上手に導いてくださるということかもしれません(笑)
では、次回はこのことに関連して「でこぼこの十億マイルもの道を、神さまはどう整地されるのか」ということについて書いてみたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
これは、クレ二オがシリヤの総督であった時の最初の住民登録であった。
それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
(ルカの福音書、第2章1~7節)
ヨセフとマリヤのナザレからベツレヘムにいたる厳しい旅さえ考えなければ、クリスマスは楽しいときかもしれません。
ふたりは90マイルの険しい山道を旅したのですが、このときマリヤは身重でした。ロバに乗ったり、その傍らを歩いたりしながらの厳しく長い道のりを、マリヤがどう感じながら耐えていたのか、私たちはふだん考えたことはありません。
もし私たちが荒れた山道に立っていて、彼らが側を通り過ぎていくのを眺めたなら「もろびとこぞりて」などと賛美する気にはなれなかったでしょう。
おそらくはこんなことを考えたのではないでしょうか。
「神さまはどうしてマリヤに対して、こんなにつらくあたるのだろう」とか、「マリヤが楽になるように、どうして馬車を差し向けてあげなかったのだろう?」と。
私たちが現在しているようにクリスマスを祝うのは、その最終的な結果を見ているからです。
私たちはすでにお生まれになったイエスさまを思い描き、天の御使いたちが羊飼いたちに大きな喜びの福音を伝えているところを思い描きます。
しかし、神さまが望んでいらっしゃるのは、私たちが現在クリスマスを祝っているのと同じように、自分の人生における困難な旅を祝うことです。
私たちの旅が、キリストのそれと同じように勝利のうちに終わることを信じることを神さまは望まれるのです!
(『あなたはいま幸せになれる~感謝と賛美の奇跡~』マーリン・キャロザースさん著/雲の間にある虹出版)
このことはわたし、あんまり深く考えてみたことがありませんでした(^^;)
わたしの持っている聖書の注釈によると、ルカの福音書二章のこの箇所は、旧約聖書はミカ書、第五章二節の成就とのことでした。
ベツレヘム・エフラテよ。
あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、
あなたのうちから、わたしのために、
イスラエルの支配者になる者が出る。
その出ることは、昔から、
永遠の昔からの定めである。
(ミカ書、第五章二節)
でも、マーリンさんの本のこの箇所を読んでいて、よく考えると本当にそのとおりだなあと思ったというか。
身重の身で90マイル(約144km)っていうのは、間違いなくキツいですよね
そして、ヨセフとマリヤとは、「旧約聖書のミカ書にそう書いてあるから」というようなことで動いたわけではなく、住民登録は先祖の町で行われるため、ベツレヘムというダビデの町へ上っていったのでした。
マーリンさんが書いておられるように、確かにそのとおりなんですよね。
ヨセフとマリヤとは、神さまに選ばれた夫婦でした。そう考えた場合、もっと楽に移動できる手段を神さまが備えてくださり、さらにはいいホテルを与えてくださって、そこでゆったり伸び伸びリラックスして出産する……何故神さまはそうなさらなかったのでしょうか。
イエスさまがお生まれになったのは安宿どころか、馬小屋でした。しかも「飼葉おけに寝かせた。」だなんて……神の子、救世主(メシア)の誕生の仕方として、よく考えるとあまりなような気がします
その上、マリヤはこれが初産だったわけですから、きっととても恐ろしかったでしょうね。聖書には>>聖霊さまの導きによってマリヤは安らかになんの痛みもなく出産した――などとは書かれてありませんから、普通に考えた場合、「ああ、やっと生まれてくれた」といったような、そのような出産シーンが脳裏に思い浮かぶのみです。
そしておそらく、生みの苦しみにあるマリヤのすぐ隣で、ヨセフはただひたすら神さまにお祈りする以外になかったのではないでしょうか。
けれど、子供が生まれた途端、馬小屋はこの上もない神さまの栄光と喜びで満ち溢れていたのではないかと思います。
イエスさまのこうした生まれ方は、救い主としてのつましさ、謙卑といったようにすっかり刷り込まれているため、そのご両親であるヨセフとマリヤとは大変だった……ということには、ちょっと考えが至りませんよね(^^;)
でもやはりここにも、ふたつの考え方があるような気がします。
ひとつは、ヨセフとマリヤとが、「もうすぐ神さまの子が生まれる」と心から喜び、90マイルの道のりもまるで苦ではなかった、またヨセフはマリヤのことを優しく気遣い、そのことでもマリヤは喜びを受け取ることが出来ていたかもしれません。そして、出産の時には「この子は神さまによって身籠った子なのだから」と、すべてを神さまのみこころに委ねてイエスさまをお産みになったのかもしれません。
またもう一方は、「なんで住民登録なぞせにゃならんのよ」とヨセフは思い、ベツレヘムでは宿屋はどこも人でいっぱいで、そこでもぶちぶち文句を言い、「なんでわしゃあ、自分の子でもない赤んぼのために、こんな苦労をしとるんじゃ」と、自分を惨めに感じ……いえいえ、もちろん神さまから選ばれただけあって、間違いなくヨセフはこんな人じゃなかったものと思われます(^^;)
ふたりは初めての子供の誕生を喜び祝っていたことでしょうし、ここに神さまからのサプライズまでありました!!
東方の三博士が贈り物を携えて馬小屋のイエスさまのところを訪れた時――ヨセフとマリヤはここでもまた間違いなくこの子は本当に特別な、神さまの子なのだとの確信を与えられたに違いありません。
この時東方の三博士は、黄金と乳香と没薬とを贈り物として捧げ、キリストを礼拝したと言います。
つまり、ここにもまた、ある種の信仰者が歩むべき<型>を見てとることが出来るのではないでしょうか。
わたしたちも、人生上の何かのことで「なんで90マイルも歩かにゃならんのよ☆」といったような経験を必ずします。
けれど、その時に「つぶやかず、疑わずに」神さまのみこころを行う必要があるのではないでしょうか。
わたしは思うのですが、マリアさまはイエスさまを身籠っている十か月ほどの間、どんな気持ちで過ごしておられたのでしょう。
やがて子供が生まれることをただひたすらに喜んで、恐れかしこみつつ、祈りに専心しておられたのでしょうか。
でもやっぱり、普通に考えたら絶対不安ですよね(^^;)
しかも、ヨセフさんとの間に出来た子というわけでもなく、「夫は本当はこのことをどう考えているのだろう?」と一度も心配しなかった……というのは、なんとなく考えにくいように思わなくもなかったり。けれど、結婚後はヨセフとの間に六人以上は子供がいたと思われることから、ふたりは夫婦として性格的にも一致して暮らしていたのでしょうね。
なんにしても、このヨセフとマリアさまの行動の内には、現代を生きるキリスト者にとっても<型>のようなものを見てとれる気がします。90マイルもの道を歩かなければいけない時にもぶちぶち文句を言わず、「何故△□は○△ではないのか」とか、「もっと~~だったらよいのに」といったように思い悩むことをせず、すべてを神さまのみこころに委ねて従う……こうしてふたりは最終的には、神さまの御子が誕生するという奇跡を体験し、わたしたちもまた神さまのみこころに委ね従う時に、神さまからの祝福や恵みが満ち溢れる瞬間を経験することが出来るのだと思います。
とはいえ、ヨセフとマリアはこのあとも大変でした。聖霊さまによって身籠った子がマリアに生まれ、神さまの栄光の表れを喜んだのも束の間、時の権力者であったヘロデの手を逃れて、今度はエジプトへ一時避難しなくてはなりませんでした。その道のりもきっと、子供を抱えてではなおのこと大変だったはずです。
【エジプトへの逃避】バルトロメ・エステバン・ムリーリョ
そしてこのこともまた、実は信仰あるあるだったりしますよね(^^;)
90マイルもの道を足を腫れさせながら歩き、でもそのことを神さまに感謝し、「あれ?何故か急に痛みと腫れが引いてきたぞ。きっと神さまに感謝し賛美したそのせいだな。神さま、ありがとう♪」と思いながら道をやって来、目的地に到着後は、泊まる場所がない……「おっかしいな~。神さまがこの道をゆけというからやって来たのに、宿さえ取れないとは」、「でもまあ馬小屋でも寝れるところがあるだけいいかな。神さま、感謝します!!」といったような姿勢で生きてきて、仮にようやく大きな神さまの栄光をこのあと見たとしても――今度はエジプトへ一時避難ということになると、「う゛う゛っ。おりゃあもう駄目だ。なんでだよう、神さま。オイラ今までこんなにがんばって来たじゃねえか。なのに今度はエジプトさ行けってか、こんな人生、おりゃもう嫌じゃ~!!」みたいなことは実際結構ありえます(^^;)
でも、マーリン・キャロザースさんの「感謝と賛美の教え」に沿って生きているつもりでも、神さまに聞き従えないことや時というのは、おそらくどんな方にも最低一度くらいは訪れるものなのではないでしょうか。けれど、神さまの偉大なところは、そうした不満やつぶやきをわたしたちが祈りの中で洩らしても、うまいことアメやチョコレートを道端に置いて、「あ、チョコレートだ!」、「キャンディもあるから、やっぱりこっちに行ってみよう☆」みたいに、現金なわたしたちをそれは上手に導いてくださるということかもしれません(笑)
では、次回はこのことに関連して「でこぼこの十億マイルもの道を、神さまはどう整地されるのか」ということについて書いてみたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
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