神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神さまに祈って何になるの?

2020年10月22日 | キリスト教
【祈る少年サムエル】ジョシュア・レイノルズ


 これと同じことを思われる方は多いと思います(^^;)

 前にも、祈りというか、祈り方に関しては同じことを書いた気がするのですが……神さまに聞かれる祈りというのは、「神さまの御心に適っている」ことと、「神さまの御前に身を投げ出して祈る祈り」です――といったように、教会で教えていただいたことがありました。

 あと、ここに付け加えて、「神さまにはなんでも祈っていい」といったようにも。でも、この3つのことって「なんか矛盾しているような?」と感じられる方は多いのではないでしょうか。

 たとえば、家計が火の車で、足りない家計の分を熱心に祈っていたとして……「神さまにはなんでも祈っていい」とはいえ、果たしてこんな祈りが「神さまの御心に適っている」と言えるかどうかについては、「いや、ちょっとどうかな」と自信のなくなる方が大半ではないでしょうか。あるいは、「こんな個人的なこと、神さまに祈ったりしちゃ申し訳ない」とか、「この世界にはわたし以上に貧しく、明日食べるのに困っている人だっているのに」と思われる方も多いでしょう。

 また、今度は逆に「世界が平和でありますように」と祈るとして、この祈りについては、なんていうかちょっとフワッとしてる気がするんですよね(^^;)つまり、「神さまにはなんでも祈っていい」と「神さまの御心に適っている」には適合するものの、「神さまの御前に身を投げ出して熱心に祈っている」かというと――なんとなく、実感としては「薄くしか祈れていないような……」と感じられる方のほうが多いのではないでしょうか。

 一方、自分の明日の経済の必要についてや家計の必要については、もう神さまの御前に身を投げ出して、これでもかというくらい熱心に祈れるという方が多いと思います。この場合、イエスさまのお答えとしては、「それでいいのですよ」ということです。


 >>いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。

 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。

 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った」

 主は言われた。

「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。

 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」

(ルカによる福音書、第18章1~8節)


 神さま=不正な裁判官??とも捉えることが出来るので、ちょっと不思議な気もしますが(笑)、このイエスさまのたとえは、忍耐強く祈り続けるべきことを教えていると言っていいと思います。

 また、マタイの福音書、第7章7~8節には、


 >>求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

(マタイの福音書、第7章7~8節)


 とあります。

 でも、どんな祈りも、しつこくドアを叩くようにして祈り続ければ聞かれるかといえば……たとえば、「宝くじで絶対3億、いえ、3千万円でもいいんですぅっ!神さま、どうか当ててくださいィッ!!」と祈って宝くじが絶対当たるかといえば、まあ大抵は当たらないわけです(^^;)

 ゆえに、ある程度「摂理」といったことも祈りには関係してくるとは思います。また、「神さまにはなんでも祈っていい」とはいえ、「わたしの悪口を言った△□さんが明日骨折しますように」といった、人の不幸を祈ったりするのも、神さまの摂理に反していると言えるでしょう。

 でも、「お姑さんとの仲がうまくいかないので、これからはうまくいくように助けてください」とか、「来月分の家賃がこのままだと支払えません。どうかなんとかよろしくお願いします」とか、「良い就職先……というか、神さまの御心の就職先をお与えください」ですとか、さらには「あと5キロ痩せたいですが、わたしには忍耐力がありません。どうにか痩せられるように、どうか神さま、力をお与えください」などなど、大抵の身近なことについては聖霊さまを通してイエスさまに相談するということが、すべてのクリスチャンには許されているわけです(また、先ほど「摂理」と一応書きましたが、神さまにお出来にならないことはないので、お医者さんから治らないと宣告された病いが祈って癒されたり、末期がんが癒されたりといったことは現実に起きています)。

 わたしが思うに、このことがおそらく他の宗教とキリスト教との、一番の大きな違いではないかと思います。わたしも、イエスさまのことを信じて聖霊を与えられてから、その前までは出来なかったこと――「継続して祈り続ける」ということが出来るようになりました。

 その前までも、小さい頃からそれなりに祈る心がけのようなものはありましたが、大体が三日坊主で終わってしまい、「神さまに聞かれている実感」のようなものがあまりなかったと思います。けれども、聖霊さまを与えられてからは違いましたし、他の方のお証しの中で、「信じてからも祈りが長続きしない」といった場合においても、「祈れるようにしてください」とか、「どんなふうに祈ったらいいか教えてください」と祈る中で、それ以前はとても出来そうになかったこと……継続して長時間祈ることが出来るようになった、というお話はお証しの中で結構あると思うんですよね。

 もし仮に最初のうちは、1から10まで自分や自分の家族や友達など、身近なことばかりだったとしてもいいのです。また、「こんな利己的な祈りばかりでいいのだろうか」という感じだったとしても全然構いません。わたしもそうですが、人というのはどうも、「神さま、どうかこのことだけはどうか、お叶えくださいっ!」といったことがあると、他の事柄についてもよく祈れるようになるようです(^^;)

 そして、そうして祈っていくうちにだんだんわかってくるわけです。自分のことよりも、たとえば教会の成長のことについてですとか、他の人が困っていることについて祈ったりしていれば、自分の願っていることについては、まるで文章が特に濃く印字され、さらにはその横に濁点でもついているかのように祈らなくても――聖霊さまのとりなしによってイエスさまは当然ご存知であられ、自然と同時に聞いてくださるようだ……といったことが。

 ですからまあ、自分のことについてばかりそうガツガツ☆祈らないようになっていく……というのは、祈りの中においての自然な流れなわけですが、「誰かのための祈り」ということに関して、最後にわたしがよく祈っていることについて、軽く参考までに書き記しておきたいと思いますm(_ _)m


 どうかイエスさま、△□さん(たち)のことを、霊肉ともに強めてください。

 △□さん(たち)の人生を豊かに祝福してください。

 その心の願いごとをお叶えください。

 △□さん(たち)が毎日食べて飲んで満腹して、ぐっすり休むことが出来ておりますように。(△□さん(たち)が毎日明るく楽しく笑って、はつらつと快適に幸せに暮らしておられますように)。 

 △□さん(たち)に必要な、衣食住や職の問題などが解決されておりますように、よろしくお願い致します。

 △□さん(たち)の髪の先から足のつま先までをお癒しください。どうか何卒よろしくお願い致します。

 主の御名によってお祈りします。アーメン。


 わたし、実際にはお会いしたことのない方のためにも祈ってることが多いのですが、もし身近な方や直接知っている方で、「こうしたことで困っている」ということがわかっていたら、その具体的な案件についても付け加えて祈ることが出来ますし、体にどこかお悪いところがあったら、具体的な病名や症状についても詳しく述べて祈っていくことが出来ると思います。

 これはあくまで、参考的な祈りの一部ということですが、教会の祈り会などに参加して、牧師さんや他の信徒の方に祈り方について教えてもらったり、お互いに祈りあう経験があると――「祈りが聞かれるってこういうことなんだ!」ということが、実感をもって理解されてくるかと思います。

 また、自分で祈るだけでなく、「人から今、目の前で祈ってもらう」祈り会での経験があると、聖霊さまの臨在がより深く注がれて恵まれたり、「わたしのこの祈りが神さまに聞かれようと聞かれまいともうどうでもいい。この主の臨在にさえ包まれていることが出来れば……」という、魂の奥深くが癒されるかのような体験、これが「祈りが聞かれる・聞かれない」よりも霊的にはより大切なことでもあるかもしれません。

 それではまた~!!





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