【二重の秘密】ルネ・マグリット
さて、今回のお話は前回お書きした、Mさんの「助けてェッ!自分が自分でなくなっていくのがわかるのよォッ!!」という叫び、そしてその時Mさんの脳内では何が起きていたのか……ということからはじめたいと思いますm(_ _)m
先に結論から申し上げますと、前回から今回の記事に続きを引っ張っておいて申し訳ないのですが、結局のところハッキリしたことはわたしにもわからないのです(^^;)
そこの職場というのが、雰囲気としてちょっと変わってまして……介護福祉士さん七人くらいと、他に看護助手が三人くらいいるといった環境だったのですが(普通の病院の病棟では考えられないと思うのですが、寝たきりの方のお世話をするのに、そのくらいの人員を確保してたっていうことなんですよね)、患者さんのカルテとか見て勉強しようなんてすると、「あいつは何を調子に乗っているんだ」という、何かそうした感じだったのです(書くと長くなりますが、いじめとかそういうことではなく、誰かひとりがそうしたことをしだすと、他のみんなも同じように勉強しなくちゃいけないじゃないか。そういう迷惑をこっちにまでかけないでくれというか、何かそうした風潮だったのです^^;)。
変な話だと誰が聞いても思うと思うのですが(もちろん看護師さんたちは、介護士さんや助手さんはもっとそうした勉強をすべきだと思っている)、そのようなわけで、カルテ調べたりとか、そうしたことは出来なかったため、Mさんのカルテを見たりすることは出来なかったものの――とりあえず、わたしがショックを受けると同時にその後考えたのは次のようなことでした。
Mさんは脳梗塞で左半身麻痺になられたと思うのですが、この時、もしかして二度目の梗塞のようなものが脳のどこかで起きつつあった、その予兆をMさんは感じて突然叫びだしたのではないか、ということ……それはたぶん、梗塞によって血流が途切れたとすれば、意識がなくなる鍵となる脳の血管が関わっていた――いえ、脳外科の先生とかに言ったら笑われちゃいそうですけど、そのくらい劇的な変化だったんですよ。
もちろん、わたしの脳で今脳梗塞が起きかかっていた場合、その前兆のサインのようなものを感じることはあるにせよ、「ここの脳の血管が詰まったら、わたしはわたしという意識を失ってしまうぅッ!助けてェっ!!」となるっていうことは、まずないとは思うのです(^^;)
でも、自分的に「そうした何か」があの時Mさんの中では起きていたのではないかと想像しているっていうことなんですよね。。。
そして、もしMさんがああした状態になったのが平日の二時とかそのくらいであった場合、担当のお医者さんが呼ばれて、おそらくはすぐCTを撮るなりなんなりしていたんじゃないかと思います。で、異変が発見されていたとすれば、すぐに緊急手術とか、そうしたことになっていたのではないでしょうか。
とにかく、ターミナルといわれる状態になってからどのくらいあとのことだったかは忘れてしまったんですけど(汗)、その後Mさんはお亡くなりになりました
「え?あんたそれ、もしかして医療ミスなんじゃないの?」と思われるかもしれないんですけど、結局のところ、自分的には「なんとも言えない」という気がしています。ただ、素人的にMさんが「助けてェッ!」と叫びだしてから翌朝になるまでは意識のほうはかなりしっかりした状態で保たれていたことから……この間になるべく早い段階で何かしてたら、とは思うものの、じゃあ看護師さんの対応に問題があったのかと言われると、その点については「なんとも言えない」というふうにしか言えない、というか(^^;)
それで、ですね、わたしたちというのは五分以上酸素が途絶えただけで中の脳細胞が死滅してゆくという極めて脆弱な頭を持っているわけですが、この脳の中のニューロンのどの部分をどの程度失ったらわたしたちは「自分が自分である」という<意識>を失うのか――正確なことは、現代の医学をもってしてもハッキリしたことは言えないといいます。
そしてここからは、前回書いた<ロックトイン(閉じ込め)>状態の患者さんのお話と繋がってくるのですが……トランスヒューマニズムっていう考え方がありますよね?つまり、人間の体の一部を機械化して、人間は今以上に進化することが出来るのではないかという、SF映画の世界にしか存在しないように今のところ思われるアレです(^^;)
自分的に、人工ニューロンとかそうした事柄もまた、SF小説の中の出来事であるように感じていたのですが(もちろんそうした研究は実際にあります)、こうした形で人間そっくりの入れ物が完成して、そこに人間の脳を移植した場合――おそらく一番心配されるのは拒絶反応とかそうしたことでしょうけれども、そうしたことも再生医療の技術によってまったくなかったと仮定した場合、人の意識はその新しい入れものの中で甦ることが出来るのか、というのがあると思っているんですね。
もちろん、倫理的な問題については色々議論されるでしょうけれども、もしALS患者さんの末期状態の方に限ってのみ、本人が望めばそのような<治療>も許されたとします。でも一度この部分が成功したとしたら……「病気でやむなく」といった理由がなくても、人間はあっさりその限界点を突破してしまうと思うのです(^^;)
そこで、再び「では、人の意識とは何か、<死>とは何か」という問題に立ち返りたいと思うのですが、たとえば、まず愛について考えてみたいと思います(笑)
「おいおい、随分話飛んだな」という感じですが、この世界に「わたしは<愛>をこの手のひらにのせ、撫でまわしながらそのあたたかい存在を感じたことがある」という方は、まずいらっしゃらないのではないでしょうか。もちろん、心から愛している誰かのことを抱きしめ、その相手の体を撫でまわし、あたたかい存在を感じた……ということならあるにしても、<愛>そのものをこの目で見て、それが何メートルあるかを計測し、重さをはかったことがある……という方はいらっしゃらないはずです。
つまり、脳とその中に収まっているだろう意識の問題というのは、そうしたことですよね。意識と呼ばれるものが脳という物体の中に収まっているらしいのは間違いない、だが、その中における<精神活動そのもの>を目で見たことのある人は誰もいないわけです。
よく言われるように、わたしが頭の中にうさぎを思い浮かべたその瞬間、殺人脳外科医(笑)がわたしの脳味噌にメスを入れたとしても、そこにうさぎはいないし、無限の宇宙を思い浮かべた時に同じようにしたところで、そこに宇宙は見えない。
このことを論議しだすと、結局のところ禅問答に嵌まりこむだけだと思うのですが、ここはキリスト教に関係したことを何か書くというブログですから、ちょっとそちらの宗教的な方面にお話のほうを広げたいと思うのですが……こうした「科学的な省察」を前にすると、結局のところ「キリストの十字架の死は無意味だった」ということなると思いませんか?(^^;)
だってそうでしょう。人の意識というのは死んだら天国か地獄へ行くというのがキリスト教の教義なのに、昏睡状態の方の脳をその後、昏睡状態から回復していく過程を測定した場合……その意識のない間、その方は天国へ行っていたわけでないのは明らかですし、科学的・医学的な意味合いにおいては、植物状態の患者さんの脳の中の一度死んでしまった脳細胞をなんらかの形で復活することさえ出来れば、その方の意識は再び戻ってくるということになるのですから。
しかも、再生医療が最大限に発達した段階であるとしたら、人は<死>をも克服するのではないかという可能性さえ見えてきているのではないでしょうか。けれど、ニーチェが言ったように、それでも「神は死んだ」わけではないとわたし自身は考えます。
「意識はいつ生まれるのか」の著者であるマルチェッロ・マッスィミー二さんとジュリオ・トノー二さんは<神>という概念を本の中で用いることはほとんどされていませんが(科学者として、もちろん当然の態度と思います)、それでもおふたりも述べているとおり、やはり最後の最後まで人間の<意識>というものについては謎が残るのです。
まず、この世界の何に<意識>があって、何については絶対確実に<意識はない>と言えるのかというのも、非常に難しい問題だと本の中の最後のほうには書かれています。
たとえば、一般的に<意識>というのは人間だけに特有のものだと考えられていますが、自分の飼っている犬や猫などにも<意識>というものは「絶対にある」と主張される方は多いと思います。他に、ゾウやイルカやサル、ピューマやライオン、ミーアキャットなど、とにかく哺乳類には人間ほど発達していなくても、とにかく<意識>はあると考える方は多いと思うんですよね。
でもこれが、海や川に住む魚、あるいはタコやイカなどの軟体動物などになるとどうでしょうか?わたしたちは彼らを<意識あるもの>と認識して、時に生きたまま包丁で捌いたりしているということになるでしょうか?タコなんて生きたまま熱湯に放りこむこともありますし、エビの踊り食いなんて、もちろんエビになんらかの意識があるとはまるで認識しないからこそ出来ることですよね(^^;)
何やら馬鹿げていると感じられるかもしれませんが、こう考えていくと、<意識のある・なし>の領域って、すごくぼやけていくと思うのです。これは「意識はいつ生まれるのか」の中にも同じように書いてあることなのですが、それでも、最低でも石などの一般に無機物に分類されるものに意識はない、あるいは菌類などには少なくとも絶対意識はない……と考える方は多いかもしれません。
ここからはちょっと怖い想像になるかもしれませんが、シャレではなく、石には意思はない、意識はないとは、個人的にはなんとなく言い切れない気がするのです。たとえばわたし、よく植物には(心の中で)話しかけますし、それは彼らに<意識>があると想像しているからというより――まあほとんど無意識の習慣としてそんなふうにしています。
そこからの関連でいうと、石に話しかけるということは流石にしたことはありませんが、それでも、植物にはよく話しかけるのに、石にそうしないのは何故なのか、ということにはなると思うんですよね植物には意識らしきものがあると無意識のうちにも(笑)感じているのに、石には感じないからなのか……ここからちょっと話が飛びますが、この広い宇宙には、地球以外にも同じようになんらかのわたしたちと同じような「意識を持つ存在」がいるのではないかとよく言われています。
けれど、手塚治虫先生の「火の鳥」の世界でも描かれているように――それはわたしたちの想像してもいない存在、生命体である可能性も高いのではないでしょうか。たとえば、「火の鳥」の望郷編だったと思いますが、主人公たちが石というか、岩のようなものがなんらかの意思を持って彼らなりの行動原理を元に動いているという惑星に不時着するシーンがあります。でも、主人公たちはこの動く岩石たちのことがまるで理解できず、その惑星から逃げだしているんですね(^^;)
もちろん、「そんなのは人間の頭の中の創作世界のことじゃないか」と思われるかもしれませんが、同じく人間の創作した漫画や小説の中には、ある人とある人の意識が入れ替わってしまう……という種類のものがあったと思います。一般的にいって、「そんなことあるわけないやろ。それは漫画の世界の出来事や」という話ではあります。けれども、本当にそう言い切れるでしょうか?もし仮に今、わたしやあなたの両親が、「何故かはわからないけど、お父さんとお母さんの意識、入れ替わってしまったみたいなのよ」とふたりが同時に子供であるあなたに告白してきたら――ふたりがまったく同時に気が狂ってしまったと思って、精神病院へ連れていくかどうか……こと、意識の問題にはそうした「外からはわからない、本当の真実が見えない」といったところがあると思います。
問題が抽象的になりすぎたついでに、さらにそうした話が続いて申し訳ないのですが(汗)、わたしが人間の意識について「神のみぞ知る」と感じるのは何よりそうした点なのです。昔、確かアニメの「ゲゲゲの鬼太郎」だったと思うのですが、鬼太郎が悪いことをした人間に対して、「生まれ変わったらきっとあなたは、ゴキブリやダンゴ虫などになるでしょう」的に言ってたことがあるのを、なんとなく覚えています。まだ子供だったので、わたしもその悪人たち同様、「ひええっ。もしそんなことになったらどうしよっ」みたいに感じたものでしたが……でも、大人になった今はこうも思います。もし仮にわたしが昆虫に生まれ変わったとして――その時点ですでに「自分」というものを感じる意識がなければ、それは刑罰でもなんでもないのではないか、と。
ですが、悪い人間がゴキブリやダンゴ虫に生まれ変わるのが何故刑罰足りえるかといえば、それは今の人間としての意識がある状態でそのような存在になるからですよね(笑)
そして、宝石というものも無機物で、分類としては石の一種ということでいいのでしょうけれども、こうした綺麗な宝石に悪霊が取り憑いていて、所持者に不幸が起きる……という話を、誰もが聞いたことがあると思います。また、イギリスに悪霊が取り憑いている椅子があったり、スペインかポルトガル、あるいは南米のどこかの国だった気がしますが(記憶があやしくてすみません^^;)、悪霊が取り憑いている人形というのがあったと思うんですよね。
人間の意識=霊とすることには、「エセ科学じゃあるまいし」という感じで、抵抗を覚える方は多いと思います。個人的に、幽霊というのはわたしはいると思っていますが、彼らはなんなのか、肉体が滅んだあともなんらかの生前の意識を有している存在なのかというのは、まったくわかりません。また、こうしたことについても、「科学的に間違いなくこれが正解だ」と答えることの出来る方は、まずもっていらっしゃらないだろうと思うのです(ええとですね、キリスト教的な立場から言いますと、幽霊もまた天使が墜天した悪霊の一種であるとする方と、悪霊とはまた別の「あれは人間の霊である。また、それとは別に悪魔(サタン)・悪霊が存在する」という立場の方とがいらっしゃると思いますが、ここでは深入りしません)。
また、これはたぶんインドなどが発祥の東洋思想と思うのですが、結局、わたしたちの意識の井戸というものを掘り下げていくと、最初はゾウやイルカやサル、ピューマやライオン、ミーアキャットといった哺乳類にあたり、そのあとどんどん深く掘っていけばいくほど、魚やタコやイカ、さらには草花や樹木といった植物類、土や石といった層にぶち当たり――結局そのような大きな地球や宇宙の一部としての意識……どうも瞑想ということを深めていくと、そのような層を感じることがあると言います。
アンパンマンで有名な、やなせたかし先生作詞の歌、「手のひらを太陽に」の世界ですよね、言ってみれば。「♪ミミズだって、オケラだって」、「トンボだって、カエルだって、ミツバチだって」、「スズメだって、イナゴだって、カゲロウだって」……「みんなみんな、生きているんだ、ともだちなんだ~」――といった、世界意識というか、地球意識共同体といったような、そうした考え方(^^;)
そのですね、話が逸れているついでに、ここでちょっと恐ろしい思考実験についても書いておこうと思います。わたしの人間の<意識>というものに対する個人的な答えについては、次回書こうと思うのですが、人間と人間の意識を入れ替えるというのは、科学的にいずれ可能になるのではないかということを前提にした場合――アメリカにおいて、最下層と言われる貧困家庭に育った黒人の青年と、裕福な白人で、差別意識の強い鼻持ちならないお金持ちの青年の脳の交換手術が行われたとします。するとお互い、「裕福な白人であるとはこんな感じのことなんだ」とか、「貧しい黒人っていうのはこんなつらい思いをしているのか」……という経験をしたあと、再び脳の交換手術が行われた場合――その後のふたりの生き方というのはどんなふうに違ってくるということになるでしょうか。
もちろん、こんなこと書いてる時点で「おまえこそひどい差別主義者だ」とのそしりを受けるかもしれません。けれど、このところ日本は韓国と揉めていると思うのですが、日本人と韓国人の脳(意識)の交換手術を行う、日本人と中国人の脳(意識)の交換手術を行って、「韓国の人は本当はこういう考えなんだ」とか、「そうか。日本人はこういうふうに思っているということなのか」ということがわかりさえすれば……世界は平和で、きっと戦争も揉め事もなくなるだろうなと想像したりします(^^;)
そもそも、表面の皮膚や肉体を切り裂いてさえしまえば――黒人の方の脳は普通より黒っぽいとか、白人の方の脳はより白っぽいとか、黄色人種のそれは黄色っぽいということもなく、基本的に見分けはつかないと思うのです。みんな大体1.2キロ~1.5キログラムくらいあるというヌメッとしたそれ単体で見ると不気味としか思えない限界のある物体の中で、よりよい生を生きたいともがいている……という意味では、おそらくみな平等なのかもしれません(人が平等でなくなるのは、ここから外の環境によってなのだと思います)。
でも、わたしたちは一応こう思いはしても、やはりなかなかわかりあえないものですよねそしてこうしたことに<神>という概念を持ちだされることに抵抗を覚える方もいらっしゃると思うのですが、この限界のある入れものの中で人間が人としてどこまでのことが出来るのか、隣人を大切に出来るのか、地球という環境をまるで意識あるもののように扱い、大事に出来るかどうかというのを――神さまは見ておられるのだと思います。
目に見えない空、天空、宇宙をも突き抜けた、この世のすべてでありつつそうではない、わたしたちの理解できない、神さまは神さまに特有の意識の中で……。
では、次回はこうした事柄についての、あくまでわたし個人の答えというか、そうしたことについて書き記して、「神のみぞ知る」という記事の終わりとしたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
さて、今回のお話は前回お書きした、Mさんの「助けてェッ!自分が自分でなくなっていくのがわかるのよォッ!!」という叫び、そしてその時Mさんの脳内では何が起きていたのか……ということからはじめたいと思いますm(_ _)m
先に結論から申し上げますと、前回から今回の記事に続きを引っ張っておいて申し訳ないのですが、結局のところハッキリしたことはわたしにもわからないのです(^^;)
そこの職場というのが、雰囲気としてちょっと変わってまして……介護福祉士さん七人くらいと、他に看護助手が三人くらいいるといった環境だったのですが(普通の病院の病棟では考えられないと思うのですが、寝たきりの方のお世話をするのに、そのくらいの人員を確保してたっていうことなんですよね)、患者さんのカルテとか見て勉強しようなんてすると、「あいつは何を調子に乗っているんだ」という、何かそうした感じだったのです(書くと長くなりますが、いじめとかそういうことではなく、誰かひとりがそうしたことをしだすと、他のみんなも同じように勉強しなくちゃいけないじゃないか。そういう迷惑をこっちにまでかけないでくれというか、何かそうした風潮だったのです^^;)。
変な話だと誰が聞いても思うと思うのですが(もちろん看護師さんたちは、介護士さんや助手さんはもっとそうした勉強をすべきだと思っている)、そのようなわけで、カルテ調べたりとか、そうしたことは出来なかったため、Mさんのカルテを見たりすることは出来なかったものの――とりあえず、わたしがショックを受けると同時にその後考えたのは次のようなことでした。
Mさんは脳梗塞で左半身麻痺になられたと思うのですが、この時、もしかして二度目の梗塞のようなものが脳のどこかで起きつつあった、その予兆をMさんは感じて突然叫びだしたのではないか、ということ……それはたぶん、梗塞によって血流が途切れたとすれば、意識がなくなる鍵となる脳の血管が関わっていた――いえ、脳外科の先生とかに言ったら笑われちゃいそうですけど、そのくらい劇的な変化だったんですよ。
もちろん、わたしの脳で今脳梗塞が起きかかっていた場合、その前兆のサインのようなものを感じることはあるにせよ、「ここの脳の血管が詰まったら、わたしはわたしという意識を失ってしまうぅッ!助けてェっ!!」となるっていうことは、まずないとは思うのです(^^;)
でも、自分的に「そうした何か」があの時Mさんの中では起きていたのではないかと想像しているっていうことなんですよね。。。
そして、もしMさんがああした状態になったのが平日の二時とかそのくらいであった場合、担当のお医者さんが呼ばれて、おそらくはすぐCTを撮るなりなんなりしていたんじゃないかと思います。で、異変が発見されていたとすれば、すぐに緊急手術とか、そうしたことになっていたのではないでしょうか。
とにかく、ターミナルといわれる状態になってからどのくらいあとのことだったかは忘れてしまったんですけど(汗)、その後Mさんはお亡くなりになりました
「え?あんたそれ、もしかして医療ミスなんじゃないの?」と思われるかもしれないんですけど、結局のところ、自分的には「なんとも言えない」という気がしています。ただ、素人的にMさんが「助けてェッ!」と叫びだしてから翌朝になるまでは意識のほうはかなりしっかりした状態で保たれていたことから……この間になるべく早い段階で何かしてたら、とは思うものの、じゃあ看護師さんの対応に問題があったのかと言われると、その点については「なんとも言えない」というふうにしか言えない、というか(^^;)
それで、ですね、わたしたちというのは五分以上酸素が途絶えただけで中の脳細胞が死滅してゆくという極めて脆弱な頭を持っているわけですが、この脳の中のニューロンのどの部分をどの程度失ったらわたしたちは「自分が自分である」という<意識>を失うのか――正確なことは、現代の医学をもってしてもハッキリしたことは言えないといいます。
そしてここからは、前回書いた<ロックトイン(閉じ込め)>状態の患者さんのお話と繋がってくるのですが……トランスヒューマニズムっていう考え方がありますよね?つまり、人間の体の一部を機械化して、人間は今以上に進化することが出来るのではないかという、SF映画の世界にしか存在しないように今のところ思われるアレです(^^;)
自分的に、人工ニューロンとかそうした事柄もまた、SF小説の中の出来事であるように感じていたのですが(もちろんそうした研究は実際にあります)、こうした形で人間そっくりの入れ物が完成して、そこに人間の脳を移植した場合――おそらく一番心配されるのは拒絶反応とかそうしたことでしょうけれども、そうしたことも再生医療の技術によってまったくなかったと仮定した場合、人の意識はその新しい入れものの中で甦ることが出来るのか、というのがあると思っているんですね。
もちろん、倫理的な問題については色々議論されるでしょうけれども、もしALS患者さんの末期状態の方に限ってのみ、本人が望めばそのような<治療>も許されたとします。でも一度この部分が成功したとしたら……「病気でやむなく」といった理由がなくても、人間はあっさりその限界点を突破してしまうと思うのです(^^;)
そこで、再び「では、人の意識とは何か、<死>とは何か」という問題に立ち返りたいと思うのですが、たとえば、まず愛について考えてみたいと思います(笑)
「おいおい、随分話飛んだな」という感じですが、この世界に「わたしは<愛>をこの手のひらにのせ、撫でまわしながらそのあたたかい存在を感じたことがある」という方は、まずいらっしゃらないのではないでしょうか。もちろん、心から愛している誰かのことを抱きしめ、その相手の体を撫でまわし、あたたかい存在を感じた……ということならあるにしても、<愛>そのものをこの目で見て、それが何メートルあるかを計測し、重さをはかったことがある……という方はいらっしゃらないはずです。
つまり、脳とその中に収まっているだろう意識の問題というのは、そうしたことですよね。意識と呼ばれるものが脳という物体の中に収まっているらしいのは間違いない、だが、その中における<精神活動そのもの>を目で見たことのある人は誰もいないわけです。
よく言われるように、わたしが頭の中にうさぎを思い浮かべたその瞬間、殺人脳外科医(笑)がわたしの脳味噌にメスを入れたとしても、そこにうさぎはいないし、無限の宇宙を思い浮かべた時に同じようにしたところで、そこに宇宙は見えない。
このことを論議しだすと、結局のところ禅問答に嵌まりこむだけだと思うのですが、ここはキリスト教に関係したことを何か書くというブログですから、ちょっとそちらの宗教的な方面にお話のほうを広げたいと思うのですが……こうした「科学的な省察」を前にすると、結局のところ「キリストの十字架の死は無意味だった」ということなると思いませんか?(^^;)
だってそうでしょう。人の意識というのは死んだら天国か地獄へ行くというのがキリスト教の教義なのに、昏睡状態の方の脳をその後、昏睡状態から回復していく過程を測定した場合……その意識のない間、その方は天国へ行っていたわけでないのは明らかですし、科学的・医学的な意味合いにおいては、植物状態の患者さんの脳の中の一度死んでしまった脳細胞をなんらかの形で復活することさえ出来れば、その方の意識は再び戻ってくるということになるのですから。
しかも、再生医療が最大限に発達した段階であるとしたら、人は<死>をも克服するのではないかという可能性さえ見えてきているのではないでしょうか。けれど、ニーチェが言ったように、それでも「神は死んだ」わけではないとわたし自身は考えます。
「意識はいつ生まれるのか」の著者であるマルチェッロ・マッスィミー二さんとジュリオ・トノー二さんは<神>という概念を本の中で用いることはほとんどされていませんが(科学者として、もちろん当然の態度と思います)、それでもおふたりも述べているとおり、やはり最後の最後まで人間の<意識>というものについては謎が残るのです。
まず、この世界の何に<意識>があって、何については絶対確実に<意識はない>と言えるのかというのも、非常に難しい問題だと本の中の最後のほうには書かれています。
たとえば、一般的に<意識>というのは人間だけに特有のものだと考えられていますが、自分の飼っている犬や猫などにも<意識>というものは「絶対にある」と主張される方は多いと思います。他に、ゾウやイルカやサル、ピューマやライオン、ミーアキャットなど、とにかく哺乳類には人間ほど発達していなくても、とにかく<意識>はあると考える方は多いと思うんですよね。
でもこれが、海や川に住む魚、あるいはタコやイカなどの軟体動物などになるとどうでしょうか?わたしたちは彼らを<意識あるもの>と認識して、時に生きたまま包丁で捌いたりしているということになるでしょうか?タコなんて生きたまま熱湯に放りこむこともありますし、エビの踊り食いなんて、もちろんエビになんらかの意識があるとはまるで認識しないからこそ出来ることですよね(^^;)
何やら馬鹿げていると感じられるかもしれませんが、こう考えていくと、<意識のある・なし>の領域って、すごくぼやけていくと思うのです。これは「意識はいつ生まれるのか」の中にも同じように書いてあることなのですが、それでも、最低でも石などの一般に無機物に分類されるものに意識はない、あるいは菌類などには少なくとも絶対意識はない……と考える方は多いかもしれません。
ここからはちょっと怖い想像になるかもしれませんが、シャレではなく、石には意思はない、意識はないとは、個人的にはなんとなく言い切れない気がするのです。たとえばわたし、よく植物には(心の中で)話しかけますし、それは彼らに<意識>があると想像しているからというより――まあほとんど無意識の習慣としてそんなふうにしています。
そこからの関連でいうと、石に話しかけるということは流石にしたことはありませんが、それでも、植物にはよく話しかけるのに、石にそうしないのは何故なのか、ということにはなると思うんですよね植物には意識らしきものがあると無意識のうちにも(笑)感じているのに、石には感じないからなのか……ここからちょっと話が飛びますが、この広い宇宙には、地球以外にも同じようになんらかのわたしたちと同じような「意識を持つ存在」がいるのではないかとよく言われています。
けれど、手塚治虫先生の「火の鳥」の世界でも描かれているように――それはわたしたちの想像してもいない存在、生命体である可能性も高いのではないでしょうか。たとえば、「火の鳥」の望郷編だったと思いますが、主人公たちが石というか、岩のようなものがなんらかの意思を持って彼らなりの行動原理を元に動いているという惑星に不時着するシーンがあります。でも、主人公たちはこの動く岩石たちのことがまるで理解できず、その惑星から逃げだしているんですね(^^;)
もちろん、「そんなのは人間の頭の中の創作世界のことじゃないか」と思われるかもしれませんが、同じく人間の創作した漫画や小説の中には、ある人とある人の意識が入れ替わってしまう……という種類のものがあったと思います。一般的にいって、「そんなことあるわけないやろ。それは漫画の世界の出来事や」という話ではあります。けれども、本当にそう言い切れるでしょうか?もし仮に今、わたしやあなたの両親が、「何故かはわからないけど、お父さんとお母さんの意識、入れ替わってしまったみたいなのよ」とふたりが同時に子供であるあなたに告白してきたら――ふたりがまったく同時に気が狂ってしまったと思って、精神病院へ連れていくかどうか……こと、意識の問題にはそうした「外からはわからない、本当の真実が見えない」といったところがあると思います。
問題が抽象的になりすぎたついでに、さらにそうした話が続いて申し訳ないのですが(汗)、わたしが人間の意識について「神のみぞ知る」と感じるのは何よりそうした点なのです。昔、確かアニメの「ゲゲゲの鬼太郎」だったと思うのですが、鬼太郎が悪いことをした人間に対して、「生まれ変わったらきっとあなたは、ゴキブリやダンゴ虫などになるでしょう」的に言ってたことがあるのを、なんとなく覚えています。まだ子供だったので、わたしもその悪人たち同様、「ひええっ。もしそんなことになったらどうしよっ」みたいに感じたものでしたが……でも、大人になった今はこうも思います。もし仮にわたしが昆虫に生まれ変わったとして――その時点ですでに「自分」というものを感じる意識がなければ、それは刑罰でもなんでもないのではないか、と。
ですが、悪い人間がゴキブリやダンゴ虫に生まれ変わるのが何故刑罰足りえるかといえば、それは今の人間としての意識がある状態でそのような存在になるからですよね(笑)
そして、宝石というものも無機物で、分類としては石の一種ということでいいのでしょうけれども、こうした綺麗な宝石に悪霊が取り憑いていて、所持者に不幸が起きる……という話を、誰もが聞いたことがあると思います。また、イギリスに悪霊が取り憑いている椅子があったり、スペインかポルトガル、あるいは南米のどこかの国だった気がしますが(記憶があやしくてすみません^^;)、悪霊が取り憑いている人形というのがあったと思うんですよね。
人間の意識=霊とすることには、「エセ科学じゃあるまいし」という感じで、抵抗を覚える方は多いと思います。個人的に、幽霊というのはわたしはいると思っていますが、彼らはなんなのか、肉体が滅んだあともなんらかの生前の意識を有している存在なのかというのは、まったくわかりません。また、こうしたことについても、「科学的に間違いなくこれが正解だ」と答えることの出来る方は、まずもっていらっしゃらないだろうと思うのです(ええとですね、キリスト教的な立場から言いますと、幽霊もまた天使が墜天した悪霊の一種であるとする方と、悪霊とはまた別の「あれは人間の霊である。また、それとは別に悪魔(サタン)・悪霊が存在する」という立場の方とがいらっしゃると思いますが、ここでは深入りしません)。
また、これはたぶんインドなどが発祥の東洋思想と思うのですが、結局、わたしたちの意識の井戸というものを掘り下げていくと、最初はゾウやイルカやサル、ピューマやライオン、ミーアキャットといった哺乳類にあたり、そのあとどんどん深く掘っていけばいくほど、魚やタコやイカ、さらには草花や樹木といった植物類、土や石といった層にぶち当たり――結局そのような大きな地球や宇宙の一部としての意識……どうも瞑想ということを深めていくと、そのような層を感じることがあると言います。
アンパンマンで有名な、やなせたかし先生作詞の歌、「手のひらを太陽に」の世界ですよね、言ってみれば。「♪ミミズだって、オケラだって」、「トンボだって、カエルだって、ミツバチだって」、「スズメだって、イナゴだって、カゲロウだって」……「みんなみんな、生きているんだ、ともだちなんだ~」――といった、世界意識というか、地球意識共同体といったような、そうした考え方(^^;)
そのですね、話が逸れているついでに、ここでちょっと恐ろしい思考実験についても書いておこうと思います。わたしの人間の<意識>というものに対する個人的な答えについては、次回書こうと思うのですが、人間と人間の意識を入れ替えるというのは、科学的にいずれ可能になるのではないかということを前提にした場合――アメリカにおいて、最下層と言われる貧困家庭に育った黒人の青年と、裕福な白人で、差別意識の強い鼻持ちならないお金持ちの青年の脳の交換手術が行われたとします。するとお互い、「裕福な白人であるとはこんな感じのことなんだ」とか、「貧しい黒人っていうのはこんなつらい思いをしているのか」……という経験をしたあと、再び脳の交換手術が行われた場合――その後のふたりの生き方というのはどんなふうに違ってくるということになるでしょうか。
もちろん、こんなこと書いてる時点で「おまえこそひどい差別主義者だ」とのそしりを受けるかもしれません。けれど、このところ日本は韓国と揉めていると思うのですが、日本人と韓国人の脳(意識)の交換手術を行う、日本人と中国人の脳(意識)の交換手術を行って、「韓国の人は本当はこういう考えなんだ」とか、「そうか。日本人はこういうふうに思っているということなのか」ということがわかりさえすれば……世界は平和で、きっと戦争も揉め事もなくなるだろうなと想像したりします(^^;)
そもそも、表面の皮膚や肉体を切り裂いてさえしまえば――黒人の方の脳は普通より黒っぽいとか、白人の方の脳はより白っぽいとか、黄色人種のそれは黄色っぽいということもなく、基本的に見分けはつかないと思うのです。みんな大体1.2キロ~1.5キログラムくらいあるというヌメッとしたそれ単体で見ると不気味としか思えない限界のある物体の中で、よりよい生を生きたいともがいている……という意味では、おそらくみな平等なのかもしれません(人が平等でなくなるのは、ここから外の環境によってなのだと思います)。
でも、わたしたちは一応こう思いはしても、やはりなかなかわかりあえないものですよねそしてこうしたことに<神>という概念を持ちだされることに抵抗を覚える方もいらっしゃると思うのですが、この限界のある入れものの中で人間が人としてどこまでのことが出来るのか、隣人を大切に出来るのか、地球という環境をまるで意識あるもののように扱い、大事に出来るかどうかというのを――神さまは見ておられるのだと思います。
目に見えない空、天空、宇宙をも突き抜けた、この世のすべてでありつつそうではない、わたしたちの理解できない、神さまは神さまに特有の意識の中で……。
では、次回はこうした事柄についての、あくまでわたし個人の答えというか、そうしたことについて書き記して、「神のみぞ知る」という記事の終わりとしたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
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