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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

ナアマンの癒し。

2017年12月06日 | キリスト教
【ナアマンの贈り物を断るエリシャ】Pieter Fransz de Grebber


 >>アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼らによってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、その女主人に言った。

「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに」

 それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。

【中略】

 こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。エリシャは、彼に使いをやって、言った。

「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります」

 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。

「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか」

 こうして、彼は怒って帰途についた。そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。

「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか」

 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

(列王記第二、第5章1~4節、9~14節)


 この聖書箇所を読むと、いつもわたし、「ナウマン象の癒し」という意味のない言葉が思い浮かぶのですが、それはさておき。。。

 ここの聖書箇所が巡ってきた時、おそらく多くの教会では同じというか、似た牧師さんのお説教が語られることが多いのではないか、という気がします(^^;)

 わたしも教会で同じお説教を2~3回くらい聞いたことがありますし、また、信仰のお証しの記事などでも同じメッセージのものを読んだ記憶があったり

 大体のところ要約すると、ナアマンさんは「自分の考え」で「このように癒されたい」、「そのようにしてもらえれば自分は癒されるだろう」と考えていたわけですが、身分の高い自分に預言者のエリシャさんが直接会いに来るでもなく、使いの者を寄越した上、「ヨルダン川に七度身を浸せば癒される」ということを言われ、ナアマンさんは不満を覚えるわけですよね。

 これもまた彼の「自分なりの考え」で、>>「ダマスコの川やアマナやパルパルはイスラエルのすべての川にまさっている」とナアマンさんは思い、すぐにはエリシャの言うことに聞き従おうとはしません。

 この逆の信仰としては、当然>>「しもべに御言葉をいただかせてください」という百人隊長の立派な信仰が挙げられると思うのですが、


 >>イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。

「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります」

 イエスは彼に言われた。

「行って、直してあげよう」

 しかし、百人隊長は答えて言った。

「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。

 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします」

 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。

「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。

 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです」

 それから、イエスは百人隊長に言われた。

「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」

 すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

(マタイの福音書、第8章5~13節)


 この時ナアマンは、しもべの忠告があって、ようやくエリシャの言葉に従うわけですが、まあ現代のクリスチャンであるわたしたちにも、同じようなところがありますよね(^^;)

 神さまの言葉はシンプルで、神さまの言葉に聞き従うこともシンプル(単純)なことだとマザー・テレサはおっしゃっていたと思うのですが、この時ナアマンは怒って、危うく神さまの癒しの恵みから洩れてしまうところでした。

 でも、やっぱりわたしたちにも同じところがありますよね。聖書のデボーション箇所などで、ずっと祈ってきたことへの語りかけがあったとしても、自分としては「このような形で祈りを叶えてもらいたい」といったような希望があり、ただ単純に素直に神さまのおっしゃることに聞き従えばいいだけのことなのに、難しく考えて無駄に骨折って労するといったようなことが……。

 わたしも、自分がキリスト教徒になる前、そうしたところが物凄くあったと思います(^^;)

 平均的な日本人の多くがそうであるように、キリスト教といったものに物凄く頑なで、キリスト教徒=偽善者といったようになんの根拠もなく思っていた時期すらあったと思います。

 つまり、いわゆるキリスト教の持つ<選民思想>といったものに直感的に嫌悪感を持っていたというか。

 何度罪を犯してもイエスさまに祈れば赦していただけるとか、キリストを信じる者は皆救われるとか……何より、彼のことを信じる者だけが救われるとか、天国へ行けるという教義が一番我慢できませんでした

 何故なら、神さまが本当に本当の神であるならば、「すべての人を救う」のが当然の責務だと思っていたからです。その中から自分を信じる者だけを救うというのはわたしの心の中の「本当の神像」のようなものからかけ離れていましたし、わたしなりの理屈で考えた場合、すぐに感じたのはキリスト教の神は神ではないということでした。

 ただ、自分が一度キリスト教徒になってみると、何故このイエス・キリストという三十三年ほどしか地上にいなかった男性のことを西洋社会がこんなにも重要視してきたのかがわかってきます。

 何より、日本人にとって欧米の人の宗教観を理解しようとした場合、この部分って本当に難解だと思うんですよね(^^;)

 たとえば、アメリカの大統領選で、候補者の方が健全な信仰心を持ってるってとても大事なことですし、中西部の保守的な信仰を守っている層の票を掴みたかったら、実際はそれほどでなくても信仰深いようにある程度見せておくとか、とても大切だったりしますよね。

 また、ユダヤ人の人々の票が欲しかった場合、イスラエル政策でも、イスラエルに対して力を入れて支援するということを表明することが大切で……パレスチナ問題が解決しないのは、アメリカが中立ではなく常にイスラエル寄りだからだと言われたりもするそうですが、この部分の宗教の持つ「重要度」って、まずもって日本人には理解不能なんですよね

 なんにしても、かつてわたしもイエスさまのことがまるで理解できませんでした

 イエス・キリストという人物が本当に実在したのかもよくわかっておらず、半分は人々の口で語り継がれた伝説上の人物といったように思っていましたし、また彼が歴史上に実在したことが人類にどんな意味を持っているのかもまるで理解してませんでした。

 また、イエス・キリストというのも、「イエスが名前でキリストが苗字?」くらいに思っていましたし、実際、遥か二千年以上も昔に十字架にかかったこの男性がその後自分の人生における最重要人物になるなどとは、夢にも思ってみたこともなかったというか(^^;)

 でも、一度教会で聖霊さまに触れられてみると、色々なことがわかってくるんですよね。

 以前はあれほど難解であるように思えた聖書――ホテルなどに置いてあるのをパラパラ読み、「なんでこれが神の言葉?」と思っていた書物に対しても理解がきくようになってきますし、何より、御自身のおひとり子を十字架刑にかけることで全人類を救うという神さまの御計画の御業に驚嘆するばかりになるというか。。。

 すると、わかってくるんですよ。西洋の宗教画の背景にあるものとか、それまではよくわからず、日本人以上に合理的で理性的であるように思える西欧の人々が、何故キリスト教というものを今も堅く信じ続けているのかといった、そうしたことが……。

 神さまに救われるというのは本当にただ、恵みと憐れみに他なりません。

 人間には「神はこのような方で、このような形で我々を救うべきだ」といった自分なりの自然に備わった考えのようなものがあり、アニミズムといった自然神の崇拝や太陽などの天体を礼拝することもそうだと思いますが、宇宙の創造主なる神は、そのようなわたしたちの「頭に思い浮かぶこと」を越えた、偉大な計画を最初から打ち立てておられました。


 >>わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、
 わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。
 ――主の御告げ。――
 天が地よりも高いように、
 わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
 わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

(イザヤ書、第55章8~9節)


 ナアマンさんは、「自分なりの考え」によって救われようとしましたが、神さまの思いは異なるものでした。そして彼はその「自分の考え」を否定されたことに対して怒ったわけですが、賢い従者がいたことで、癒しにあずかることが出来たのです。

 このツァラアトというのは、重い皮膚病で、彼のように社会的に高い地位にあっていくらお金があろうとも、癒されるというのは当時の医療ではほとんど不可能だったろうと思います。わたしたちも、この神さまの恵みを逃さないようにしましょう。
 
 わたしがクリスチャンになる前、「自分なりの考え」によって「自分の頭や心に思い浮かぶ神像」というのは、アニミズム系の自然的な神や汎神論が一番近いものでしたが、「まずもって人間の知恵・知識によってでは思い浮かばないキリスト教の神」――この方のことを頑なに否定する道を辿らなくて良かったと、今は本当にそんなふうに思っています(^^;)

 何故なら、神さまの御計画の道を行くか、あるいは人間的な肉の努力による道のうちどちらを選ぶのかはその後にとてつもなく大きな違いをもたらすからです。

 たとえば、ナアマンさんがもし預言者エリシャの言葉に聞き従わず、ヨルダン川に七たび身を浸すということをしなかったとしたら、彼はその後も重い皮膚病に生涯の終わりに至るまで悩まされ、苦しめられ続けたことでしょう。

 けれども、ヨルダン川で癒されたことによって、ナアマンさんは神さまの癒しの奇蹟を経験することが出来ました。

 わたしたちも心を頑なにして、イエスさまのことを否定したり、その恵みに洩れるということの決してないようにしましょう。

 毎日祈り、聖書を読み、礼拝を忠実に守っていくなら、神さまの語りかけというのは聖霊さまの恵みによって必ずあります。

 その神さまの御声を信じ、聞き従えるということ……それもまた神さまの、聖霊さまの憐れみと恵みであることを感謝します

 それではまた~!!





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