1955年生のあれこれ

人生50年を過ぎても、その好奇心旺盛な性格で、いろいろ綴っていきます。

知的障害者の事件に思う

2008年12月09日 18時23分32秒 | Weblog
今朝の朝日新聞に
「知的障害者への偏見不安」という記事がある。
東金事件関連記事の中で、「容疑者は軽い知的障害者と診断されていた。障害者の家族や支援者の中には、背景の解明が不十分なまま障害が強調されれば「偏見が助長されかねない」と不安を抱く人もおり、警察やメディアに冷静な対応を求めている」の書き出しで始まる記事が掲載されました。

中学校時代に、授業中突然大声を出すクラスメートがいた。
“おま○○”や“おち○○”といった単語を突然大声で叫ぶのだ。
先生は何事もなかったように授業を進め、
同じ小学校から来たクラスメートは慣れていているようで、
まるで聞こえなかったように授業を聞いていた。

大変だったのは、別の小学校から来た私だった。
英語など小学校とは別格の授業内容になり、
人生初の高校受験へ向けての3年間が始まったその時に授業中に大声が発せられる。
集中どころではなかった。

同じ中学でも、私の通っていた小学校は地区内でもレベルが高く、
塾通いの児童も多かったため、中学入学時にはかなりの英語を理解していた。

塾に通うこともなく、それでも小学校時代は授業に集中することでトップクラスにいた私だったが、
これには参った。
同じ小学校出身者は、英語をはじめ、数学、国語といった教科を塾で勉強していた。
1学期の成績は悲惨だった。

ところが、同じ小学校出身で、とても頭が良かった女の子も同様に悲惨な成績だった。
彼女は、近所に住んでいたので比較的仲が良く、
両親の出身であった県立高校への進学を希望していた。

当時、神奈川県は中学校時代に全県統一試験が2年間実施され、
この成績が高校入試に大きな比重を占めていた。
そのため、1年の3学期に行われる試験を失敗することはできなかった。

1学期終業日、明日から夏休みだというのに、彼女は泣いていた。
通信簿を胸に泣いていた。
私も泣きたい気分だった。
“あいつのせいだ”
と考えるのは一般的な思考回路だった。

2学期は、彼女の席と彼の席がかなり離れた。
席替えの時に、担任が意図的に指示していたことを強烈に覚えている。
なぜなら、私は彼の隣になったから。

2学期の成績は、
私は回復した。図画工作や体育を除くと学年トップクラスに戻った。
しかし、彼女は悲惨だった。
なにしろ、中間テストも期末テストも、終わってから数日間学校を休んだくらいだった。

隣の席に来て気がついたが、彼は休むことなく身体を揺らし続けていた。
貧乏ゆすりとは違って、一定のリズムを刻んでいた。
このリズムに慣れた。
すると、大声を発するのも、このリズムの中にあるような気がして、
慣れた。

隣の席になって、声を交わすようになり、
いつの間にか、私は彼の親友になっていた。
彼は空想の世界を話すのが好きだった。
休み時間に、よく付き合わされた。
雲の上に伸びるビル、
指紋を読んで買い物ができる機械、
歩きながら話ができる電話。
鉄腕アトムの世界だった。
それはそれで、楽しい時間だった。
困ったのは、授業が始まっても続いていることだったけど。

3学期前に彼女は転校した。
住所変更だけして越境入学したことを彼女の口から聞いた。
「あの子、頭おかしいんだって。
普通クラスじゃなくて、特別学級へ入ればいいのに。
私達と同じ生活ができるはずがないんだから」

そうだけど・・・。

それから彼女は県立高校に合格したと聞いた。

私は、2年でも同じクラスになった。

2学期頃から、彼は学校に来なくなった。
授業に追いつけなくなっていた。
ということもあるが、
クラスメート、特に女の子達が極端に敬遠するようになっていた。
彼の発する単語が、もっとストレートになっていたことも大きな要因で、
「いつも、あんなこと考えている男の子」と気味が悪いと思われた。

朝、彼の自宅に寄り一緒に登校するように担任から言われた。
親友と思われていたし、副クラス委員だった。
これ辛かった。
30分は早く家を出なければならなかったし、冬だったし。

結局、彼は3年生で特別学級のある学校へ転校していった。

5年前に中学校の同窓会で、彼の近況を聞いた。
彼は、今設計デザイン会社に勤め、設計士として活躍しているそうだ。