祈りを、うたにこめて

祈りうた(導かれて  金子みすゞの「雀のかあさん」に導かれて)

金子みすゞの「雀のかあさん」に導かれて

  

 

 金子みすゞの詩「雀のかあさん」に導かれた。

 

雀のかあさん   金子みすゞ

 

子供が

子雀

つかまえた。

 

その子の

かあさん

笑ってた。

 

雀の

かあさん

それみてた。

 

お屋根で

鳴かずに

それ見てた。

(「金子みすゞ名詩集」彩図社)

 

 子どもに捕(つか)まえられた子の雀。幼くて何かの拍子に落ちたのか、それとも他の鳥に襲われて落ちたのか。子どもにつかまえることができたのだから、弱っていただろう。
 その子はめずらしい体験をした。そして、母に小雀を見せた。
 掌のなかでじっとしているか、少しは動いているか、それは分からない。子どもはおっかなびっくりだったか、自慢げだったか。―わたしは最初どちらか分からなかった。
 けれど、「かあさん」は「笑って」いたのだ。
 とすると、子どもも笑っていたのだろう。すごいものをつかまえたと、声を上げていたのだろう、無邪気にはしゃいでいたのではないか。そして、それにつられて母も感嘆したのではないか。
 その様子を、母雀が見ていた。人間は笑いながら自分の子どもを見ている。だが、小雀の母たる自分は笑えない。笑わない。
 我が子に何が起こったのか、これからどうなってしまうのか、哀しみやら不安やら怖れやらが押し寄せる。胸がつぶれそうになる。自分にはどうすることもできないのだから。それでも母雀は逃げない。じっと見ている。見続けている。
 そしてこの詩の作者、―その人も見ている。雀を捕まえた子ども、その母親、そして、つかまえられた小雀、その母雀。それら全部をじっと見ている。見続けている。
 この詩から、私には「同情の心」「無念の思い」が伝わってくる。
 作者も哀しみを秘めているかもしれない。くやしさを抑えているのかもしれない。
 母雀の哀しみに、不安に、怖れに。
 さらに、自分ではどうすることもできないような運命の強大さ、非情さに。けれど、それらになす術(すべ)がない自分の無力さというものに。
 もしかしたら作者は、自分自身の置かれたところの、その過酷さを重ねていたのかもしれない。

 

 

●ご訪問ありがとうございます。
 詩は、直接的に心情や思念を表現することができます。けれど、一歩さがって暗喩(あんゆ)として間接的に思いを表白することもできます。
 この詩の各連の最後に句点(。)が打ってあります。多くの場合、詩は句読点(くとうてん)を用いません。行分け・連分けが、散文の句読点の役割をはたしています。
 けれどこの詩には句点があります。作者は、一連一連、思いをかみしめながら書いていったのでしょうか。
 金子みすゞの最期は自死だそうです。私的生活と作品とを短絡的に結びつけることはいけないと思っていますが、この詩を何度も読んでいるうちに、小さな弱い命への同情だけでない、なにかしら深い悲しみが感じられたのです。

 



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