祈りを、うたにこめて

祈りうた(信仰くねくね  自分教Ⅵー善魔③)

自分教Ⅵ―善魔③



1 川柳

善いことを為せと善魔が裾を引く

善いことをしてきましたと得意顔

善いひとのムンとする息かがされる

いい人といわれて照れるフリをして

 気の毒と言いつつ放つ青い火矢

ワルイやつ 善人ほどにかまびすし

イイヒトは肩こり頭痛腰痛み

ちょいワルと卑下して撫でる顎のひげ

 ツミビトと一度でいいの 言ってみて

偽善者と指されるほどの善もせず


 

ただしいと大きな声になるのかな

 自分の考えは正しいと主張するとき、あるいは自分はまちがっていないと訴えるとき、どうして声が大きくなるのだろう? 
 自分の正義を確信し、相手を支配したくなってしまうから? 
 正義感に酔いしれて、解るだろうわかるだろうと、辺りへ叫びたくなるから?
 正義は万国共通、万民同調すべきものと、人間のこころを一色に塗りつぶしているから?
 ほんとうは内心自信がなくて、それを見破られるのがこわいから? 
  それとも、単に地声がでかいだけ?



イイヒトを自認する人やっかいな
 「善魔」は「悪魔」より始末がわるい、という思いがある。悪魔はおのれの「悪や罪」を自覚しているだろう。だが、善魔は、自分は正しい、きよい、優しい、謙遜、愛があると思い込んでいる。  
 むろん犯罪は犯さない、人の悪口も言わない、意地悪もいじめもしない、パワハラもセクハラも無縁、嘘もつかない、裏切りなどとんでもない、人の弱みにつけ込んだりなどするはずがない、そう思い込んで、ひそかに胸を張っている。
 だが、自分のなかによどんでいる「悪や罪」のヘドロには気づいていない。この「気づいていない」ということがやっかいなのである。
 ねたみ、憎しみ、好色、物欲、金儲けへの執着、ケチなどなど。人によっては、自分がいちばんの物知り、仕事のできる者、才能ある者、人気者、金持ち、豊富な人脈など、うぬぼれが潜んでいるかもしれない。
 そして、自分の良さは「サイコー」、他の人の良さは「まあその程度か」。人の弱さや足りないところに気づこうものなら、優越感にひたり、慰めたりする。それですまなければ、逆にけなすことさえしてしまう。
 アドバイスという押しつけ、親切という支配に気づかぬまま、「善」を行う。すべて「善意」に基づいて。「偽善」とは夢にも思わないで。
  なんともやっかいな。




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