甲府は朝から雪が降っており・・・・・・
ワタシの労働意欲は見事に断たれました。 どんな言い訳だかな
コタツに丸くなって、新聞を読み、朝のワイドショーを観る と。 なにサマだかな
前回書いた、作家の田中慎弥の記者会見のもようをやっている。
なんのことはない、とても微笑ましいじゃないですか。
テレビ観戦に耐えられる ってこと自体、まっとうな証拠です。
見ているこっちが恥ずかしくなるのは、巨大な自己愛やら自意識を見せられた時だ。
少なくとも、この人にはそういういやらしさはない。
特に、郷里の母親の電話インタビューを聞きつつ、画面の息子を見ると
この芥川賞作家が、テレ屋な好青年にさえ見えてくる。
パッと見でひとを判断しちゃいかんよ。 あぁオレね^^
石原慎太郎に評価されるほど落ちぶれちゃいない発言 ナイス
丸くなりついでに、週刊文春も読む。
クソ寒い中、買い物に出る年老いた母に「文春も買ってきて」と頼んだものだ。
この・・・この・・・この親不孝もんがぁ! 死にさらせぇ m(_ _)m
その書評のコーナー
白石一文が自著に関して書いている中で印象的だったのが・・・
「~震災をきっかけに、我々はもっと長い時間の物差しを与えられたのです。
その何万年、何億年という尺で考えると、人間の基本は『生』ではなく『死』だとわかる。
毎日、毎年たくさんの人が死に、百年もすれば皆入れ替わってしまう。
そんな『死』の海の中の泡(あぶく)のようなものが『生』なんです。」
ここを読んで、すぐに頭に浮かんだのが、
筒井康隆が以前『死』について書いた本だ。
筒井さんは逆に、「輝くばかりの『生』の海があるだけだ」 と書いていた。
それは、自分を逆に辿っていけば分かると。
あなたがどんどんどんどん若くなっていくと、子供になり赤ちゃんになり、
もっと遡ると、精子と卵子に別れ、それぞれあなたが見たことのない若い頃の父と母の体内に入り、
もっと遡っていくと、父方母方・2組4人に増えた若き日の爺ちゃんとばあちゃんになり・・・・・・
振り返って見るがいい、倍々に無限に増えていく『生』があるのみ。
『生』の海と 『死』の海。
あぶくのような『生』と、かたやどこにもない『死』
百年もすれば皆入れ替わってしまう人生の無常。
でも大河のように流れる生の れっきとした一部である個々の人生。
言ってることは反対のようで、なぜか同じように思えてしまう不思議。
まあ、雪を(それもすぐやんだ)理由に仕事をサボったやつが、
年寄りに買い物を頼むようなヤツが、なに言ってんだか と言われれば返す言葉も無く^^
これも、たま~の雪のせい ということで。
もうとけたって
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