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だましやすい馬鹿

2006-08-25 | 日本の情勢

「Meine Sache」は私の好きなプログの一つですが,7ヶ月もプログを更新されませんでした。その心境の一端をリンク先で書かれています。

http://meinesache.seesaa.net/article/21820671.html

ここでは,テレビを鵜呑みにする だましやすい馬鹿がいる,日本の30%がそういうタイプだ。と述べています。多分,自虐がまじっているのでしょう。だましやすい馬鹿,というのは少しなんだかなあ,とは思いますが,これだけネットが進歩している現在,メディアリテラシーがいまだに身についていない人は「馬鹿」といってもいいのかもしれません。


テレビの斜陽化

このプログ主は,ここ10年程どんどんテレビが斜陽化している,と嘆いています。私もそう思います。私は高校生くらいからテレビを見ない人間になりましたが,それでも昔はテレビから刺激を感じたものです。例えば,「タモリ」を昼の番組の司会者に抜擢する,というのは当時の私の常識にはまったく無かったことでした。とても過激に感じました。「ひょうきん族」は現在のお笑い番組と比べると,随分好き勝手にやっていたのではないですか?90年頃の「カノッサの屈辱」は大変レベルの高い番組でした。あの当時,他にも深夜にはおもしろい番組がいくつかあったと思います。90年頃までは確かにテレビにわくわく感が残っていました。

ところが今は,テレビを見るとなんだか侘しくなります。「笑っていいとも」を食堂かどこかで見かけたときなど,いいようのない倦怠感が襲います。テレビから輝きがなくなっています。



なぜ斜陽化した?

年齢とともにこちらの要求レベルが高くなった,或いは変化したということはあるかもしれません。メディアの多様化も当然あります。

ひょっとしたら,テレビをつまらなくさせた最初の原因は,ビデオの普及にあったかもしれません。

30年前は,待つこと自体が楽しい時代でした。テレビに対する期待がすごく大きかったのです。オンタイムでテレビを見なくてはならない,という縛りがその期待を増幅させていました。ところが,今は見たい番組はビデオでチェックできます。待つことのいらだたしさは解消されました(或いは待つことの楽しさはなくなりました)。

逆にいうと,テレビはコンサート会場だったのが,CDやDVDに変化したわけです。ライブとの違いは歴然です。

ビデオは我々に便利さをもたらしましたが,同時にテレビの情報のステージを低下させました。テレビへの我々の期待度が質的変化をおこしたのです。テレビを見ていて,すぐにチャンネルを変えようとしたり,早送りを押そうとしてテレビであることに気づいたり。テレビに対するリスペクトが失われていました。

同時に,テレビの競合が増えていきました。衛星放送,スカパー,ネット,携帯,DVDなどとイーブンの土俵で戦わねばならないのです。テレビが娯楽の主体から引きおろされたのです。



リテラシー

我々の側から見れば,否応なしに待つ側から,選択できる時代になりました。テレビと視聴者の間の主従関係が逆転したのです。昔は支持待ちでした。口をあけて待っていることに何の疑問もありませんでした。しかし,今は,情報に対してアクティブであることが普通になってきました。当然,口をあけて待っていてはいけません。情報の質を判定する旗は視聴者が持っています。メディアリテラシーが要求される時代になっています。

そんな現代にあって,いまだにテレビの言うことを鵜呑みにする人は「馬鹿」と言ってもいいのかもしれません。現代人が当然身につけているはずの能力を欠いている,ということですから。


YOU TUBE

ところで,テレビのポジションがさらに低下するできごとがおきています。「YOU TUBE」の存在です。急速に出張ってきたこのサイトに対して,各テレビ局は対応に追われているらしいです。なにせ,勝手に動画がアップされ,そのアクセス数がものすごい,ときているのですから。

テレビ局は既得権益の立場から,ネットに対して,本能的に敵視してきたのではないかと思います。逮捕される前のホリエモン騒動は,新旧メディアが交代する,象徴的なできごとのように思えていました。

ところが,「YOU TUBE」の存在は,テレビ局に新しいビジネスモデルのヒントを提供するとともに,既に既得権益にしがみついていてはジリ貧になることを,はっきりと教えてくれていると思います。

テレビ局の人たちは,そんなことは大昔から考えていると言うでしょう。実際,ホリエモンが提案した内容に目新しいものはない,と言っていたくらいですから。しかし,私はこう感じました。この構図は,政治家と官僚のやりとり。或いは小泉首相と抵抗勢力の関係と同じであると。「やれ」,という人たちと,「できません」,という人たちの争いであると。

違いは,「やる」かどうかの決断力にあるのではないでしょうか。そして,時代は「やる」ことを求めていると思うのです。小泉首相は成功し,ホリエモンはおそらく抵抗勢力につぶされ,最後は自滅しました。時代がホリエモンを求めていなかったのか,或いはもともとホリエモンにはその資格がなかったのかは私にはわかりませんが,テレビ局の将来を暗示する象徴的な出来事に思えました。                                              



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