my life still goes on 2024

コツコツと60代を突き進んでおります

4月4日

2022-04-04 23:05:36 | あの日、あの時、あの場所で

書き始めてから過去の記事を調べていたら
5年前にも書いていました。
同じことを書こうと思うなよお(^^;) 年寄りだなあ。

昭和44年4月4日の小田急線。
新宿から下北沢への切符です。
大人¥20(!)ですので小人は¥10。

券売機で買った、いわゆる軟券というヤツですが、
あれ?今日切符買ったら4.4.4.だったのかなあ。
それとも2022.4.4のように西暦になっているんでしたっけ?
とんと券売機で切符を買わなくなっちゃったからなあ。

同じことをまた書くのもナンなので、
過去記事のリンクを貼らせていただきます。

昭和44年4月4日 - my life still goes on 2022

もう53年前の切符となってしまいました。
時は流れる…。


時効案件だよナ(^^;) 修学旅行中に…

2021-11-30 21:40:37 | あの日、あの時、あの場所で
息子の修学旅行つながりでひとつ。

ワタシの修学旅行、
実は個人的にとてつもなく大きな事件が
あったのですが、
(→高3の時の"赤っ恥"と"栄光" 前編
それはそれとして(^^;)

なかなか今どきは考えられないかもしれませんが
最終日前日、松江のホテルに宿泊中のこと。
就寝前の自由時間だったと思います。

ワタシも含めたワルどもが
男子の部屋のベランダ?で
タバコを吸ったりしていたところ、
そこに女子も何人かやってきたのでした。
もちろん「あ、悪いんだぁ」なんて言っていましたが、
その中の一人の子が「どんななの?」興味を持っていたので
ワタシが吸っていたタバコを吸わせちゃったことがありました。

よく考えるとその子も“間接キスなんてイヤ”などと騒がずに
スーッと吸い込んでムセることなく
「あ、全然平気」なんて言っていましたね。

で、数年後のクラス会で
「あなたのせいでタバコやめられなくなっちゃったわよ」
「マジ?ゴメン」
と笑いあったことがありました。
どうしてるかなあ、佐藤さーん。

タバコの是非はともかく、
ワルぶっているヤツにはステータスだった時代です。
今どきはそんな子いないんだろうなあ。

「すとらいぷ」という自主録音アルバムがあったのだ

2021-06-07 22:07:49 | あの日、あの時、あの場所で

今から約40年前頃。

年齢でいうと18歳から21歳ころの話。
高校時代から音楽ばっかりやっていて、
中学時代の仲間とロックバンド、
高校ではフォークソング部。
2足の草鞋といった感じで音楽漬けでした。
ホントに時間が無限にあった日々。

で、いわゆるコンサートもたくさんやってきましたが、
(まだライブってあまり言わない時代だったな)
家では一人多重録音で自分の歌などを
レコーディング(!)と称し、
それらをまとめてはアルバム(!)と称して、
カセットテープを作っていたのです。
バンド構成ではなく、アコースティックギターのみの
多重録音だったのですけどね。

自分で作詞/作曲したオリジナル曲はもちろん、
友達が書いた詞に曲もつけたし、
作品のクオリティはともかく(^^;)、
山のようにオリジナル曲を書いていました。

そんな多重録音ざんまいの頃でしたが、
高校時代の部活で後輩の女の子バンドに
やはりオリジナル曲を書く子がいて、
もちろんその時は(!)彼女ではなかったのですが、
「君のアルバムを作ろう」と
プロデューサーまがいのことを買って出たのです。

いやあ、プロデューサーっつったって、
イントロやらアウトロやらを含めた多少のアレンジをして、
ギターを弾いて、コーラスして、って程度です。
その子のオリジナルにワタシが1、2曲書いて、
友人の一人にもギターを手伝わせてね。

で、完成したテープ、もといアルバム(!)があるのです。
そう、ちょうど1980年から81年頃のことでした。

その子だって、ただの素人。
書く詞や曲も多少は似かよったところもあるし、
ズバ抜けていい曲があったわけでもありません(ゴメン)。

でも、40年を経てもたまに聞いています。
もちろん、自分のアルバム(!)も聞いているのですけど、
自分が黒子に徹して他人の曲を演奏していることに
ものすごく感慨深くなるのです。

自分のアルバムだと、
ギターや歌を失敗している部分ばかり気になり、
半ば自己嫌悪にも陥るし、逆に自己満足ばかりなのですけど、
その子のために一生懸命ギターを弾いたり、
どんなものにしようか考えて過ごしたあの時間、
そしてその子と作り上げた作品。
とっても愛しいものに感じてくるのです。

カセットテープからMDにコピーして、
さらにMDからPCへのコピーでデジタル化して、
今やMP3ウォークマンで聞いているわけです。

いったい、あの子は今でも聞くことあるのだろうか。
まさか、ワタシが今でも聞いているなんて思わないだろうなあ。

もし、逢えるならあの頃の話をしたり、
アルバムの中の曲を一緒に演奏したりしてみたいなあ。
ちなみにその子も来年還暦になるはずです、元気でいたら。

引野明美さん、お元気なのでしょうか。
オレは今でも「すとらいぷ」聞いてるぞー(^_^)v


2001.9.11「アメリカ同時多発テロ」の日の記憶

2020-09-11 22:54:54 | あの日、あの時、あの場所で

19年経ちました。
そっか、19年かぁ。
事件に関係した方々、特に遺族などにとって
あまり何年経ったかは関係ないとは思いますが、
私にとっても、いや20年近い歳月ですから、
全ての方々に色々なことがあったことでしょう。

2001年。
この年の3月に40歳になっていたワタシ。
当時在籍していた会社では満40歳から一般健診ではなく、
人間ドックを各自で申し込んで受診するということで、
人生初めての一泊人間ドックに挑んでいました。
クリニックが併設されている大きなホテルです。
朝から受診し、午後3時前には当日分の検査が終わり、
そのホテル内のレストランで夕食を摂り、宿泊する。
翌日も午前で検査は終了してしまう、という、
余裕たっぷりのプチ豪勢な一泊ドックなのでした。
午後から帰社してもいいのだけど、直帰してましたし(^^;)

ま、そんな一日目。
レストランで夕食も終え、部屋でダラダラと22時からの
ニュースステーションを見ようとしているときでした。
すると冒頭から(だったと思います)
「ニューヨークの世界貿易センタービルに
 飛行機が激突した、という映像です」
と“あの”映像が映されたのです。
ちょうど22時少し前のことですね。

最初はテロなどとは微塵も思わず、
「すごい事故が起きた」と思いました。
そして15分後くらいには2機目が激突。
さすがに「え?」と思いました。
報道関係者の方は「こりゃ、テロだな」と
考えた方も多かったでしょう。
でも、その時点では犯行声明があるわけでもなく、
ただただ事故としての映像が流れました。
民放のテレビはしばらく通常の放送をしていましたが、
ほどなく報道一色になりましたね。
ワタシもテレビから目を放すことができなくなっちゃって、
深夜までNHKを見ていたと思います。
WTCビルのツインタワーが崩壊。
「うわ、ビルの上層部が破壊されると
 構造自体に大きな影響があるんだ」など
ものすごい脅威ではありました。

ともあれ、初めての人間ドックの日。
ちゃんとホテルの部屋でのんびり早寝すりゃいいのに、
結局かなり夜更かしとなってしまいました。
翌朝の検査に何か影響あったかは覚えていませんが(^^;)

でも、大きな旅客機が丸ごと突っ込んでしまうビル。
ビル自体のフロアも大きいのだとは思いますが、
まるで映画だとか、ミニチュアの世界のようでした。

ビル内で業務が始まっていたかどうかはともかく、
道路で自動車が自分に近づいてくるのさえ怖いのに
旅客機がビルのガラスに迫って激突してくる、
まるでアクション映画のシーンみたいですよね。
犠牲になられた方々の恐怖は計り知れません。

そして、もちろんハイジャックされて
自爆テロに道連れにされた旅客機の乗客の方々。
こんな不運はありません。
もちろん、
そのほかにもビルからの避難が間に合わなかった方。
救助に駆けつけて被害に遭われた方。

無差別テロって、いったい何だろ。
「言うことを聞かないと、ほら、こんなふうに殺すぞ」
と、見せしめのように何も関係のない人を犠牲にする。

戦争…と一緒なのかな。
やっぱり戦争のない、
この時代に生きることができて良かったな。

と、やっぱり、
終戦から16年ほどの後に生まれたワタシは、
小学生になっても戦後20年ほどでしたからね。
きっと当時の大人の脳裏には戦時中の体験がたくさんあり、
イヤな思い出としてもワタシらに
それとなく伝えていたことでしょう。

生きるか死ぬかの体験なんぞ、
今のワタシが子供たちに語れるものはありません。
ですので、ホントならこういった事件も
きちんと語り合うべきなのかもしれませんね。

今はこんな、
「ホテルでテレビ見ていたらすごいことがあった」
くらいしかありませんが。

と、WTCビル崩壊から19年目の日に
少しだけ考えたのでした。


K君のこと

2020-09-02 23:12:08 | あの日、あの時、あの場所で

突然ですが、古い友人“だった”K君のことを書きます。

なぜK君はあんなにも父親のことが嫌いだったんだろう。

K君。
中学2年、3年と同じクラスで、
お互いの家で遊んだりしていましたが、
ごく普通のご自宅で自分の広い部屋もあり、
エレキギターなんかも持っていて、
ワタシには少しうらやましい家庭環境にも思えたものです。
まあ、彼の影響でワタシはギターを買ったようなものです。
そして彼自身、おもしろいヤツでもあったのは事実です。

その後、高校まで同じ学校に進学しました。
ただ、仲が良かったと言えばそうなんですが
同じ高校にまで行きたいほどの仲か、というとそうでもなく、
もちろん同じ高校に行こうぜ、と相談をしたわけでもなく、
彼は父親の勧める全寮制の学校の受験をするようでした。

ワタシは都立高の受験を決めていて、
それも担任の先生が
「腕試しにランクの高い私立を受けるのはいいが、
 お前が合格した場合には、誰かが落ちるんだぞ」と諭されたり
「お前なら都立一本で大丈夫」とおだてられた(?)こともあり
の都立高受験だったのです。

でもK君は違いました。
家庭内のことは多く話してくれませんでしたが、
全寮制がイヤだったのか、父親への反発だったのか、
「daikiと同じところに行くわ」
と、そこそこ成績が良かったはずなのに
「全寮制の試験では全部テキトーに答えを書いてきた」と
故意なのかどうか、とにかくその高校を不合格になり、
ワタシと同じ高校へ進学したのでした。

入学当初は、通学も時間を合わせたりしましたが、
違うクラスになると、それぞれの友達や時間ができるので、
校内で顔を合わせれば「おう!」くらいはあるものの、
だんだんと疎遠になっていきました。

K君は中学時代にはそんな素振りも見せませんでしたし、
家庭に原因があったのかも推測でしかないのですが、
高校入学後にキレやすくなってきた気がします。
前述のようにツルむこともなくなってきたのに
何かのときに「なんだよぉ、中学からの友達だろッ!」
と絡んできたりもあったように覚えています。
ワタシがフォークソング同好会(テニス部と兼部)で、
文化祭のコンサートに出ると言うと
「生意気だよッ!」と半ギレの状態になったり。
それまでフツーに会話していたのに、ですよ?

そして一年生の終わりころから、彼は悪くなっていきました。
暴走族とのつきあい、校内での喫煙、ペシャンコのカバン、
髪の毛はパーマ&リーゼント、スカートの長い女子たちとのサボり…。
二年、三年と彼とは同じクラスになったのですが、
ただそんなツッパリたちも、暴れるということではなく、
授業中は意外に普通にしていました。
休み時間には教室の後ろでディスコミュージックをかけて
踊りまくっていましたけどね。

さて、そんなK君ですが、実は卒業後の進路はまったく知りません。
進学したとも聞かなかったし、まともに就職したとも、
ホントにまったく見当つきません。


ただ、卒業から3年か4年経った頃、
突然訃報の連絡があったのです。
ワタシはフォークソングを一緒にやっていた高校時代の友人と
告別式に参列して焼香してきました。
事情をツッパリ仲間に聞くと、
「工事現場の警備の仕事をしていてダンプにひかれた」
と、事故の状況とK君がどんな状態だったかも含め
教えてくれました。

ワタシの知る中学時代のおもしろいK君は過去のもので、
K君とのつきあいもまったくなかったので、
年取った今のように、感慨深くなるようなこともなく、
「そっか、死んじゃったか」
というのが正直なところでした。

その後、何回か参加したクラス会では、
「Kのところ、お父さんも自殺しちゃったんだ」
などという話も聞きました。

もちろんお父さんの自殺の真相などは知る由もありません。
でも、息子との確執があって、息子を早くに失くして…
などと、あらぬ想像をしがちです。


K君の22、3年の人生。
そのうちのほんの2、3年しか友達ではなかった。
今だって、天国にいるK君に心の中で話しかけることすら、ない。

でも、そのほんの一時期は友達だったからね、
誕生日、覚えているんだよ。9月2日だったろ?
無難に生きて60歳になっていたとしたら、
どんな人間になっていたんだろうな。
どんな人生を送れていたんだろうな。

今年は同級生がみな60歳になる年です。
ワタシは大トリともいえる3月末ですけど(^^;)
頑張っていそうな友人たちと同時に
K君のこともふと思い出したのでした。

圭志(ケーシ)、生きてれば還暦だな、おめでとう。


みさき公園にも行ったなあ

2020-04-01 23:30:30 | あの日、あの時、あの場所で

3月末でみさき公園が閉園になったとのこと。

みさき公園?どこにあるの?
と言うのが関東人のワタシの印象でした。
関西に転居しても、いろいろな地名がわからず
まあ、今でも“みさき公園”がどこにあるのか
明確な説明はできないのですけどね。
大阪の南のほうの海に近いところ、ってなもんです(^^;)

で、2002年11月に行ったことがありました。
約17年半前のことですなあ。
そう、子供ができるといろいろなところに
連れて行きたくなるじゃないですか。
当時、2歳3ケ月の娘が好きだった「とっとこハム太郎」。
何か、そのイベントだかをやっていたと思うのです。
住んでいたのは宝塚でしたから、
みさき公園までは結構な距離がありました。

まあ、3歳にもなっていない子供ですから、
自分で何かしたいわけではなく、
ワタシら親の意志で歩いて、写真撮って、
ってなことなのですけどね。
今年8月に二十歳になる娘の可愛い頃です。

みさき公園は結局一回行っただけですので、
何があって、あれをして、なんて覚えていません(^^;)
ただ、娘の可愛い写真が残っているだけですな。
まだブログを書き始めるずいぶん前のことですし、
息子も生まれる前ですし。

さて、みさき公園の写真を探していたら、
同じように閉園となってしまった“宝塚ファミリーランド”。
なんと、みさき公園に行った、
一週間ほどあとに出かけた時の写真がありました。
同じ服を着せてるやないかッ!

ワタシ?41歳ですから若いですなあ(^_^)v

この“宝塚ファミリーランド”のすぐ近くに住んでいたので、
ホントに散歩がわりに何度も出かけていました。
こちらはちょうど17年前の2003年春に閉園しちゃいましたケド。

もちろん“みさき公園”も“ファミリーランド”も、
娘自身の中にはきっと残っていないと思います。
小さい頃のお出かけなんて、
結局、ほとんど親の想い出なんだよなあ。
「あの子が小さいときには、あそこにも行ったなあ」と、ね。
ほんで、子供に聞くんだよな。
「憶えてないだろ?」って。

憶えているわけないっつうの!
いいの、いいの、親の懐かしい思い出なんだから。

でも、こうして、
小さい子供が遊びに行ける遊園地?が
少なくなってきちゃっています。
淋しい感じです。
と、“みさき公園”に反応しちゃった今日でした。


31年前、母と二人でお伊勢参り

2019-09-17 22:18:03 | あの日、あの時、あの場所で

母がらみの記事を今日はもうひとつ。

たぶん、1988年の春だったと記憶しています。
(ちゃんと調べりゃ判るのですが)
母と二人で東京から伊勢へ
一泊旅行に出かけました。

東京から新幹線で名古屋へ行き、
近鉄で伊勢へ。
帰りは、母の小学校時代の友人の嫁ぎ先、
中津川に寄るために中央線で塩尻だか松本経由で
新宿に帰ったと思います。

長年、お伊勢参りに行きたいと言っていたので、
中津川のお友達を訪ねる行程も組み、
孝行息子をしちゃいました。

ビデオも三脚も持ち歩き、
母とお友達の再会も記録。

言ってみれば、最後の親子二人旅だったわけです。
ちゃんと親孝行をした、という想いもないのですが、
こんなふうにピンポイントではあるけれど
たまに優しくしてあげられたかも、とは思っています。

さ、朝から感傷的な記事を書いちゃいましたが、
なるべく早いうちにお墓参りに行けるよう、
とりあえず、ちゃんと生きておかねば、ね。


40年前のパンク雑誌

2019-08-20 23:52:32 | あの日、あの時、あの場所で

8月初め、とんでもないものをゲットしてしまいました。
なーんてね、大げさに書いていますが、
甚だプライベート過ぎる、
自分の思い出にまつわるものなのですけど(^^;)

仕事中など(え?いいのか?)、作業に行きづまっているとき、
息抜きでインターネットで何やら検索したりすることがあります。
ただ、何か検索していると、
次から次へと気になった単語で検索を続けてしまい、
時に「あれ?何を探してここに行き着いたんだっけ?」
なんてことはしょっちゅう(^^;)

そう、この雑誌もそんな経緯だったのです。
で、この雑誌の検索をしていたとき、
「今でも手に入れられるのかな?」と、
今度は手に入れられるのかという目的での検索を続けました。
そうしたら、見つけてしまったのですよ!
大阪のレコード店に中古本大量入荷!とあり、
この号が写真とともに掲載されていたのです。

早速電話をかけて、取り置き依頼。
仕事帰りに速攻で買いに行きました\(^o^)/

それは40年前のパンク雑誌「ZOO」の1979年8月号。


パンク雑誌と言っても、
ユーミンのレコードのレビューがあったり、
アンルイスや鈴木茂やら
まだ、完全な“その世界だけに特化”したものではなく
多少、一般的な音楽雑誌の体を成しています。
そう、まだまだインディーズなんてのが一般的でなく
パンクでさえもメジャーなカルチャーの一つで、
いわゆるインディーズは“自主制作”なんて言葉で
流通していた頃のことです。

さて、なぜこの雑誌が“思い出”なのか?
ヘヘヘ、なんとワタシが載っているのです。
記事ではないです。
レコード店の広告に。

それがこちら。 ヒャッホーイ\(^o^)/


下北沢のワンダーランドというビルにあった、
「五番街」というレコード店。
このお店もたぶん(判然としていませんが)、
ワタシらがバンドを始めた頃に開店したと記憶しています。
あ、もちろん今はありません。
その後イエローボックスという名称になったビルも
今はどうなっているのやら。

「DESPERADO(デスペラード)」というバンドで
ボーカルだったワタシですが、日がな地元下北沢を皆でウロウロし、
「新しいレコード屋ができた」
「なんかステージもあるゾ」ってなもんで、
「あのステージに出れるんですか?」
などとみんなでヒゲの渡辺店長さんに確認した覚えもあります。
そんなこんなで、ここのミニステージには
1977年の2月、5月、12月と3回、
出演させてもらいまして。
その頃は、洋楽ロックのコピーバンドだったので、
主にアメリカンロックを中心に演奏していました。
ただ、なぜか翌年の1978年はここで演奏した記録がない。
まあ、オリジナルの曲を作り始めた過渡期でもあり、
メンバーの大学受験なんかも多少は影響していたかも。

で、この雑誌の1979年。
広告にあるように「下北沢音楽賞」という
超ローカルなコンテストの6月予選大会、
フォークっぽい曲とロックっぽい曲の2曲で参加。
何とか勝ち抜けて11月の決戦大会に出たはずで、
こちらは2位だか3位だか…。覚えていません(^^;)


この雑誌、当時ももちろん買いました。
そりゃ自分が載っていますからね。
バンド全体が載っていないのでメンバーには不評でしたが。

広告を書いた渡辺店長さんが気を遣ってくれて
さも、上手い地元バンドのようですが、まあ、そこそこでしたね。
一種の広告上の煽りと言えるでしょう。
あ、誇大広告とも言うか(^^;)

特にワタクシ…
「人気抜群」だそうです(恥)(^^;)
しかも「世田谷地区」って…。広いじゃんよぉ。


まだまだ文化、というか音楽カルチャーなども
未熟な時代でしたので、
この頃からの地道な活動を続けていたら、
結構、今はライブハウスの経営者とかなっていたかもね。
まあ、生活できていたかはわかりませんけどね(^^;)

音楽の実力なんて大したことはなかったけど、
楽しかったし、未来があったし、良い時代でした。

あ、ちなみに決戦大会のゲストは、
デビュー直後の「ヒカシュー」でした。懐かしッ!

何故か突然、40年前に戻ったお話でした。


今も心がける、母と祖母の教え その2

2019-06-13 22:39:57 | あの日、あの時、あの場所で

三つ子の魂百まで、ではないですけど、
子供の頃に植えつけられた“こだわり”。
さて、祖母の“教え”です。

くどいですけど、もう、ホンットに!
大したことではないですから(^^;)
笑わないでくださいな。


ワタシは今、
昼間の本職(病院のシステムエンジニア)以外に
週3、4日飲食店でのアルバイトをしています。
このアルバイト、2009年の10月に始めまして、
既に10年目!に入ってるのでした。
その間に本職は転職しているのに
10年同じバイトってすげえな、オイ。

ま、それだけ長く働いていると、
いろいろなアルバイトの人が
働いては辞めていき、というのを見てきました。
まあ、大学生などは卒業したら、
「ありがとうございました」と就職していくわけですが、
その若者たち。

初めてアルバイトするって子も多いわけですが、
まあ町の飲食店ですし、主として教えるのは
注文の聞き方、器の運び方、片付け方、レジ、洗い物、
というごく普通の飲食店の仕事です。

接客部分の言葉遣いなんてのは、
普段の生活で使うことがない言葉遣いでしょうから、
見よう見まね、いや聞きよう聞きまね、か、
で身に着けるしかありません。

でも、やっぱり行動では、“ついで”ができるかどうか、
これは家庭での生活行動が出るものだと思います。
厨房からお客様のお席に商品を持っていき、
片付け物があるのに気づかず手ぶらで厨房まで戻ってきちゃう。

また、下を向いて皿洗いをしているので
お客様がこちらを向いて
何か用がありそうなのに気づかない、とか。
こういう若者が多いのです。

まあ、それでもこんなのは少しずつ
「やってることに集中し過ぎずに周りを気にしてね」
と伝えていくしかないのです。

その中でもワタシが気になるのが、
テーブル席やカウンター席の拭き方なのです。

ダスター(ふきん)を折りたたんだまま、
ちょろちょろっと撫でるように拭くだけ。
しかも、グルグルグルっと円を書くように。
…表現しにくいですけど、
言ってみれば、ちゃんと隅々まで拭けていないわけですよ。

ワタシが子供の頃、
ごはんを用意する前にテーブルを拭いた際、
そんないい加減な拭き方だったのですね、きっと。
祖母に
「四角いものは四角く拭きなさい」
と注意され、
子供ながらに「なるほどな」と思ったのです。
そして
「埃をはたくわけではないから、
 しっかり拭きなさい」
とも。

これ、意外に習慣づいているのです。
だからこそ、アルバイト先での
若者のグルグル、チャッチャッという拭き方、
とても気になるのでした。
これね、実は家庭で躾けられていないと
注意しにくいんですよね。
仕事上のことと言うより、生活習慣的なことですし。
自分の大切なものを掃除するときには
隅から隅まで拭くのでしょうけどね。
注意じゃなくてアドバイスなら伝えやすいですけど、
柔らかいアドバイスだと、持ってる習慣は
なかなか改善しにくいですからねえ。

と、ホントは若者たちに
「四角いところは直線的に拭きなさい」
と言いたくなるたびに、
おばあちゃんを思い出しているのでした。

写真はきっと50年ほど前のおばあちゃん。

いつの時代もそうですが、
祖母からしたら孫が可愛いし、
孫も小さい時は「おじいちゃん!おばあちゃん!」です。
ウチはおじいちゃんは亡くなっていたのですけど、
私も例にもれず、おばあちゃんは大好きでした。


DNAではなくて、物心ついてからの
母と祖母の“教え”。
他にもたくさん教わったことがあるでしょうけど
この歳になってもよく思い出すことを書いてみました。

さて、娘や息子の心に、
ワタシは何か強く影響したこと、あるのかなあ。


今も心がける、母と祖母の教え その1

2019-06-05 21:57:51 | あの日、あの時、あの場所で

ひさしぶりに、日々のことではない
“ワタシ”を形成していることを書いてみます。

タイトルは何だか堅苦しくて、
ものすごい“教え”のように見えますが…(^^;)
まーったく! 大したことではないです。
“教え”なんて書いたら恥ずかしいくらい。
心に根づいているというか、習慣というか、
まあ、“こだわり”にもなっていることではありますが。


子供の頃、そう小学校低学年でしょうかね。
東京の下北沢に住んでいたワタシ。
新宿に出るにも渋谷に出るにも私鉄電車がありました。
母は渋谷が好きな人でしたので、
休みの日や平日でも学校から帰ってから
渋谷の百貨店などに買い物に出かけることが多く、
一緒に連れて行ってもらっていたのです。

渋谷への井の頭線、新宿への小田急線、
ともに休日でも、平日の午後でも
今でもそうでしょうけど、当時もそこそこ混んでいました。
母によく言われたのは、
「降りる駅が近づいてきたら、
 降りる準備をしなさい」
ということでした。

別に旅行じゃないですから、
特段降りる準備なんてのはありませんが、
すごく東京人っぽい感覚だったのでしょう。
降りる人も乗る人も大勢いるから、
さっさとスムーズに乗り降りしないといけない、
ということだったのですね。

もちろんそこには、
「乗る人にとっては降りる人は早く降りてほしいはず」
「降りない人は降りようとしている人と代わって
 ドアの前を空けないと降りる人の邪魔になる」
くらいの、ごく当たり前の理由しか想像できません。

でも、やっぱり大切なことです。

ワタシはギュウギュウで動けない混雑ではない限り、
駅に到着しそうなタイミングで、
立っている人の間を迷惑じゃないように移動し、
ドア近くまで移動しようとします。
身動きとれず移動までできない場合は、
少なくとも「私、次降ります」という行動
ーそうだなあ、ドアの方向を向いて、
前の人が降り始めるのを注視していたりー
を取りはじめるようにしています。

でも今の時代、
ドアの前で動かない人、
電車を下りるギリギリまで
下を向いて
スマホをいじっている人、

そんな人ばかり見かけます。
もちろん開くドアのすぐそばでも。
つまり降りるのか降りないのか
見当がつかないんですよね。
降りるならいいけど、降りないのなら
ドア前を空けてほしい。

でも、ドアが開いてもスマホをいじるのをやめず、
ドアの前を空けようともしない。
完全に自分一人の世界です。

かつ、みなリュック。
スマホをいじるのに両手が使えるから便利です。
それはわかります。
でも、ただでさえ後ろの人に気を遣わないのに
スマホに集中しちゃって、後ろの人のことなんて
まったく気にしていない。

あー嘆かわしい。

ワタシは数駅乗るのにも
車内の奥に行くようにしています。
ドアの周辺は絶対にヒトが滞留して、
さらに前述のような人たちが多いので、
奥の方には必ずスペースがあります。
そう
「ご乗車になられましたら、ドア付近にたちどまらず
 順に車内の奥の方までお詰めください」
ってヤツですよ。

次の駅で降りるので、
ドアの近くにいたい人がいるのも解ります。
でも、みんながそうしたら、
いや、みんながそうするから
ドア付近が混雑するのですよね。


おっと、少しテーマからそれちゃった。

つまり、降りる駅が近づいたら、
さっさと降りる準備をしたいのに
周囲の人が降りるのか降りないのか
見当つかないことが多くて困るのです。

そんなとき、母が言っていた
「降りる準備しなさい」
を思い出し、自分の中の“こだわり”が
母によるものなのだと気づかされるのでした。

写真は約50年前の母と私。
ワタシが小学校二年生か三年生の頃デス。


祖母の“教え”、
これまた大したことじゃなくて恥ずかしいのですが(^^;)
近いうちに「その2」として書きます。


1989.2.26 The Night with Us から30年

2019-02-26 23:36:47 | あの日、あの時、あの場所で

さて、
クイーンを懐かしみ、ボヘミアンラプソディにニコニコの、
そんな日々が続いていますが、
今日2月26日は…
今や、“あの”とか、“伝説の”とまで言われる?
オフコースのラストコンサートの日、なのでした。
今からちょうど30年前、1989年2月26日のことです。

そうか、もう30年かあ、と
平成元年のあの頃を振り返ってみます。

前年1988年、27歳だったワタシは転職をしました。
IT業界で4年ほど経験を積んだだけで、
ちょっと調子に乗って業界を広げての転職活動。
案の定うまくいかずに、
秋に大手IT系列会社に再挑戦して滑り込み。
そこでは、生活環境も変えてみようと
静岡県沼津の支店配属を希望したのです。

そこへの入社は1989年2月1日。
住んでいた賃貸マンション(初めて一人暮らしした)を
1月の末に引き払うことにして、
下北沢周辺に大勢いた友人にも送別会をしてもらい、
沼津で働き始めて一か月経過した頃のことでした。

コンサートには、当時の彼女(吉祥寺在住)と
下北時代の友人と3人で行きました。
が、当日、ワタシはどうやって行ったのか、
まったく覚えていないのでした(^^;)
どこで彼女や友人と合流したのか、
もしかしたら、前日に彼女とお泊りでもしたのか、
翌日は沼津で仕事だったはずだから、
コンサート当日中に水道橋から沼津まで帰ったはずだし…。
そうか、やっぱり「解散ライブ」ということで、
大きなイベント的な捉え方でしかなかったかも。
思い入れがあったら、それなりに思い出の出来事とか
きっとありそうですからねえ…。

このコンサートは
オフコースにとっては最初で最後の東京ドームでした。
が、アリーナでは何だか音が響きまくっていて
あまり音的に良い印象はなかったです。
「明日からみんながオフコースだからね!」
という小田さんの言葉が、小田さんらしくなくて
ミョーに頭に残っていましたね。


結局、沼津に住んで働いたのは一カ月程度。
南足柄の客先に常駐することになり、
その客先の寮に引っ越すことになったからです。
だから、沼津で暮らしていた一か月足らずの間の出来事が
全体的におぼろげな感じなのだと思います。
強い覚悟で東京を離れたのに一カ月で神奈川へ戻る(^^;)
少し気持ちが折れていたかもしれないな…。


当日のチケットです。
東京ドームのアリーナが¥5000の時代。
そして、ドットインパクトプリンタでの“印字”。懐かしい(*^_^*)
チケットぴあでもギーコギーコと印字してました。
沼津にチケットぴあの窓口がなかったからかな、
その後たくさんお世話になる長崎屋小田原店のチケットぴあで発券。

パンフレットの表紙。


平成の始まりとともにオフコースが終焉し、
小田さんは1989年秋から本格的にソロ活動を始めます。

で、ワタシは平成の始まりとともに
東京都民に戻ることはなかったのでした。


そっか、ワタシの昭和の終わりは、
東京都民の終わりでもあったんだなあ。


移動教室のレクで「薔薇の鎖」だッ!

2018-05-27 22:45:09 | あの日、あの時、あの場所で

ヒデキとのお別れはホントに悲しいものでした。

昨晩も葬儀の様子を映した動画を何本も見て、
アルバイトのあとグスグスしながら見ていました。


さて、ワタシのヒデキ関連エピソードも、
いよいよ最後になります。
今日は中学校の卒業アルバムの写真を転載です。

今から44年前、
昭和49年(1974年)の初夏のことです。
中学二年生のワタシは、
学校行事で河口湖移動教室という、
いわゆる林間学校に出かけていました。



同じ施設が存在しているかは判りませんが
世田谷区立の中学校は
今でも富士五湖あたりに出かけているのでしょうか。

バスで中央高速を真っ直ぐ行けば
さほど時間をかけずに河口湖方面に行けますからね。

ま、登山というほどではないにしても
山道をハイキングしたりして楽しかったでしょうけれど
自分のアルバムを見直してもまったく覚えていません。

そして自分が大勢の前で歌ったことも
実はあまり覚えていないのでした。


マイクスタンドアクションをしながら西城秀樹の「薔薇の鎖」。
なんと、中学校の卒業アルバムに掲載までされちゃってます。

実は中一の最後、あるテレビ番組の
歌ものオーディション(スター誕生じゃないよ)を
受けることになり、土曜日に学校を休んだことがあるのです。
先生にはきちんと理由を言って申請したはずですが、
きっと自分でも吹聴したのでしょうね、クラスのみんなも
担任以外の先生方も知っていたように思います。

で、若い先生も調子に乗って
「じゃあ、度胸づけにみんなの前で歌ってみろ」と
クラスのみんなの前で歌わされたこともありました。

で、移動教室のレクリエーションで
なにゆえに歌うハメになったかは全く覚えていません。
悪友に囃し立てられたか、先生が「よし、〇〇歌え」だったのか
今となっては歌っている写真だけが真実を語っているわけで
経緯や自分の気持ちなど、ホントに記憶の彼方なのです。

でも、“笑いもの”ではあったかもしれないけど、
写真に写っているみんなが笑顔なので、
「ああ、みんな楽しそうだからよかったな」
と思えるわけです。オッサンになった今ではネ。


ね、誰も彼も楽しそうに笑ってくれてるじゃないですか。

いいんです、
「アイツなにやってんだよー」でも
「恥ずかしいー」でも
「よくやるよ」でも
「似てねえー」でも。
もちろん、お笑いのネタをやったわけではないので、
複雑な気持ちにはなりますけどね(^^;)

今回の西城秀樹さんの逝去で
このときワタシを見ていた側の友達で
ワタシが笑われながら歌った「薔薇の鎖」を
一人くらい思い出してくれたでしょうか。


で、ここまで西城秀樹がらみ。

中学校の卒業アルバムを開いたので
ついでにアルバムの写真を撮ってみました。

バレーボール班(「部」と呼んでいなかったんですよ)


よく覚えていないけど、部活には“必修”と“課外”があって
これは“必修”のほうの班だったと思います。
“課外”は帰宅部でしたから。
バレーボールもグラウンドで活動している時代でした。
後ろの体育館も年季が入っていますわ。

そして卒業時のクラス集合写真のワタクシ。
ニヤけないよう心がけていました。



こちらは上の写真よりもほぼ2年半ほど前。
入学式前にクラスごとに並んだ際に偶然写ってたワタシ。



ヒデキネタだったはずが、
普通にマイメモリーになっちゃいまして(^^;)

そう、つまり、この頃にヒデキが好きだったんですよ。
43~45年前のワタクシでございました。


亡き母の誕生日に、家族の文化?を思う

2017-06-11 10:23:28 | あの日、あの時、あの場所で

今日、6月11日は、
今は亡き母の誕生日です。

生きていれば、88歳の米寿!
あの母が88歳になった姿、
まったく思い描くことはできませんが。


ワタシが小学生の頃、
そう、お小遣いを少しずつ貯めるように
なってきた頃の話です。

5月の母の日と6月の母の誕生日。
いつ頃までかは忘れましたが、
小学生の頃は必ず何かをしていました。
「ふたつ(母の日と誕生日)一緒にね」
と合わせていましたが。
もちろん、何かを買ってあげる、
というのが主だったとは思います。

あ、決して
「自分が子供の頃、母親思いだったんだぜー」
なんて、ひけらかすつもりではありませんので(^^;)


父母が別居していたので、
ほぼ母子家庭だった我が家。

母は母なりにできる限りのことを
兄と私の兄弟にしてくれたと思います。
そう、まだ「ママ」と呼んでいた頃です(^^;)

どこでどう知ったのかも判りませんが、
母の日にはカーネーションを贈ると聞いて、
お小遣いでカーネーションを1本買ったのは
1年生か、2年生の頃だったでしょう。
通学路の途中の花屋さんで、
「カーネーション、1本ください」
と言ったとき、
1本なのに、母の日用にしてくれた記憶もあります。
(あの頃はラッピングなんて言わなかったンだよね)

そして、4、5年生になると、
その頃、近所にできたスーパー・忠実屋の
家庭用品売り場を散策し、
台所で役に立つグッズやら、
母が欲しがっていたショッピングカート
(ガラガラと持ち手で引くカート)などを
プレゼントしていました。

母も上手いもので、
「ダイキの買ってくれるものは役に立つものばかりだわー」
と誉めてくれたものです。


中学生くらいになると、
母の日やら誕生日やら、
取り立てて何かをした記憶はパタッとなくなるのですが、
我が家の文化”というか習慣として、
何かしらのことは
していたとは思います(しなくなっちゃったかナァ)。


こんなのは各家庭ごとに異なると思うものの
結婚して、妻が自分の親に対してさえも
何もしないのが不思議でした。
ま、それもひとつの文化でしょうけれど、
親が自分の親に対して何かしていると
子供にも習慣づいていくのでしょうから、
あちらの家では、そんな習慣はなかったのでしょう。
いえいえ、それを悪く言うつもりもございません。
それぞれの家族で文化の違いはあるんだ、ということです。


もちろん、
何か物をあげればいいというわけではなく、
気持ちの問題だとは思います。
ワタシは、母の日や誕生日に何を買うか考える、
その時間がとても好きでした。
一生懸命、母の役に立つものを小遣いと相談しながら考え、
それがホントに役に立ったとき。

とっても得意な気持ちになったものです。
これは、“誰かが喜んでくれる”のがうれしいという、
今の仕事のスタンスにも通ずるものがあると思います。


このブログでも、いつか書いたかもしれませんが
プレゼントに限らず、手紙を書くことなども含め、
その人のことを想う時間、それが大切だと思うのです。


あなたのことを気にかけているよ、という意思表示。


気持ちはうまく伝わらないかもしれないけど、
その気持ちだけは子供の頃のままでいたいものです。


恋がはじまった?1978年4月の交通ストの日

2017-04-25 06:17:45 | あの日、あの時、あの場所で

ひさしぶりに高校時代の話を。

1978年の話です。
ってことは、もう39年前(^^;)
17歳、高校三年生になった4月のことですね。

その日、1978年4月25日は、
今ではもうほとんど発生することのない
「交通スト」の日でした。

いわゆる春闘での妥結に至らず、
労働者側が職場をボイコットする、
ごくごく簡単に言えばそんなことです。
(そんな簡単なものじゃない!というご指摘は置いておいて(^^;))
公共交通と言われる鉄道でさえ、
半日から二日間程度、運休することもあったのですね。

労働者は労働条件、雇用条件、賃金アップ(ベア)など
種々の条件を使用者側に迫るわけですが、
もちろん今でも春闘はあるものの、
労働者が職場をボイコットするなどという強硬策をとれた時代が
良かったのか悪かったのか、それはわかりません。

と、“スト”のお話ではなかった…(^^;)


そう、その交通ストで学校が休校になった日のことです。

Sさんとは、フォークソング部という部活が一緒。
それまで、お互いに気にはなっていた(多分(^^;))ものの
彼女は、中学校時代の彼氏がいる、だとか、
ワタシがやっていたバンドのメンバーとデートしたとか、
ワタシはワタシで「誰それさんが好きだ」とか言っていながら、
実はSさんがとっても気になっていた、
つまり、気が合って、ケンカしたり、ふざけたり、
フツーに仲のいい異性の友達だったンですね。

そんなワタシとSさん、交通ストの日に
ただただ公園で長々とおしゃべりをしたのです。
代田(だいた)二丁目に住んでいたワタシが
下馬(しもうま)一丁目の彼女の家の方まで
電車が動いていないので自転車で出かけ、
彼女の家の近くの世田谷公園で昼過ぎから夕方まで。

春の良いお天気の日だったことを憶えています。

高校三年生の春、
公園で、
手をつないだり、イチャついたりすることなく、
そしてベンチに並んで座るわけでもなく、
ただ、手すりにもたれて、
フツーにおしゃべりしていた、ふたり。
うーん、青春でした。

夕焼けに空が染まる頃、
 「じゃあね」
 「うん、気をつけてね、ありがとう。」
と別れたのでした。

帰り道も自転車を飛ばしながら、
「やったーッ」ってな感じもなく、
いつもどおりでした。
そりゃ、憧れていたマドンナと初めて話した、
なんてことじゃありませんからね。

ただ、
それまでは“つきあう”なんて
具体的な気持ちまでいっていませんでしたが、
きっと…いや、
確かにこの日をきっかけに
あらためてSさんと心が急接近したと思っています。

そして、5月、6月、7月と
二人は、どんどん恋に落ちていくのでした。ヒューヒュー!
もちろん、青春時代の淡い恋からですが。

春になると、彼女の誕生日のこと、
そして、この日のことを思い出します。
(“交通スト”も含め)

自分も彼女も、
もしかしたら一番ステキな頃だったかもしれません。


昭和44年4月4日

2017-04-04 21:17:48 | あの日、あの時、あの場所で

もしかしたら、以前にも書いたかもしれません(^^;)

もう、いつ何を書いたか、
そして過去に書いたことがある記事なのか、
忘却の彼方です。
自分のブログを検索して探すのも億劫になっちゃって…。


そうそう昭和44年4月4日のこと。
今年平成29年は昭和にすると92年ですので、
48年前のことですな。
ちなみに西暦1969年の年です。

しかし、この「××にすると…」とか「〇〇で言うと…」とかって
歳をとればとるほど、そんな例えが増えるような気がします。
特に「学年で言うと何学年違い?」なんてのはよくあるヤツです。

まあ、「1ドル=¥360」を知っている世代ッスからね(^^;)
仕方のないことです…。

閑話休題。

そう、その4並びの日。
ワタシは8歳。学年で言うと(出た!)、
三年生になる前の春休みです。
ちなみに兄は中学校入学前の春休みってことですね。

この日は、今ではもうない後楽園ホールに
父と兄と三人でプロレスを見に行きました。
そう、その頃よくプロレスを見に出かけていたのです。
なぜプロレス?
うーん、父が好きだったのでしょうか?
それとも安く観覧する手段があったとか?
そこは今もって謎です。
いずれにしても8歳のワタシは、
 「プロレス見に行くぞ」
 「わーい(*^-^*)」
だったのでしょうけどね。

その頃、結構「日本プロレス」を見に行ってた記憶があります。
ジャイアント馬場、アントニオ猪木、山本小鉄、吉村道明、
大木金太郎、星野勘太郎、若手時代の坂口征二などなど
まあ、往年のプロレスファンにとってはプロレス界が分裂する前の
黄金時代だったのかもしれません。
ってか、ワタシはその頃しか知らないのですけど(^^;)

またまた閑話休題。

で、この昭和44年4月4日をなぜ憶えているか、というと。

この日の帰り道の切符を持っているからです。
どういう経路だったか地下鉄で新宿まで出て、
そこから家のあった下北沢駅まで小田急線。
新宿から下北沢まで大人¥20区間でしたので、小人は¥10(!)


現在は¥160の区間ですので、8倍になっています。
まあ、そもそも今の人たちには¥20で電車に乗れるってのが
不思議な感覚でもあるでしょうね。

なぜ、手元にあるかというと、
父が「同じ数字が並んで珍しいからもらっていこう」
と言った記憶があって、
それを数十年、ワタシ、捨てずにいたのですな。

その後も55年5月5日とか、
平成11年11月11日とか、
ゾロ目の日があって、
そんな日の切符も持っているかもしれませんが、
この"プロレスに行った"、"44年4月4日"以外は
印象にないンですよ。

まあ、こんな"どうでもいいコレクション"も
そろそろ捨てていかねばならない、
終活のお年頃に突入していくのですが…。