1978年5月と6月。
高校3年の時のことです。
5月に、これ以上ないという恥をかき、
6月に、これ以上ないという栄誉を抱き、
忘れようにも忘れられない、春から夏。
まずは、前編。
その5月のこと。
少々長くなりますが、
おつきあいください
16日から19日まで、
広島、出雲、鳥取、姫路という
山陽と山陰を周る行程で
修学旅行がありました。
出発当日。
たしか朝7時15分だか、7時半だかに
東京駅に集合し、新幹線に乗って、
楽しい修学旅行が始まるのでした。
結論から言いましょう!
集合に遅刻したのだ。
いや、遅刻なんてものではないです。
いいですか?大切なところですよ。
集合場所からの
先生からの電話で
母も私も目を覚ましたのです。
どんな親子だよッ!。
あー、恥ずかしッ!!(>_<)
先生にしてみたら、
集合時刻がやってきて、
点呼をとった、と。
そこで、一人来てないヤツがいる、と。
ま、普段ちゃんと学校に来ているヤツだし、
何かで遅れているのだろうが、
“一応”電話して、ちゃんと家を出たか、
親に確認しよう、ってなモンですな。
そしたら、
家を出たどころか、
親が、
「まだ家にいます(-_-;)」
って、
いったい、どういうことですか?
状態だったと思います。
前代未聞でしょう。
担任の先生は、
無情にも(当然じゃ!)、
「もう新幹線に乗りますので、また後ほど連絡します」
と言って電話を切ったようです。
寝ぼけた親子はどうしたでしょう…。
ドタバタだったでしょうね。
まったく記憶にありませんが。
とにかく母は、ワタシに、
「行きたいか?」
を聞き、
ワタシも“行けるのかどうか”、
わからないまま、
「行きたい」
と答えていたと思います。
母も、出来る限りのことをしてくれました。
新幹線車中に電話し(列車電話)、
先生と交渉です。
こんなやりとりだったと思います。
母 「一人で追いかけて行かせます」
先生 「保護者が一緒じゃないとダメです」
母 「兄ではダメですか」
先生 「親御さんじゃないと困ります」
母 「また電話します」
母も逡巡したことでしょう。
今でも感謝しているのは、
ここで母が決断したことです。
“起きない息子が悪いのではなく、
起こしてあげなかった私が悪い”のだから、
『私が一緒に行こう』、と。
いやいや、自分で起きろよ、俺ってば!
新幹線の先生に、
再度、電話します。
母 「私がついていきます!」
そこからの行動や母との会話も
ほとんど憶えていません。
とにかく、
大急ぎで支度をし、
二人で東京駅に向かい、
二人で新幹線に乗って広島に着きました。
同級生たちは予定通りに宮島を回り、
夕方に宿舎に入りますので、
その宿舎のホテル(広島東急イン)で
待ち受けて合流するのです。
ホントに、その間、
母と二人、何を会話したかさえ、
忘れてしまっています。
憶えているのは、
広島駅の北口(新幹線口?)の
みやげ物屋さんが並ぶコンコースで、
母が、
「もみじ饅頭買って帰ろう(*^_^*)」
と言ってたことくらいです。
ホントにどうしてたんだろ?
喫茶店でも入ったのかしらん?
あと、
ホテルのエントランスで、
バスから降りてくる同級生の視線にさらされながら、
(でも、みんな『何やってんだよぉ』と笑ってた)
先生に挨拶していた母の姿くらいです。
私は、そこで、そのまま同級生に合流。
ごくフツーにワタシの修学旅行は、
ここから始まりました。
宮島での集合写真には
トーゼン写っていませんが(^_^;))
クラスメイトたちも、
私が遅刻したからといって、
何ら変ることもなく、
ホントにフツーに修学旅行を終えられました。
感謝、感謝です。
さて、
私が修学旅行に合流したあと、
母はどうしたか…。
『一人で旅行することなどないから』と、
同じホテルに一人で泊まり、
何だかおいしい外食などもしてたようです。
先生方が集まる部屋に
誘われたりしたらしいですが、
それは、気まずいからかお断りし、
翌日のお昼頃には、
一人で新幹線で帰ったのでしょう。
母にとっても、
私にとっても、
一世一代の珍道中でした。
息子を連れて行ってやろうという決断。
新幹線の列車電話で先生を呼び出したり、
一人でホテルに泊まったり。
その何年か後、
母が亡くなる前に、
この時の話をしましたが、
「思いがけない旅行をさせてもらっちゃったわ(*^_^*)」
と言ってました。
そう、こう思ってくれていたおかげで、
私が心に負担を負うことは
最後までありませんでした。
もちろん、今でも。
私と母にとっては、
実は、
“笑っちゃうけど、いい想い出”
だったのですから。
もちろん、
“事件”としては、赤っ恥ですよ(^_^;)
これが5月のことでした。
後編へつづく。
…いつになることやら(^_^;)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます