1934年(昭和9年)アメリカンフットボールが日本に紹介されて今年で78年になります。戦前は約11年位で、残り67年間が戦後ということのなりますが、数少ない戦前のOBの1人として当時の思い出を書いてみたいと思います。
私がアメリカンフットボール部(戦前は米式蹴球部)に入部した動機ですが(昭和12年立教大学予科入学)、中学時代(府立六中)は体操部にいたので、立教大学にも当然体操部があると思っていました。ところが残念ながら体操部がなかったのです。当時立教大学は全校で1500名ほどの学生しかおらず、しかも六大学に所属している為、運動部は他の大学と同じ程度あるので、1年に入学すると各部が部員の獲得に大あらわな有様で、どの部にも入ってない学生がいると、上級生が入部の勧誘に来る。 ところがたまたまバレー部のキャプテンが私の中学の先輩とやらで当然入部を勧めにきました。キャプテンは学部の3年生で「どう君、バレー部に入らないか、私は君の中学の先輩だから面倒を見るよ」と言われましたが、バレー部に入る気はない、しかし、何かの部に入ってないと断ることが出来ないので、たまたま私の兄と中学で同級生であったという人がアメリカンフットボール部の上級生で、「うちの部に来ないか?」といわれましたが当時私はアメリカンフットボールなんて全く知りませんでしたので、どんなスポーツかを見に練習グランドに誘われました。なんだか解らないけれど大変勇ましいスポーツなので、バレー部に入るよりはましだと考えてその場でアメリカンフットボール部に入部しました。
ところが入部してみるとコーチしてくれる先輩は二世が多く、日本語より英語のほうが達者なのでなかなか理解できずに苦労したものです。また、試合となるとなにせ立教は部員数が少ないのでフル出場でひどい時にはゲーム中に捻挫してハーフタイムにバンテージで固定したのですが自分の靴が履けず、片足だけ一回り大きい他の部員の靴を借りて出場した事もあり、ゲームが終わってみたら足首は内出血で紫色にはれていた次第でした。また、当時の防具は大変にお粗末で皮の下にフエルトが張ってあるのですが汗がびっしょり、乾くまもなく翌日練習でまた汗が付く、そんなことの繰り返しでショルダーもヒップも臭いことこの上なかった。現在の防具は素晴らしく、特にスパイクは立派になったと思います。当時我々はスパイクには大変泣かされたものです。クリーツは皮を積み重ねて靴の底に釘で打ちつけただけなので、ゲームの途中で取れてしまって大変困ることがしばしばありました。
その後、私は軍隊に招集され軍役3年、そして、シベリアに抑留されて4年間を過ごし昭和24年に帰国いたしました。その厳しい抑留生活の間、フットボールをやって身体を鍛えていたお陰で病気もせず元気でこられたと思い、フットボールに感謝、昭和29年より審判部に入り頑張ってきました。今後も益々発展してゆくアメリカンフットボールのために生ある限り微力を尽くして行きたいと思います。 安藤信和
※事務局より: 安藤氏は平成16年アメリカンフットボール功労者として「日本アメリカンフットボール協会殿堂入り」をされています。
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