弁護士ふくふくの今日が出発点

難病がきっかけで始めましたが、今は、出会いを求めて書いてます。足跡歓迎です。但し、ハンドルネームでお願いします。

入院になった

2008-10-15 23:47:40 | 日記
広島漢方で何とか良い方向にと願ってこの2ヶ月半頑張ってきました。最初、少し良くなりましたが、その後、改善が見られず、結局、1週間後に入院することになりました。 とにかく炎症を一旦なくす必要があるということで、入院して、白血球除去療法やあるいはステロイド投与等も行うことになりました。また、下血が増える中で、7月頃できた肛門のイボ(痔)もこの際、タイミングを見て、手術することになりました。 またも入院ということで、後退ではありますが、一旦後退してその後の前進の体制を整えるということです。 きちんとした治療を受けることができるということは幸せなことと思います。

入院体験談(⑥三回目の入院)

2008-10-13 08:44:51 | 入院体験談

  2007年11月15日、三度目の入院となりました。

   この日は、重要な仕事が入っていました。当時、担当している国選刑事弁護事件がありました。事件は、強盗事件であり、しかも、被告人は暴力団員ということで、その1ヶ月ほど前、新聞を見て、「大変な事件だなあ」と思っていたところ、その事件の弁護が私にたまたま回ってきました。 国選弁護事件はその事件に民事関係の代理等で関わっている等特別なことがない限り、裁判所からの依頼を拒否することはできません。体調のこともあり、正直あまり気乗りがしませんでしたが引き受けました。

 実際に警察署に拘禁されている被告人と面会してみると、新聞報道の凶悪な印象とはかなり違って(行なった犯行は凶悪ですが)、まだ若く、前科も少なく、暴力団との関係も実質的に切れており、仕事をまじめにしていた時期もあり、無口ながら素直でやり直しの意欲もかなりあるのがわかりました。また、年老いた両親もわが子を何とか立ち直らせたいと必死でした。

  そのような状況から、何とか執行猶予によって刑務所行きを回避できないものかと考え、それまでこのような被告人の就職を何回かお願いしたことのある土木関係の会社に住み込みでの就職をお願いしていたところでした。就職先が決まっているということは、それだけ、経済的、社会的に、そして被告人の心理面でも安定した生活のめどがあるということで、裁判所が刑罰を決める際、特に執行猶予を付けるかどうかを判断する際に、大きな意味を持ちます。

  その会社も就職の受け入れを前向きに検討してくれるということになり、この入院の日である11月15日に、両親とともに、自動車で一時間弱のその会社に行って、社長と面談し、事件内容や被告人の経歴や人柄等を直接説明し、そして何より両親の必死さを見てもらって最終的な就職の承諾をもらうつもりでした。このようないわば犯罪者の就職、まして凶悪犯の就職は、紹介する弁護士に対する信頼があってうまくいくものですから、私が顔を出さないわけには行きません。

  それで、何とかこれだけはやらなければと思ってキャンセルせずにいましたが、発熱等で前日になって遂に断念せざるを得なくなりました。なお、この仕事は別の弁護士が弁護人について引き継いでもらうことになりました。

 こうして、11月15日に、「まさか入院になることはあるまい」と淡い期待をしつつ、ふうふう言いながら病院に行ったところ、そのまま入院ということになったのです。

 医師から「入院ですね」と告げられ、「あー、どうしょう、また事務所の他の弁護士や事務員を始め、いろいろな人に迷惑をかけてしまう。」という重い気持ちと、「これで、これ以上無理をしなくてすむ」というホッとした気持ちとが交錯し、外来待合室のベッドで点滴を受けながら、体の力がすーっと抜けていくのを感じました。

 (以下、次号につづく)


入院体験談(⑤春から秋へ)

2008-10-11 07:57:43 | 入院体験談

 2007年5月31日の退院でしたが、3月中旬から途中4日ほどを除き、ずっと入院の生活でした。季節は冬の終わりから、初夏になっていました。

 5月31日に退院した後、6月は丸一ヶ月仕事を休み、自宅でじっと療養しました。今度は自転車には乗りませんでした。7月は、午前中だけ出勤し、少しずつ仕事の時間を元に戻していきました。9月には、便の調子も良く、全く病気を感じないようになりました。遅れた仕事を取り戻そうと、少しずつ、無理をするようになりました。

 10月になると、弁護団の一員として担当している中国人強制連行事件の裁判があり、中国の弁護士が来ました。

 この中国人強制連行事件は、1995年以降、全国各地10数箇所で裁判を行っているもので、第二次世界大戦の終戦間際に、出兵等で不足した国内産業(炭鉱、鉱山等)の労働力不足を補うため、日本政府と三井、三菱等の企業が侵略先の中国から、約4万人もの中国人を銃剣を突きつけて拉致して、日本まで連行し、残酷な奴隷的労働をさせた(その内約7千人が死亡)というものです。

 既に60数年が経過し、当時、被連行者の中で最も若かった十代、二十代の人たちが生存しているだけですが、これらの人やその遺族が原告となって、日本(国)と関係する企業を被告として損害賠償をしている裁判です。

 北朝鮮による拉致事件と単純に比較はできませんが、突然拉致され家族と引き裂かれることになった本人と家族の苦しみ、悲しみは異なることはありません。私も、この裁判に関わって、初めて日本が行った侵略戦争の非道さ、残酷さを実感しましたが、それまでは戦争は全く過去の出来事でした。二度とこのようなことを起こしたくない、きちんと事実を認め謝罪をした上で、アジアの人々と友好関係を築いていきたいという気持ちで多くの支援者や弁護士がこの裁判に取り組んでおり、私もその一人です。

 少し話がそれましたが、この事件の裁判を当地で始めることになり、準備に入った約5年前、中国の弁護士や関係者との連絡で必ず中国語が必要になると考え、中国語会話の勉強を始めました。少し会話や読み書きができるようになり、中国の弁護士との連絡や文書の翻訳、来日の場合の簡単な通訳等が私の仕事になっていました。

 こうして、10月になって中国弁護士が来日した際、数日間、終日同行したり、裁判提出書類の翻訳をしたり等、結構ハードな毎日になりました。自分にしかできない仕事とはりきりすぎました。そのころから少し下痢ぎみになって行き、11月の始めには久しぶりに下血しました。

 仕事の方も、忙しさにはまってくると、急にブレーキはかけられず、入院の数日前から発熱が始まり、それでも、やりかけの仕事は中々キャンセルしにくく、11月15日、どうにか仕事をキャンセルして病院に行きそのまま入院となりました。

 今思えば、この頃、思い切って仕事を完全に休んで療養する等、潰瘍性大腸炎の再燃に対して慎重に対応していれば、こんなにも重症にはならなかったのではないかと、病気についての無理解を大変後悔しました。病気を他人まかせ、医者まかせにしてはいけないと実感しました。

 冬の終わりに入院し、初夏に退院し、療養の夏が過ぎて、秋に三度目の入院となり、季節の推移を病気と重ねて感じる一年となりました。生まれて、初めての体験でした。

 (以下、次号につづく)


お尻が痛い

2008-10-07 17:21:21 | 日記
仕事を休んで、あと1週間で3ヶ月になる。 広島漢方という「期待の星」といえる漢方薬を使って、8月頃の最悪状態克服できた。しかし、その後、極端に悪くなることはないが、あまり良くもならない。この2、3日は、起きている間はずっとお尻がひりひり、ジーンという感じで、解放されるのは、眠りについたときだけ。就寝直前、漢方薬を注腸(液をお尻から入れる)しているが、直腸がじりじりと焼けるようで、トイレを我慢するのは30分か40分。24時間、トイレやお尻から意識が離れない。 もう少し痛みがひくと、いいのだが。我慢、我慢。 仕事ができるようになるのは、ずーっと先かな。

入院体験談(④「強制送還」)

2008-10-03 22:14:30 | 入院体験談

(2007年)3月30日に退院した私は、これで病気は終わったという気持ちになりました。入院中もどこか痛いわけでもなく、久しぶりに2週間の休養が取れたというくらいの感じで、入院はちょっとおおげさだったのではないかと思ったくらいでした。 

 それで、退院したその日、久しぶりに解放された気分になり、春の香りが気持ちよく、自宅の周りを自転車に乗って1キロメートルくらいではないかと思うのですが、ぶらぶらしたのです。ちょっとした坂も自転車をおりることなく元気に(?)登りきりました。(あとで、思うと、何とばかなことをしたんだろうと思うのですが)  

 ところが、翌朝、全身筋肉痛で痛く体も重いような感じがありました。少しずつ良くなるだろうと思っていたら、翌日になっても、全く快復する様子がなく、体も熱っぽくなり、これはまずいということになりました。その後、2、3日、体は全く快復せず、全身が疲労したまま、熱が高くなり、妻に進められて、病院に行き、そのあと、久しぶりに事務所に出て少し仕事をしました。 

 しかし、その翌日、ますます体は重く、筋肉疲労の固まりのようになり、熱も38度を越え、二日連続で病院に行き、そのまま入院となりました。入院直後、熱が39度くらいまで上がり、高熱からくる激しい頭痛もあり、なぜか歯茎がずきずきと痛みダウン状態でした。入院した翌日には、腰に全く力が入らず、左足の膝が僅かに曲がった状態で硬直して曲げ伸ばしが全くできない状態でした。この腰と膝の症状で、数日間ベッドから自力で降りられず、夜間生まれて初めて尿瓶というものを使いました。 

 こうした症状と潰瘍性大腸炎とがどう関係するのか今でもわかりません。ただ、直感的には、最初の入院のときから使っていたペンタサが原因ではなかろうかと思いました。普通なら、疲労があれば、それを快復させる力が人間には内在しているのですが、ペンタサがその快復させる力を完全に阻害しているのではないかと(なお、これは全くの私見です)。  

 その後、ようやく熱も下がり、腰や膝も良くなったのですが、やめていたペンタサを再開すると、すぐに歯茎が痛み始め、痛みが鼻の方へ、そして眉間の少し下まで移って行き良くならないので、ペンタサをやめてみたところこれらの症状がスーッと消えました。さらにその後、ペンタサに挑戦しましたが、激しい肩こりがどうしても治らず、ペンタサをやめるとスーット治るということがあり、ペンタサは自分とは相性が悪いということで、使わないことになりました。

 なお、本体の潰瘍性大腸炎については、内視鏡の結果、以前よりも直腸付近で潰瘍がひどくなっているのがわかりました。もともと出血はそれほどではなかったのですが、その後ステロイドでほとんど出血もなくなり5月末日で退院となりました。

 最初の高熱による頭痛以外は、激しい歯茎等の痛み(さらに、鼻から眉間の下までの痛み)、腰や膝の硬直等、大腸とは直接関係のない症状が中心の入院でしたが、これらは潰瘍性大腸炎の合併症なのかもしれませんが、むしろペンタサの副作用ではないかという印象を持っています。

 5月31日、ヤレヤレという気持ちで退院しました。


入院体験談(③「初めての注腸」)

2008-10-02 14:54:46 | 入院体験談

 2007年1月になると、便に血が混じるようになり、病院嫌いの私も、妻の強い勧めで市内の民間病院で診察を受けました。潰瘍性大腸炎と診断されました。もちろんはじめて聞く病名で、「胃潰瘍の大腸版」かなと、誰もが思いそうなことを思い、それとともにガンでなくて良かったとほっとしました。

 初めて、お尻からカメラ(内視鏡)を入れて大腸の中をすみずみまで検査してもらいましたが、直腸付近に潰瘍や炎症があるだけで、軽症の部類でした。

 医師からは、「この病気は、難病に指定されており、完治しない病気です」等といった説明を受けました。少しの血便があるほかは、熱も痛みもなく、自分としては入院の必要も感じない状態でしたので、あまりピンと来ませんでした。

 3月16日、検査も兼ねて入院しました。入院中は、毎日ペンタサというこの病気で最もよく用いられる薬を注腸し(お尻から浣腸で薬液を入れる)、退院間際は血便もなくなりました。注腸は、数十CCくらいの薬液を1、2分かかってお尻から直腸にいれるのですが、その間はお尻を出したままです。自分一人で出来る人もいるようですが、少量ずつ入れないとすぐに便意が来て、薬を排出してしまうことになり無意味になるので、一人では難しいのです。このような経験がないため、最初は若い看護士さんにお尻を見られるのが、何とも恥ずかしく、しかも、毎日、かわるがわる違った看護士さんが来るのもこれまた………。数少ない男性看護士さんの時もありましたが、これはこれでなんだか恥ずかしいものです。

 約2週間の入院の後、3月30日に退院しましたが、数日休んで出勤を開始する予定でした。退院によって、この病気のことは「全て終了」といった感じで、遅れた仕事のことを考えていました。

 ところが、あろうことか、その2日後には熱が出て、4月4日には高熱で、再入院になってしまうのでした。

 この病気になって、現在までの間、「これで治ったはず」のところが、直らないどころかもっと悪くなるといった、自分からするといわば「誤算」を何度も繰り返しながら、だんだんと深みにはまっていきました。この4月の再入院こそがその誤算の始まりでした。

(以下、次号につづく)


入院体験談(②「病院に行くのが怖かった」)

2008-10-01 10:08:51 | 入院体験談

 これまで、病気は時間がたてば必ず直るものと思っていた。今度ばかりは全然違う。期待や予想に反して、悪い方、悪い方へと進む。下血が入院以降40日も止まらないばかりか、この数時間の合計で600CCから700CCくらいの多量となり、貧血により気を失うところまで来た。病状は相当まずい。この先、一体どうなっていくのだろうか?看護婦さんに手助けをしてもらいながらパジャマや下着を脱いで、ストレッチャーに乗り、おむつをしてもらい、病室まで運んでもらった。

 下血したり、下着を脱いだり等恥かしいことであるが、羞恥心を感じる余力もない。時間がスローモーションのようにゆっくりと流れ、ある時はほとんど静止画像のようだ。

(2) 2006年の後半、腸の調子が悪く、便に粘液が付いたり、下痢になったりすることが続きました。思えば、このような状態は、その3、4年前から何回かありましたが、その都度完全に良くなっていたため、病院には行っていませんでした。気にはなったが、時間もないし、何より病院に行くのが怖かったというのが正直なところです。

 1987年に弁護士の仕事を始めて、丁度20年目に入り、事務所は自分を含めて弁護士3人と事務員9名と、地方としては大世帯になりました。仕事量も責任も重くなり、入院や手術等で仕事が中断することなど、「あってはならないこと」でした。

(次号につづく)