弁護士ふくふくの今日が出発点

難病がきっかけで始めましたが、今は、出会いを求めて書いてます。足跡歓迎です。但し、ハンドルネームでお願いします。

入院体験談(⑤春から秋へ)

2008-10-11 07:57:43 | 入院体験談

 2007年5月31日の退院でしたが、3月中旬から途中4日ほどを除き、ずっと入院の生活でした。季節は冬の終わりから、初夏になっていました。

 5月31日に退院した後、6月は丸一ヶ月仕事を休み、自宅でじっと療養しました。今度は自転車には乗りませんでした。7月は、午前中だけ出勤し、少しずつ仕事の時間を元に戻していきました。9月には、便の調子も良く、全く病気を感じないようになりました。遅れた仕事を取り戻そうと、少しずつ、無理をするようになりました。

 10月になると、弁護団の一員として担当している中国人強制連行事件の裁判があり、中国の弁護士が来ました。

 この中国人強制連行事件は、1995年以降、全国各地10数箇所で裁判を行っているもので、第二次世界大戦の終戦間際に、出兵等で不足した国内産業(炭鉱、鉱山等)の労働力不足を補うため、日本政府と三井、三菱等の企業が侵略先の中国から、約4万人もの中国人を銃剣を突きつけて拉致して、日本まで連行し、残酷な奴隷的労働をさせた(その内約7千人が死亡)というものです。

 既に60数年が経過し、当時、被連行者の中で最も若かった十代、二十代の人たちが生存しているだけですが、これらの人やその遺族が原告となって、日本(国)と関係する企業を被告として損害賠償をしている裁判です。

 北朝鮮による拉致事件と単純に比較はできませんが、突然拉致され家族と引き裂かれることになった本人と家族の苦しみ、悲しみは異なることはありません。私も、この裁判に関わって、初めて日本が行った侵略戦争の非道さ、残酷さを実感しましたが、それまでは戦争は全く過去の出来事でした。二度とこのようなことを起こしたくない、きちんと事実を認め謝罪をした上で、アジアの人々と友好関係を築いていきたいという気持ちで多くの支援者や弁護士がこの裁判に取り組んでおり、私もその一人です。

 少し話がそれましたが、この事件の裁判を当地で始めることになり、準備に入った約5年前、中国の弁護士や関係者との連絡で必ず中国語が必要になると考え、中国語会話の勉強を始めました。少し会話や読み書きができるようになり、中国の弁護士との連絡や文書の翻訳、来日の場合の簡単な通訳等が私の仕事になっていました。

 こうして、10月になって中国弁護士が来日した際、数日間、終日同行したり、裁判提出書類の翻訳をしたり等、結構ハードな毎日になりました。自分にしかできない仕事とはりきりすぎました。そのころから少し下痢ぎみになって行き、11月の始めには久しぶりに下血しました。

 仕事の方も、忙しさにはまってくると、急にブレーキはかけられず、入院の数日前から発熱が始まり、それでも、やりかけの仕事は中々キャンセルしにくく、11月15日、どうにか仕事をキャンセルして病院に行きそのまま入院となりました。

 今思えば、この頃、思い切って仕事を完全に休んで療養する等、潰瘍性大腸炎の再燃に対して慎重に対応していれば、こんなにも重症にはならなかったのではないかと、病気についての無理解を大変後悔しました。病気を他人まかせ、医者まかせにしてはいけないと実感しました。

 冬の終わりに入院し、初夏に退院し、療養の夏が過ぎて、秋に三度目の入院となり、季節の推移を病気と重ねて感じる一年となりました。生まれて、初めての体験でした。

 (以下、次号につづく)