弁護士ふくふくの今日が出発点

難病がきっかけで始めましたが、今は、出会いを求めて書いてます。足跡歓迎です。但し、ハンドルネームでお願いします。

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入院体験談(⑩最終、余談)

2009-02-01 14:52:29 | 入院体験談

 最後に、周りの人たちのこと等。2ヵ月半の入院中、家族はもちろん、職場の人、仕事関係、同級生、親戚、いろいろな人が見舞いに来てくれ、大変励まされました。今まで、あまり使っていなかった携帯電話のメールを使って、病気や入院生活の報告をたくさんの人にして、また、たくさんのメールを毎日のようにいただき、かえって、それまで以上の関係ができました。メールが大きな励みでした。

 そして、何よりも看護師や職員のみなさんと医師のみなさん。雰囲気も暖かく、本当に親身になって世話をしていただきました。特に医師については3名でグループを組んで担当していただき、3人の先生とも、当初は毎日のように、その後もこまめに病室に来ていただきました。対応も集団的に検討されているようで、説明も丁寧でした。また、どの先生も謙虚で上から患者を見るようなところがなく、自分の弁護士としての仕事や事務所のあり方としてもこうありたいと思いました。

 私は、仕事柄、事実をできるだけ客観的に、正確に把握することの重要性を意識しているので、便(下血)の時間や内容等も詳細に記録し、毎回、デジカメで便を撮影、保存し、病院のパソコンに移して看護師や医師に見ていただく等もしました。冒頭の失神後の下血の際トイレ床に流れ出た下血も撮影しました(「普通、そこまでやるか……?」との声)。ただ、デジカメ持参でトイレに行くのは、普通ちょっと怪しいですけど。

 心身ともに辛い入院生活でしたが、上に書きましたメールのやり取りをしたり、ポータブルDVDで「チュモン」という韓国ドラマ(全部で80時間くらいの長編)を見たり、患者会のニュースを見たり、韓国語の勉強を始めたり、料理に興味が湧いて料理のテレビや雑誌を見たり等、前向きに取組むことで何とか、乗り切ることができました。展望が見えず、後悔と不安で思わす涙がこぼれたこともありましたが、今となっては、貴重な体験で(と言っても、二度と味わいたくないですが)、これも全て周りの方々のお陰と感謝しています。

 1月24日には、70日ぶりに、点滴の拘束からも開放され、2月1日に退院しました。いつも点滴に縛られ、点滴のスタンドを押しながら歩く姿がすっかり定着していたため、何もつけずに廊下を歩くと、多くの看護師さんや患者さんからも、「あれっ?どうしたの、何か変……?」と言われました。

 4月1日から、午前中だけ事務所に出始めましたが、しばらくは事務所の中だけでの仕事に限定する計画です。事務所も残った人たちが一生懸命支えてくれました。治療に専念できたのも、事務所のみんなのお陰であり、少しずつ体制を建て直して、必ず恩返しをしていきたいと思っています。妻については、家を支えながら、ずっと見舞いに来て励まし続けてくれ、あらためて有難さを実感しました。これまで、妻が病院に行けと言っても聞かず、健康に気をつけてと言っても、無理をして仕事や付き合いで遅くなったり、飲食が過ぎたり、家の仕事や子育ても妻まかせだった事等、毎日の入院生活の中で反省の数々が頭に浮かんで来ました。

 家族全員がいい人生が送れるように、これまで以上に、妻やこどもともしっかり関わりたいと思うようになりました。大学病院で難病や重病の患者さんたちとも友達になり、病気、病人(患者)、医療ということについて、初めて我が身のこととして考えるようになりました。  

 以上、自分の人生と人生観を変えるような重大かつ貴重な体験でしたので、「入院体験談」としてまとめてみました。

(後日談)なお、以上の原稿の大筋は2008年2月1日の退院後しばらくして書き始め、原稿完成当時の5月頃は、しばらくの間、病状も落ち着き、平穏な日々が続くだろうと思っていました。ところが、その頃から、僅かずつですが再び病状が悪化し始め、7月中旬から休業(自宅療養)開始、10月入院、11月大腸全摘の緊急手術と、あれよ、あれよ、という間に行き着くところまで行ってしまいました。その後の経過等については、別稿「大腸摘出手術体験談」で書いていきます。

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入院体験談(⑨64日間の絶食から解放)

2009-02-01 14:24:09 | 入院体験談

 2007年12月5日に大学病院に転院してから、大晦日、正月を一時外出により自宅で家族と過ごすことを唯一の希望と励みにしてきましたが、25日と27日の大量下血で、夢ははかなく破れました。52年の人生の中で初めて年末年始を病院で過ごしました。しかも絶食。

  しかし、元旦には大阪で就職1年目の長男と、福岡の短大卒業間近の長女が帰省し、高校と中学の息子も含め、4人の子ども全員と妻と病院で顔合わせが出来ました。記念写真を撮るなど、かえって例年よりも思い出深い正月になりました。家族は側にいてくれるだけで、嬉しくて励みになります。

  クリップ施術以降、出血が完全に治まり、1月7日からエレンタール(総合栄養剤)の飲用が許され、1月19日には、64日ぶりに口からの食事が許されました。重湯と薄い澄し汁でしたが、一滴残らず体に染み込んでいくようで、一旦弱まった生命が見る見る復活していくという実感がありました。これまで食べたどんなご馳走よりも美味しく、将来も含め恐らく一生の中で最高のものと思います。美味しいという以上の高次元のものでした。この感激を味わえたことだけは病気に感謝したいです。

  食堂で顔を合わせていた患者の人たちも、私の絶食が解けたことをわが事のように喜んでくれました。絶食中の2ヶ月間は、出血に対する恐怖心から、薬を飲むのにも、せいぜい10か20CCくらいの水をちびちびとしか飲めない状態でした。しかし、食欲を我慢するのがきつく、妻に匂いの強いパンやおかず、お菓子等を買ってきてもらって、何時間かおきに匂いを嗅いでいました。ちょっと惨めで、みっともないと思いながら。また、毎日3回の粉薬(整腸剤のミヤBM)の普通は味気ない粉が唯一の食べ物でこれを噛み締めるのがささやかな楽しみの一つでした。これもちょっと惨めな感じ。ただ、この絶食の体験は、当たり前の食事がどれだけ尊いものかを体で教えてくれ、この上ない貴重な体験になりました。今でも、感謝の気持ち一杯で食事をしていますし、恐らく今後もずっとそうでしょう。

(次号に続く)

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入院体験談(⑧2回連続の大量出血)

2009-02-01 13:41:13 | 入院体験談

 冒頭(本体験談の①)の、ストレッチャーで病室に運ばれたあとに話を戻します。ベッドの周りに、医師や看護婦さんが次々とやって来て多いときは、6、7人にもなり、血圧測定、血液検査などを行い、何やかやとしてくれます。それだけでも安心します。ヘモグロビンが「7」に近いところまで低下して貧血がかなり強くなっているということで、輸血を開始するとともに、緊急に内視鏡による止血をすることになりました。

 早朝から妻も呼ばれました。内視鏡により大腸の一番奥付近の潰瘍の傷跡から何ヶ所か出血していることがわかり、その部分を電気で焼き付けて止血する手術がなされました。転院後初めての内視鏡でしたが、新たに発生したような潰瘍はなく、前病院時点での潰瘍の傷跡という説明で、頭では一安心しました。

 この施術のあと、鮮血の出血はなく、これでいい方向に向うと思っていたところ、2日後の12月27日の夕方頃から、再び鮮血の下血が始まりました。「一体どうなっているのだろう?」と不安が強くなります。この時も午後5時から7時ころまでの間、4回、出血量は合計でやはり600から700CCくらいと大量に上りました。再び、妻も呼ばれて緊急の内視鏡検査が行われました。やはり潰瘍の傷跡1ヶ所からの出血が確認されました。小さいけれど動脈性の血管ということで鼓動に伴い、血液が一秒刻みで滲み出てくるのが見えましたので、比較的短時間で大量の下血になったものと思います。この時は、血管に3個、クリップをすることにより出血が止まるのがこの目で確認できました。ちょうどホッチキスでやるようにバチンととめました。

 患者としては、もし、出血が止まらなかったらどうなるのだろうという不安だけで、医師に頼る以外に方法がありません。この時の内視鏡検査も、3、4人の医師が慎重に映像に目をやりながら出血部位の確認と止血措置を整然とやって行き、非常に頼もしく感じ、感謝の気持ちで一杯になりました。

 その後も、また大量下血しないかと不安の日々でしたが、このクリップ施術を最後に鮮血の下血はほぼぴたりと止まり、そのまま一直線に快方に向いました。

(次号に続く) 

 

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入院体験談(⑦大学病院への転院と大量下血)

2009-01-31 23:01:13 | 入院体験談

 2007年11月15日の入院後、ピークの11月18日と19日には、48時間の間に合計40回くらい、つまり夜間も含め1、2時間に1回の割合で、見当で20CCから50CC多いときで100CCくらいの量の、ほぼ鮮血に近い下血がありました。その後も、毎日5、6回程度の下血(鮮血)が続きました。鮮血の下血は初めてで、痛みは強くないのですが、恐怖心が強くなります。

 11月24日頃から、下血中の赤色の割合が少し減り、良くなりかけたのかと思いましたが、28日から、再び鮮血に近い状態になり回数も1日6、7回と少し増え、改善の見通しも不明でした。更に悪化した場合の緊急外科手術のことを考え、2007年12月5日、大学の医学部付属病院に転院しました。 

この大学病院に転院したころは、体力も気力も衰弱し、体重も47キロまで減りました。身長が162センチと低いのですが、2007年の第一回目の入院前は70キロあり(メタボ境界線)、今回の11月の入院時は58キロでしたので、1年間で20キロ以上も痩せました。肉が少なくなって、寝ても、座っても、床に触れるお尻や背中の骨がごつごつと痛く感じる毎日でした。痛いのでベッドに小物でも落ちているのかと思って探してみると何もなく自分の骨とベッドに薄い肉がはさまれているだけということが何度もありました。

 転院後は、ステロイド投薬とエルキャップ療法を行い、血液検査結果では順調に軽快していきました。しかし、出血は、1日4、5回と続き、中身が鮮血であったり、少し茶色になったり、途中、サイトメガロウイルスに感染したり等の経過があり、まさに一喜一憂の毎日でした。

 12月25日の深夜から、下血が悪化し、午前1時、4時、5時半と鮮血の下血があり、その直後冒頭のトイレでの失神に到りました。この数時間の合計下血量は目算で600から700CCくらいになったのではないかと思います。

(次号に続く) 

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入院体験談(⑥三回目の入院)

2008-10-13 08:44:51 | 入院体験談

  2007年11月15日、三度目の入院となりました。

   この日は、重要な仕事が入っていました。当時、担当している国選刑事弁護事件がありました。事件は、強盗事件であり、しかも、被告人は暴力団員ということで、その1ヶ月ほど前、新聞を見て、「大変な事件だなあ」と思っていたところ、その事件の弁護が私にたまたま回ってきました。 国選弁護事件はその事件に民事関係の代理等で関わっている等特別なことがない限り、裁判所からの依頼を拒否することはできません。体調のこともあり、正直あまり気乗りがしませんでしたが引き受けました。

 実際に警察署に拘禁されている被告人と面会してみると、新聞報道の凶悪な印象とはかなり違って(行なった犯行は凶悪ですが)、まだ若く、前科も少なく、暴力団との関係も実質的に切れており、仕事をまじめにしていた時期もあり、無口ながら素直でやり直しの意欲もかなりあるのがわかりました。また、年老いた両親もわが子を何とか立ち直らせたいと必死でした。

  そのような状況から、何とか執行猶予によって刑務所行きを回避できないものかと考え、それまでこのような被告人の就職を何回かお願いしたことのある土木関係の会社に住み込みでの就職をお願いしていたところでした。就職先が決まっているということは、それだけ、経済的、社会的に、そして被告人の心理面でも安定した生活のめどがあるということで、裁判所が刑罰を決める際、特に執行猶予を付けるかどうかを判断する際に、大きな意味を持ちます。

  その会社も就職の受け入れを前向きに検討してくれるということになり、この入院の日である11月15日に、両親とともに、自動車で一時間弱のその会社に行って、社長と面談し、事件内容や被告人の経歴や人柄等を直接説明し、そして何より両親の必死さを見てもらって最終的な就職の承諾をもらうつもりでした。このようないわば犯罪者の就職、まして凶悪犯の就職は、紹介する弁護士に対する信頼があってうまくいくものですから、私が顔を出さないわけには行きません。

  それで、何とかこれだけはやらなければと思ってキャンセルせずにいましたが、発熱等で前日になって遂に断念せざるを得なくなりました。なお、この仕事は別の弁護士が弁護人について引き継いでもらうことになりました。

 こうして、11月15日に、「まさか入院になることはあるまい」と淡い期待をしつつ、ふうふう言いながら病院に行ったところ、そのまま入院ということになったのです。

 医師から「入院ですね」と告げられ、「あー、どうしょう、また事務所の他の弁護士や事務員を始め、いろいろな人に迷惑をかけてしまう。」という重い気持ちと、「これで、これ以上無理をしなくてすむ」というホッとした気持ちとが交錯し、外来待合室のベッドで点滴を受けながら、体の力がすーっと抜けていくのを感じました。

 (以下、次号につづく)

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入院体験談(⑤春から秋へ)

2008-10-11 07:57:43 | 入院体験談

 2007年5月31日の退院でしたが、3月中旬から途中4日ほどを除き、ずっと入院の生活でした。季節は冬の終わりから、初夏になっていました。

 5月31日に退院した後、6月は丸一ヶ月仕事を休み、自宅でじっと療養しました。今度は自転車には乗りませんでした。7月は、午前中だけ出勤し、少しずつ仕事の時間を元に戻していきました。9月には、便の調子も良く、全く病気を感じないようになりました。遅れた仕事を取り戻そうと、少しずつ、無理をするようになりました。

 10月になると、弁護団の一員として担当している中国人強制連行事件の裁判があり、中国の弁護士が来ました。

 この中国人強制連行事件は、1995年以降、全国各地10数箇所で裁判を行っているもので、第二次世界大戦の終戦間際に、出兵等で不足した国内産業(炭鉱、鉱山等)の労働力不足を補うため、日本政府と三井、三菱等の企業が侵略先の中国から、約4万人もの中国人を銃剣を突きつけて拉致して、日本まで連行し、残酷な奴隷的労働をさせた(その内約7千人が死亡)というものです。

 既に60数年が経過し、当時、被連行者の中で最も若かった十代、二十代の人たちが生存しているだけですが、これらの人やその遺族が原告となって、日本(国)と関係する企業を被告として損害賠償をしている裁判です。

 北朝鮮による拉致事件と単純に比較はできませんが、突然拉致され家族と引き裂かれることになった本人と家族の苦しみ、悲しみは異なることはありません。私も、この裁判に関わって、初めて日本が行った侵略戦争の非道さ、残酷さを実感しましたが、それまでは戦争は全く過去の出来事でした。二度とこのようなことを起こしたくない、きちんと事実を認め謝罪をした上で、アジアの人々と友好関係を築いていきたいという気持ちで多くの支援者や弁護士がこの裁判に取り組んでおり、私もその一人です。

 少し話がそれましたが、この事件の裁判を当地で始めることになり、準備に入った約5年前、中国の弁護士や関係者との連絡で必ず中国語が必要になると考え、中国語会話の勉強を始めました。少し会話や読み書きができるようになり、中国の弁護士との連絡や文書の翻訳、来日の場合の簡単な通訳等が私の仕事になっていました。

 こうして、10月になって中国弁護士が来日した際、数日間、終日同行したり、裁判提出書類の翻訳をしたり等、結構ハードな毎日になりました。自分にしかできない仕事とはりきりすぎました。そのころから少し下痢ぎみになって行き、11月の始めには久しぶりに下血しました。

 仕事の方も、忙しさにはまってくると、急にブレーキはかけられず、入院の数日前から発熱が始まり、それでも、やりかけの仕事は中々キャンセルしにくく、11月15日、どうにか仕事をキャンセルして病院に行きそのまま入院となりました。

 今思えば、この頃、思い切って仕事を完全に休んで療養する等、潰瘍性大腸炎の再燃に対して慎重に対応していれば、こんなにも重症にはならなかったのではないかと、病気についての無理解を大変後悔しました。病気を他人まかせ、医者まかせにしてはいけないと実感しました。

 冬の終わりに入院し、初夏に退院し、療養の夏が過ぎて、秋に三度目の入院となり、季節の推移を病気と重ねて感じる一年となりました。生まれて、初めての体験でした。

 (以下、次号につづく)

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入院体験談(④「強制送還」)

2008-10-03 22:14:30 | 入院体験談

(2007年)3月30日に退院した私は、これで病気は終わったという気持ちになりました。入院中もどこか痛いわけでもなく、久しぶりに2週間の休養が取れたというくらいの感じで、入院はちょっとおおげさだったのではないかと思ったくらいでした。 

 それで、退院したその日、久しぶりに解放された気分になり、春の香りが気持ちよく、自宅の周りを自転車に乗って1キロメートルくらいではないかと思うのですが、ぶらぶらしたのです。ちょっとした坂も自転車をおりることなく元気に(?)登りきりました。(あとで、思うと、何とばかなことをしたんだろうと思うのですが)  

 ところが、翌朝、全身筋肉痛で痛く体も重いような感じがありました。少しずつ良くなるだろうと思っていたら、翌日になっても、全く快復する様子がなく、体も熱っぽくなり、これはまずいということになりました。その後、2、3日、体は全く快復せず、全身が疲労したまま、熱が高くなり、妻に進められて、病院に行き、そのあと、久しぶりに事務所に出て少し仕事をしました。 

 しかし、その翌日、ますます体は重く、筋肉疲労の固まりのようになり、熱も38度を越え、二日連続で病院に行き、そのまま入院となりました。入院直後、熱が39度くらいまで上がり、高熱からくる激しい頭痛もあり、なぜか歯茎がずきずきと痛みダウン状態でした。入院した翌日には、腰に全く力が入らず、左足の膝が僅かに曲がった状態で硬直して曲げ伸ばしが全くできない状態でした。この腰と膝の症状で、数日間ベッドから自力で降りられず、夜間生まれて初めて尿瓶というものを使いました。 

 こうした症状と潰瘍性大腸炎とがどう関係するのか今でもわかりません。ただ、直感的には、最初の入院のときから使っていたペンタサが原因ではなかろうかと思いました。普通なら、疲労があれば、それを快復させる力が人間には内在しているのですが、ペンタサがその快復させる力を完全に阻害しているのではないかと(なお、これは全くの私見です)。  

 その後、ようやく熱も下がり、腰や膝も良くなったのですが、やめていたペンタサを再開すると、すぐに歯茎が痛み始め、痛みが鼻の方へ、そして眉間の少し下まで移って行き良くならないので、ペンタサをやめてみたところこれらの症状がスーッと消えました。さらにその後、ペンタサに挑戦しましたが、激しい肩こりがどうしても治らず、ペンタサをやめるとスーット治るということがあり、ペンタサは自分とは相性が悪いということで、使わないことになりました。

 なお、本体の潰瘍性大腸炎については、内視鏡の結果、以前よりも直腸付近で潰瘍がひどくなっているのがわかりました。もともと出血はそれほどではなかったのですが、その後ステロイドでほとんど出血もなくなり5月末日で退院となりました。

 最初の高熱による頭痛以外は、激しい歯茎等の痛み(さらに、鼻から眉間の下までの痛み)、腰や膝の硬直等、大腸とは直接関係のない症状が中心の入院でしたが、これらは潰瘍性大腸炎の合併症なのかもしれませんが、むしろペンタサの副作用ではないかという印象を持っています。

 5月31日、ヤレヤレという気持ちで退院しました。

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入院体験談(③「初めての注腸」)

2008-10-02 14:54:46 | 入院体験談

 2007年1月になると、便に血が混じるようになり、病院嫌いの私も、妻の強い勧めで市内の民間病院で診察を受けました。潰瘍性大腸炎と診断されました。もちろんはじめて聞く病名で、「胃潰瘍の大腸版」かなと、誰もが思いそうなことを思い、それとともにガンでなくて良かったとほっとしました。

 初めて、お尻からカメラ(内視鏡)を入れて大腸の中をすみずみまで検査してもらいましたが、直腸付近に潰瘍や炎症があるだけで、軽症の部類でした。

 医師からは、「この病気は、難病に指定されており、完治しない病気です」等といった説明を受けました。少しの血便があるほかは、熱も痛みもなく、自分としては入院の必要も感じない状態でしたので、あまりピンと来ませんでした。

 3月16日、検査も兼ねて入院しました。入院中は、毎日ペンタサというこの病気で最もよく用いられる薬を注腸し(お尻から浣腸で薬液を入れる)、退院間際は血便もなくなりました。注腸は、数十CCくらいの薬液を1、2分かかってお尻から直腸にいれるのですが、その間はお尻を出したままです。自分一人で出来る人もいるようですが、少量ずつ入れないとすぐに便意が来て、薬を排出してしまうことになり無意味になるので、一人では難しいのです。このような経験がないため、最初は若い看護士さんにお尻を見られるのが、何とも恥ずかしく、しかも、毎日、かわるがわる違った看護士さんが来るのもこれまた………。数少ない男性看護士さんの時もありましたが、これはこれでなんだか恥ずかしいものです。

 約2週間の入院の後、3月30日に退院しましたが、数日休んで出勤を開始する予定でした。退院によって、この病気のことは「全て終了」といった感じで、遅れた仕事のことを考えていました。

 ところが、あろうことか、その2日後には熱が出て、4月4日には高熱で、再入院になってしまうのでした。

 この病気になって、現在までの間、「これで治ったはず」のところが、直らないどころかもっと悪くなるといった、自分からするといわば「誤算」を何度も繰り返しながら、だんだんと深みにはまっていきました。この4月の再入院こそがその誤算の始まりでした。

(以下、次号につづく)

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入院体験談(②「病院に行くのが怖かった」)

2008-10-01 10:08:51 | 入院体験談

 これまで、病気は時間がたてば必ず直るものと思っていた。今度ばかりは全然違う。期待や予想に反して、悪い方、悪い方へと進む。下血が入院以降40日も止まらないばかりか、この数時間の合計で600CCから700CCくらいの多量となり、貧血により気を失うところまで来た。病状は相当まずい。この先、一体どうなっていくのだろうか?看護婦さんに手助けをしてもらいながらパジャマや下着を脱いで、ストレッチャーに乗り、おむつをしてもらい、病室まで運んでもらった。

 下血したり、下着を脱いだり等恥かしいことであるが、羞恥心を感じる余力もない。時間がスローモーションのようにゆっくりと流れ、ある時はほとんど静止画像のようだ。

(2) 2006年の後半、腸の調子が悪く、便に粘液が付いたり、下痢になったりすることが続きました。思えば、このような状態は、その3、4年前から何回かありましたが、その都度完全に良くなっていたため、病院には行っていませんでした。気にはなったが、時間もないし、何より病院に行くのが怖かったというのが正直なところです。

 1987年に弁護士の仕事を始めて、丁度20年目に入り、事務所は自分を含めて弁護士3人と事務員9名と、地方としては大世帯になりました。仕事量も責任も重くなり、入院や手術等で仕事が中断することなど、「あってはならないこと」でした。

(次号につづく)

 

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入院体験談(①「夢じゃなかった」)

2008-09-30 11:07:02 | 入院体験談

 (1)2007年12月25日、午前6時頃、○○○病院5階、内科病棟でのこと。 夢の中(どこかは分からないが、とても安らかで穏やかで、恐怖や苦しみもなくなって幸せな雰囲気につつまれている。あ~、気持ちがいい、こんな平和で幸せな気持ちになったのは久しぶりだ………。ずっとこのままでいい………。) 

  何か声がする。「大丈夫ですか?!」、「大丈夫ですか?!」、その声で目が覚めた。夢を見ていたようだ。一体ここはどこだろう?今、何をしているのだろう………?座り込んでいる自分のすぐ横には便座がある。………ここは車椅子用のトイレの中だ。  思い出した。さっき、看護婦さんに車椅子に乗せて貰って、トイレまで連れてきてもらい、「トイレが終わったら、室内のボタンを押して下さいね」と言われたところだった。それ以降、記憶がないので気を失って夢を見ていたのだろう。看護婦さんも、ボタンによる連絡がないので心配してトイレを見に来て、気を失っている僕を発見したのだろう。

  看護婦さんが4、5人に増えた。ストレッチャーと呼ばれる患者搬送用のベッドも来ている。立ち上がる力もないけど、じっとしているわけにはいかない。ゆっくりと便器の脇に立ち上がってみたが、なぜか、看護婦さんたちも自分に声をかけずにじっと見守っているだけ。また別の夢を見ているようでもある。 

立ち上がると、すぐに下血しそうな感覚になった。パジャマや下着を脱ぐ余力もなく、下血が始まった。液状の血が中心だが、血が大腸の中で固まったと思われる、プリン半分かあるいは3分の1くらいの量のゼリー状の塊も何個か混じって出てきたようだ。全部で200CCから300CCくらいになるのではなかろうか、下着も下血で汚れ、パジャマの裾から流れ出た赤黒い下血がトイレの床に広がった。

 夢の続きではなく、現実のようだ。

 (以下、次号につづく)

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