弁護士ふくふくの今日が出発点

難病がきっかけで始めましたが、今は、出会いを求めて書いてます。足跡歓迎です。但し、ハンドルネームでお願いします。

1年半ぶりの小宴会

2009-03-29 07:22:33 | 日記
 一昨日(3月27日)、中国人強制連行事件の高裁判決があり、そのために、中国山東省からT弁護士がやってきました。この事件の大事な局面では、その度に日本に来ており、今回で10回くらいになります。判決の日は報告集会等の公式行事がありましたが、昨日は、ゆっくりと近くの観光地等をドライブし、夜は、ごく小規模に、主任級のN弁護士とその奥さん、支援者代表、通訳の方、そして私、T弁護士の6人で食事をしました。

 このように仕事関係の宴会に出るのは、潰瘍性大腸炎になってからは少なくなり、特に1年前の入院からは初めてですので、約1年半ぶりで、体調もよくなったので、とても楽しみでした。

 刺身等の生(なま)物は、慎重に考えて、控えましたが、あとはみんなと同じように煮魚等を食べ、T弁護士と中国語での雑談もできて、楽しいひと時を過ごすことができました。入院していたら、こんなんこともできないと思うと、改めて、健康のありがたさを感じました。

 4月には、弁護団で、判決の内容を原告の中国人に直接報告するために、中国に行くことになりましたが、私はそこまではまだ無理でいけません。
 早く全ての手術を終え、元気な体になってT弁護士の家に遊びに行くことを、T弁護士と約束したところでした。

 なお、判決は、1972年の日中共同声明で原告らの請求権は放棄されたという理由で敗訴となりましたが、裁判長が口頭で、日本と企業には道義的な責任があり、和解して解決することを願うということを追加して述べた点で、この裁判と運動の正しさを確認できるものでした。

大腸摘出手術体験談(その⑨ 最終回 快復と退院)

2009-03-28 12:01:55 | 大腸摘出手術体験談

 手術後、1週間が経過するころには、手術直後の激痛もうそのように楽になり、イレウス管もとれ、涙が出てしまうような鼻の痛みもなくなりました。

 手術直後には、腹部にこぶし大の石ころが2、3個あって、ごろごろと腹部内を転がり動くような感じがあり、歩けるようになる感じが全くしませんでしたが、恐らく体内にあった大量の液体が全部出てしまったためではないかと思いますが、石ころの感覚も消え、ゆっくりと歩けるようになりました。5本あった管も栄養のための管だけになりました。みるみるうちに、エネルギーがわいてくるようになり、人間に備わった治癒力、回復力の強さを実感しました。

 潰瘍性大腸炎の発病以来の約2年間の長かった苦痛と不安、恐怖が一段落したことを感じることができました。

 12月に入ると、口から食事を取ることが許されるようになり、11日にはめでたく退院となりました。ちょうど1年前の2007年12月25日と27日には、大量出血があり、年末年始を絶食の状態で病院で過ごしたことを考えると、雲泥の差を感じ、あー幸せだなーと思いました。

 ただ、ストマに貼り付けるストマ袋がとても重く感じ、その重さでストマ付近が下に強く引っ張られる感じがあり、強い違和感があって、常にストマの存在が気にかかって歩くのが億劫な感じがあり、どうなることかと不安でした。しかし、退院して1ヶ月位すると、違和感も薄れ、普段はストマの存在を忘れるくらいまでになりました。そして、何よりも、食事の制限がほとんどなくなり、焼肉やカレー、チョコレートなど、これまで食べられなかったものも食べられ、毎晩50CCの焼酎も復活し、幸せな毎日を送っています。

 病気になる前は、仕事や付き合い、出張等で、夕食を家族とともにするのは、1週間のうちの何日もないことや、朝も家族が寝ている内に自宅を出て、家族の顔をゆっくりみることがないこともありましたが、今は朝から晩まで一日中家族と一緒で、妻やこどもともゆっくり話したり、マッサージしあったりもできます。

 その後、2009年の3月に潰瘍性大腸炎のために発症したと思われる痔ろう(正確には、肛門周囲膿瘍となり、そのあとが痔ろうとして残った)の手術のために、3月9日から23日まで2週間入院しました。痔ろうの手術も無事終了し、現在はその快復を待ちながら、来るべき第2期手術(ポーチの造設、小腸と肛門の接合、7月ころ予定)に備えているところです。

 まだ、まだ、これから何があるかわかりませんし、いずれ仕事の本格的な再開もしなければならず、その際は心身の苦労も小さくないと思います。

 しかし、今は、何よりも、今の幸福を十分味わおうと思います。 病気によって苦痛や恐怖を味わっただけでなく、仕事や生活にも大きな支障や影響があったことは事実ですし、今後の生活や行動にもその影響は続くと思います。これから、好きなスポーツや旅行がどれくらいできるかもわかりません。しかし、今更、「潰瘍性大腸炎にならなかったらなあ」と思ってみたところで、どうにもなりません。 生まれて始めて大きな病気をして一時停止したことで、何よりも当たり前の何事もない日々のありがたさを身にしみて感じられるようになりましたし、人の苦痛をより身近に感じることができるようになりました。

 また、「人がそれぞれの悪条件の中で、苦しみや恐怖を何とかして紛らわせながら、またささやかな楽しみを見つけ、その人なりの目標を持って、前向きに毎日を送ること」、このこと以上にこの世の中で大切なものはないのではないかということを実感するようになりました。

 医師や看護師の一つ一つの言葉や対応が、病気で苦しむ患者をどれだけ慰め、励まし、勇気を与えることになるのかということも敏感に感じるようになりました。それは本来、病院内の医師や看護師に関することだけでなく、普通の社会生活、家族生活の中での人間関係でも全く同じようなことが言えるはずです。

  私も自分のことを真剣に思って助けてくれた、医師、看護師、家族、知人友人のことを忘れることなく、家族、職場、知人友人、いろいろな社会関係の中で、周りの人たちに対してベストを尽くしていきたいと思います。特に、重い病気や障害の人たち、社会的、経済的なハンディ等から、人生のレールに乗り切れない人たちと心を通わせていけたらと思います。

 潰瘍性大腸炎になり、大腸を切除してしまったというこの体験を糧にし、また「話しの種」にして、一層、楽しく、たくましく、前向きに生きていきたいと思います。何かの縁で、読者の皆様と、いつか、どこかでお会いする機会がありましたら、ささやかであっても楽しい話がかわせますように、今日を出発点として頑張ります。(完)


大腸摘出手術体験談(その⑧最後の難関 腸閉塞)

2009-03-27 23:49:05 | 大腸摘出手術体験談

 肛門周囲膿瘍による激痛や高熱を何とかクリアーし、最後に訪れた便が出にくくなるという危機を大腸摘出手術で突破しよう、手術は怖いけれど、手術が終われば、全て治癒され解決し快方に向かうということだけを信じて、手術に臨みました。

 ところが、手術後にやってきたのはこれまで体験したことのない耐えられない腹部の激痛と息苦しさでした。しかし、この激痛も時間がたてば必ず落ち着くという医師や看護師の言葉を信じて、耐え、痛みが峠を越えたとき、長い苦難全体もようやく峠を越えたはずと思いました。 

 しかし、まだもう一つ、最後の難関がありました。それは腸閉塞(イレウス)というものでした。腸閉塞にもいろいろ種類や程度があって、腸内の通流が完全に途絶えてしまう場合は、直ちに生命の危険が生じ、開腹手術が必要になるようです。私の場合は、そこまで重症ではありませんでしたが、とにかく、手術後、残された小腸の動きが悪く、いや動きが悪いというよりほとんど動いていないのです。もともと大腸のひどい炎症の影響で、小腸の動きが弱っており、これに手術によるショックや麻酔の影響等が重なって、小腸の動きが弱まっていたのではないかと思われます。

 術後、2日間くらいは痛みに全神経が集中しましたが、痛みが軽くなるにしがたい、胃か腸か、腹部が鈍く重く感じるようになりました。また、寝返りも、手術直後は全身の痛みや衰弱でほとんど自力ではできないのですが、私の場合、それ以上に、腹の中に、こぶし大以上の石が2、3個入っているような感じがして、仰向けから横向きに体位を変えると、石がごろんと大きく動く感じがしてそれが苦しいのです。あとで思うと、これは腸に相当量の液が貯留していたためではないかと思います。 

 手術後、2、3日後には吐き気が始まり、胃よりさらに奥と思われるところから、相当な量、目分量で1リットルくらいの液を吐きました。その後も小腸の動きがないため、イレウス管という直径5ミリくらいの結構太いビニール様の管を鼻の穴から、食道、胃、小腸と入れていき、閉塞しているところを開いたり、管を通して液を排出したりするものです。管を入れる際は鼻の穴もこすれて痛いし、特に胃から小腸への入り口が見つかりにくく何回も出し入れして痛く苦しいのです。また、これを入れた後、2,3日間入れたままの状態が続きましたが、日増しに、鼻の穴が擦れて、涙が出るくらいいたいのです。しゃべると口とともに鼻やのどが動いて、管が鼻を擦るので、最後には、もうしゃべるのをやめて用件をメモ帳に書いて、それで用件を伝えるしかないと考えその準備をしていたところ、イレウス管からの廃液が増えて、状況が良くなったためようやくイレウス管を抜くことができました。

 ようやくこれで、管によって鼻を擦られなくてすむようになり、また小腸の液の貯留も少なくなって苦しさも軽減し、本当に峠を越えたのでした。 (次号に続く)


大腸摘出手術体験談(その⑦ 手術当日と術後の激痛)

2009-03-26 15:48:49 | 大腸摘出手術体験談

  最終的に緊急手術の実施が決まったのは、2008年11月16日の日曜日の早朝でした。そこから麻酔医との連絡等が取られるため、手術開始が何時になるのかわかりませんでした。手術時間としては8時間くらいかかる予定ということでした。

  午前10時ころ、妻に見守られて、ストレッチャーに乗せられて、手術棟の中に運び込まれました。自動車で約2時間の距離にあるところに住む兄と姉の夫婦が病院に着いたのは、その少し後であったということを後に聞きました。 手術台の上に載せかえられ、10分程度で麻酔をかけられ、スーッと眠りにつき、あとは熟睡という感じでした。 

  眠りについてしばらくして、誰かが自分に声をかけて起こそうとしており、それで、目が覚めました。麻酔で眠りについて30分くらいたったくらいではないかと感じましたが、実際は午後7時ころで、麻酔で眠りについてから約9時間くらいがたっていることがわかりました。場所も手術室ではなく看護師詰所のすぐ横の部屋でした。

 すぐに、目の前に、妻や、兄や姉夫婦が次々と現れ、何か言って手を握り、そのあと、子供とも手を握り、「あー子供も来てくれたんだなー」というようなことを思っているのと同時くらいに、全身の激しい痛みと息苦しさが突然襲ってきて、ただ痛みに耐えるだけでほとんど何も考えられなくなりました。

 腹部全体が痛くて、どの部分が痛いかはわかりませんでした。痛みとともに、息苦しくて、どこまでが痛みでどこからが息苦しいのか区別がつきませんでした。長距離を走って、最後余力を振り絞ってゴールした直後の苦しさ、あるいは腕立て伏せや腹筋等をして限界まで頑張って最後の1回が終わった直後の苦しさです。直後の息ができないような苦しさを100とすると、普通なら1分もすれば50くらいになり、2,3分もすると20か30くらいまで楽になるのですが、何分たとうが何十分たとうが100のままの苦しさが続き、治まりそうな気配が全くありません。

 痛み止めの点滴をしているのですが、何箇所も切っているので、痛み止めが効かないのも仕方がない、時間がたつのを我慢するしかないというような説明だったと思います。 痛みと苦しみで、眠ることもできず、ただ唯一できることは、「イターイ、イターイ、イターイヨー、イターイヨー」とうめぎ続けることだけでした。 30分に1回くらいの割りで看護師さんが「どうですか」と声をかけてくれるのですが、「イターイ、イターイヨー」と言い続けるしかなく、看護師さんも「頑張ってください」と言ってくれるくらいです。それでも声をかけてくれるだけで何か少しは救われる気がするのですが、しばらくすると、ベッドの近くを通り過ぎるだけで、声をかけてもらうこともないように感じました。

 そうこうして、6時間くらいたったころから、少し、痛みや苦しさが軽くなり始め、痛み止めが効き始めたようでした。「イターイヨー」のうめきもそのころようやく一時中止することができました。それから丸一日くらいは、痛み、苦しみのピークの際の程度は当初とあまりかわらずひどいのですが、痛み止めが効いて、痛みや苦しみが軽くなる時間が、少しずつ増えていきました。

 痛みが軽くなりやっと一息つけるようになった時点で、体にいろいろな管がついていることを始めて自覚しました。おしっこの出る管、腹腔からの液が出る管で左下腹部から出ている管、胃の中まで入って消化液等を出す口からの管、新たに作られたへその右側5センチくらいの位置のストマ(人工肛門)から出た排泄のための管、首筋の大静脈に入れられ、栄養液や薬等を入れるための管の5本だったと思いますが、首筋の大静脈に入れられた管は点滴台の高いところの栄養の袋と繋がれていますが、それ以外は点滴台の床面に近いところに置かれたそれぞれの袋に管の先が入れられ、袋にはどれも黄緑系統の液が出てたまっていました。

 (次号に続く) 


退院しました

2009-03-23 23:32:52 | 日記

今日、退院しました。潰瘍性大腸炎から派生した痔ろうの手術のための入院でした。自宅の布団に横たわって、やっぱり、自宅はいいなあと思いました。 

痔ろう以外はどこも悪くないため、これまでの潰瘍性大腸炎の入院時の深刻な状況とまったく違って、平穏無事な(?)入院生活でした。

ただ、手術終了直後、覚醒した時点で、麻酔で下半身(腰から下)の感覚がまったくなく、もちろん、動かそうと思っても全く自由が利かず、今まで経験したことのない、もどかしさ、息苦しさを感じました。下半身不随などの障害のある人は、こんな苦痛を常時感じているのかと初めて実感しました。

 3期分割の大腸摘出手術の第2期手術が7月ころの予定なので、しばらく何もなく、休憩です。


大腸摘出手術体験談(その⑥ 緊急手術となる)

2009-03-07 23:36:09 | 大腸摘出手術体験談

 私にとって、今回の入院の差し迫った目的は肛門周囲膿瘍の痛みを治すことでした。トイレの回数も一日15回くらいにまで悪化し、下痢や下血も悪化しているので、大腸の炎症も相当、悪化していることも間違いありませんでしたが、根拠もないのに、ステロイド投与とエルキャップ(人工透析のような方法で行う白血球除去療法)で、何とか良くなるだろうというような楽観的な気持ちでした。

 入院して4、5日目、ようやく肛門の痛みピークを越えた頃、内視鏡検査を受けました。前回まで述べたように、火傷したかのようにただれ何をしなくても激痛のある肛門に内視鏡の管を入れるのかと想像しただけでも、どうにかなりそうでしたが、幸い麻酔により全く意識も痛みもない状態で検査を終えることができました。麻酔のせいで、検査後、数時間は入院した経過が自覚できなかったり、病室がどこかの待合室に感じたり、病室の外が公道やグラウンドに思えたりなどの幻覚、妄想のような症状が出ましたが翌日には正常になりました。

  内視鏡検査の結果、炎症がひどく、潰瘍が深く掘れた部分もあり、相当重症で、医師としては、内科的治療では絶対無理ということまではないものの、外科手術が相当ではないかとの判断のようでした。ただ、少しでも炎症や全身の状態を改善させ、より良い状態で手術をしようということでした。

 私自身、入院後4日間の肛門とその周囲の地獄のような痛みを味わったお陰で、再びこのような苦しみを味わう可能性があるのなら外科手術のほうがずっとましという気持ちで、すんなりと外科手術を決意しました。

 入院した時点で、医師としては、それまでの経過からステロイドは効かない可能性があり、また外科手術を予定するならステロイドは使わない方が良いということで、シクロスポリンという免疫抑制剤とエルキャップで治療することになりました。シクロスポリンは副作用の関係で2週間が限度いうことでしたが、2週間後には、相当改善し、炎症も発熱等もかなり改善されました。トイレの回数も1日、2,3回までに減り、下痢や血便も驚くほど改善されました。

 そこで、シクロスポリンを中止して経過を見ることになったものの、シクロスポリンを中止して1週間もすると、再び、トイレの回数が増え、CRP(炎症の状況を見る指数)も上昇していき、肛門の痛みがまた始まり始めました。この時点では、外科手術そのものは決定されており、ただ、一旦改善を目指しその後に手術を決めようという方針でしたが、症状が悪化し始めたため、改善をめざすのは無理ということで、外科手術の予定が11月20日と決定されました。

 ところが、手術の日程が決まったあとも、シクロスポリンの中止で悪化のスピードが速く、中止後数日たった11月7日頃から発熱が始まり、肛門の痛みが復活してくるとともに、トイレの回数が一日7回、8回と増えながらも、便が詰まったような状態になり、下痢とはいいながらも、時間をかけてようやく少しだけ出るようになりました。

 11月15日の土曜日になると、大腸が腫れたせいではなかったかと思うのですが、ほとんど便が詰まって出てこないような状態になり、このまま詰まってしまったらどうなるのだろうという恐怖が現実化し始めました。そこで、11月20日までは待てないということになり、翌日の11月16日、日曜日だけれど、緊急手術を実施することになったのです。(以下、次号に続く)  


大腸摘出手術体験談(その⑤ 激痛後の高熱)

2009-03-06 08:24:11 | 大腸摘出手術体験談

 入院してから、毎日、肛門とその周辺の激痛を医師や看護師に訴えましたが、土日が重なったことと、内科に入院していることで、投薬治療しか受けられず、痛みに苦しみ消耗しながら週明けの月曜日の朝を迎えました。

 ようやく昼過ぎに外科の方から呼び出しがあり、臀部の肛門に近いところを切開して膿を出してみるということになりました。医師が、最初に麻酔の注射をして、すぐにメスで切った上、周辺の肉を手で押して、溜まった膿を出しましたが、思っていたほどの量は出ませんでした。切った部分にドレーンと呼ばれる管を入れて、露出した管の先から自然に膿が流れ出てくるような処置をして治療は終わりました。ドレーンと呼ばれる管は皮膚の内部に入った部分が5センチ前後、皮膚の外に出た部分が3センチくらいでちょうどジュースを飲むストローに似ているため、自分ではストローと呼んでいました。

 このストローを入れる処置をした後、少しずつ膿が外に出始め、数日のうちにズキンズキンという臀部の痛みはかなり軽減されました。また、同時に、排便の際とその後のジリジリとした火傷のような痛みも軽くなっていきましたが、これは後に述べる潰瘍性大腸炎の投薬治療が効いてきたこととも関連していたのかもしれません。

  このように、肛門周囲膿瘍の激痛は、入院後4日目をピークにしてその後急速に軽減していきましたが、今度はそれに変わって、発熱がひどくなりました。入院直後から38度程度の発熱は常時ありましたが、翌週になると、熱が高くなり、最も高いときで40度8分まで上がりました。夕方頃から、ひどい悪寒がしてきて、体がブルブルと激しく震え、歯のガチガチという音が外にも聞こえるのではないかと思われるくらいの震えが約30分間程度続き、全身がポーっと暖かくなったと感じるようになるのと同時に悪寒と震えが終わります。点滴を受けた解熱剤が効き始め、汗が出始めますが、悪寒が始まった時点で37度から38度くらいであった体温が、僅か1時間後に40度前後にまで一気に上昇していました。悪寒と震えが治まった後、引き続き1時間から2時間くらい布団を被っていると、汗で下着がびっしょりとなり、その時点で熱は38度から37度くらいまで下がり体が比較的らくになります。そういう状態がしばらく続きますが、それから2、3時間すると、再び体に力が入らないような頼りないような気分になり、「これは、そろそろかな」と思うと再び悪寒と震えが始まるということが、一晩で3回か4回繰り返されました。そして、このように夜間に、悪寒、震え、40度前後の高熱が繰り返されるということが2、3日続いた後、発熱も治まっていきました。

  こうして、入院後約1週間の間の肛門の激痛と高熱が治まり、入院後2週間くらいになると、大腸の炎症もかなり治まり、全身状態も良くなりました。これは、今回の治療の中心であるシクロスポリン(製品名はサンディミュン)という名の免疫抑制剤が効を奏したということのようでしたが、このシクロスポリンの投与は副作用との関係で2週間が限度とのことで、問題は、シクロスポリンを中止した後にどうなるかということが最大の関心事となりました。(次号に続く)


大腸摘出手術体験談(その④ 肛門周囲膿瘍の激痛)

2009-03-05 14:07:25 | 大腸摘出手術体験談

 入院した2008年10月17日は金曜日で、お尻の痛みが週明けまではもう我慢できないと無理を言って、予定より数日早く大学病院に入院させてもらいました。

 ところが、入院してもすぐに土日になり、結局痛みに対する対応は痛み止めの薬くらいで、その痛み止めもほとんど効きませんでした。 10月17日からの数日間、特に、金、土、日、月の4日間は、これまでの人生の中で最も痛みに苦しんだ4日間といえます。

 肛門とその周囲の痛みは、「肛門周囲膿瘍」という病気で潰瘍性大腸炎の合併症の一つとされているようです。肛門には、誰でも「陰か」という小さな穴がいくつもあって、そこに細菌が入り化膿する病気のようです。特に下痢が続くときや免疫力が落ちているときにかかりやすく、潰瘍性大腸炎でなくとも、なる場合があるようです。

  このときの私の痛みは2種類あって、一つは、肛門の周囲の筋肉か組織かわかりませんがとにかく臀部がズキンズキンと痛むのです。もう一つの痛みは、排便の際、水性の便が肛門を通過する際、まるで火傷をするような激痛がするのです。便はアルカリ性と聞いたことがありますが、そのアルカリ性が肛門を刺激し攻撃しているような感じで、肛門が便で濡れた瞬間に激痛が発生し、時間とともに皮膚をじりじりと焼いて破壊していくかのように痛みが強まるため、何秒かの内に、お尻を拭かないといけないのです。焼けた火箸を肛門に当てられたという表現がぴったりです。排便が終わりお尻を拭いたあとも、火傷をした直後のようにじりじりとしばらくは痛みが続き、少し痛みがましになったかなという頃になると、また次の排便が始まり、排便になるとまた焼けた火箸を付けられるような感じになります。この時は、潰瘍性大腸炎のため、1,2時間に一度の割合で排便がありましたので、金、土、日、月の4日間、このようなことが繰り返されながら、じりじりとした肛門の痛みはますます激しくなり、それとともに肛門の周囲のズキンズキンという痛みも激しくなっていきました。

 排便はベッドの脇に置いた簡易トイレに座ってするのですが、毎回まるで拷問を受けるために座らせられるような錯覚を覚えました。

 こうした痛みのため、この数日間はほとんど眠られませんでしたが、10月20日(月曜)の深夜から早朝にかけての数時間、痛みがピークに達し、睡眠不足からうつらうつら眠りそうになると、数分置きに同じような夢を見て、夢の中で、内容は思い出せないのですが、何かドッカーンと衝撃を受けるような場面が出てきて、同時にお尻にズッキーンとした痛みが走り目が覚めるということを十数回は繰り返しました。そうこうしながら、その後、痛み止めが効いてきたのと睡魔が勝ったこととで、久しぶりに2、3時間熟睡することができました。

 入院してからの4日間は、このような激痛のため、精神的にも消耗し、声を出して話すことも億劫になり、しまいには、家族や看護師さん等と視線を合わせることすらできなくなりました。人間は、他人と向き合って話すということだけでも一定のエネルギー(気力と体力)を消費することを自覚したところでした。(次号に続く)


大腸摘出手術体験談( その③ 広島漢方)

2009-03-03 17:29:15 | 大腸摘出手術体験談

 2008年7月22日、妻と二人で宮崎空港をあとにして、広島市中心街から近い広島西空港に到着しました。

 薬を中心とした内科的治療ではどうにもならず、かといって、すぐに大腸を切除するというまでの決断はできない状況の中で、広島市の広島クリニックという病院の医師が処方する漢方薬にかけてみることにしました。ネットの患者間の交流の情報によると、5年、10年あるいはそれ以上の期間、この病気から抜け出せなかった患者で、この広島クリニックの漢方薬で飛躍的に症状が改善した人が相当いるようでした。一般的な漢方薬を使用している患者もいるようですが、あまり目に見えた成果はないようで、この広島クリニックだけが相当の成果をあげているようで、そのため、患者仲間では「広島漢方」と通称されているようでした。

 短時間ですが、妻と二人で、広島市の中心街をぶらぶら歩き、旅行気分を味わいました。「広島漢方で良くなったら、又広島に来て、今度は美味しいものをたくさん食べようね」等と話しました。

 広島クリニックには、全国から、私と同じような患者が10数人来ていて、簡単な検査を受けたあと、集団で漢方薬の飲み方等の説明がありました。他の患者を見ると、みな顔色が悪く、うつむいて、ぐったりしている感じで、他人からみると自分もこんな悲惨な状態なんだなと思いました。

 広島市から帰宅してしばらくして、7月末頃、「広島漢方」の漢方薬が届き、服用を始めました。帰宅してから、お尻の痛みも強くなり、早く漢方薬が届かないかと待ちに待ちました。服用を開始して便の性状や回数等から少し良くなりつつある印象がありましたが、6月頃から始まった、全身の骨、筋肉、関節等の痛みが、8月に入るとますますひどくなり、特に肩や首の痛みで、寝起きや寝返りもできないくらいになりました。8月15日の大学病院の診察でも、炎症の状況を示すCRPという数値が、7月末の5くらいから、12くらいまで上がり、すぐに入院するように強く言われました。しかし、自分としては、それまでの経過から、入院しても、ステロイドの投与を受けるくらいで、同じことの繰り返しかあるいはより悪化するだけではないかという悲観的な思いがあって、もう少し広島漢方を続けてみたいと主治医に訴えました。これ以上悪くなったらすぐ入院するということで、とりあえず、入院せずに広島漢方を続けることになりました。主治医は入院が絶対という判断でしたが、私も何としても、広島漢方で治したいという強い決意があり、主治医の方針を拒絶した形でした。

 その後、全身の関節等の痛みも次第に良くなり、便の回数も1日15回程度あったのが、7,8回にまで減り、血便も減ってきて、改善が見られるようになり、9月1日の診察では、前述したCRPも12から9まで下がる等、血液検査の全ての項目で改善が見られ、主治医も驚いていました。主治医としては、9月1日の診察日までには入院になるだろうと予測していたようでした。その後も便の性状が固形に近づく等良くなり、9月11日の診察では、CRPが1.29まで一気に下がり、主治医も明らかに改善しているという判断をしました。

 こうして、広島漢方によって明らかに改善が見られるようになり、時間はかかっても必ず良くなっていくのではないかという希望が膨らんでいきました。ところが、結果的には、この9月11日頃を境に、症状改善はストップし、9月末頃には、トイレの回数も増え、出血も多くなり、悪化が明らかになっていきました。10月になると、トイレの回数の増加に伴い、肛門やその周辺がずきずきと痛むようになり、広島漢方による治癒という希望の灯が次第に消えかけていくのを自覚せざるを得なくなり、入院を決意しました。

 10月中旬には、毎回の排便の際、肛門がじりじりと火傷をするような強烈な痛みを感じるようになりました。そして、痛みが我慢できなくなり、10月17日に、予定日より早く入院させてもらいました。挫折感、敗北感もさることながら、肛門やその周辺の痛みから解放されたいということで頭がいっぱいの状態で、約9ヶ月ぶりの病院のベッドに横になりました。

(次号に続く)