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幕末を生きた女 101人

2016年07月10日 | 
幕末を生きた女 101人

第1章 勤王志士、佐幕志士を支えた女性
個人的に佐幕派なので佐幕の人物を紹介します。
小栗上野介、実はこの人は江戸幕府内でもエリートでその先祖は徳川家康にまで繋がり本姓は松平姓である。三代の時から母の小栗姓を名乗っている。家禄2500石 上州権田村はその知行の一部である。小栗が政治に関わるようになったのは1860年の事である。父が早く病没したため彼を支えたのは母邦子であった。また小栗は23歳の時に結婚。相手は播州林田藩1万石の建部内匠頭の娘で道子15歳。大名家の娘としては珍しくはっきりと物を言うタイプだったという。聡明な小栗にはちょうど良かったのかもしれない。
しかしながら時は幕末。江戸城無血開城し江戸を占拠した薩長狙われる事になる。ついにとらわれて斬首。小栗は母と妻道子を会津へ逃がしていたため無事であった。そして無事に女子を生んだ。が、その後会津も薩長軍に侵攻されるが小栗一家は逃れる事ができた。無事に東京へ逃れ、小栗家を再興した。

西郷頼母、会津戊辰戦争を語る上で、西郷家の女性は会津誉として語り継がれている。
そう籠城戦を前に足手まといにならないようにと女性一族で自決。その潔さ等会津武士の教育に薩長軍は驚愕しまた称えた。西郷家は会津松平家がまだ高遠にいたときの家臣で藩祖保科正之が高遠から会津へ国替えの時に一緒に来た「高遠以来」のエリート家臣団であった。西郷頼母はそのことを鼻にかけ藩内でも鼻つまみ者とされてきたが、その妻千恵子は頼母を支えた。会津の女性らしく子供たちへの教育にも力を入れた。特に躾については厳しかったようだ。そんな会津戊辰戦争で思っていたより早く薩長軍が会津城下へ攻めてきた。城下では籠城戦に備えて早く城内へ入る者も多かったが、女子は兵糧を減らすだけ。また薩長軍に捕らえられて凌辱される前に潔く自刃し、夫に余計な心配をかけず戦に専念し欲しいとの行動を取った。会津城下では同じように自決する女性も多く230人以上もの女性が自ら命を絶った。現在も会津武家屋敷としてその事実を後世に語っている。会津へ行くことがありましたら武家屋敷に立ち寄ってみて下さい。

佐川官兵衛、会津藩別撰隊隊長、後に朱雀隊隊長。会津藩の歴戦の勇士である。彼は無骨者で武芸以外に興味がなく、一度目の結婚は失敗。二度目の結婚後に起きた会津戊辰戦争で新妻に苦労をかけた。が、敗戦後数年で病死。西南戦争へ警視庁抜刀隊隊長に任官する前に3度目の結婚し初の子宝に恵まれた。佐川官兵衛は南阿蘇村で薩軍との戦闘で戦死。西南戦争前に結婚した「カン」が一人息子の直諒を女手で育て陸軍幼年学校へ進学させた。若くして陸軍大尉となった直諒は日露戦争で戦死。官兵衛を支えた女性は戦争に翻弄された人生を送る事となった。

第2章
盛岡藩南部家の女性、新政府軍と事を構えたことから賊軍とされ戊辰戦争終結後は領地を大幅に削られた。最後の藩主南部利剛に嫁いだのは水戸藩主徳川斉昭の6女の明子だった。明子は徳川慶喜の姉にあたる。南部藩が朝敵とされ敗戦した事により、夫である南部利剛は処分され、また実家である水戸徳川家と弟徳川慶喜最後の将軍として処分され大名家である南部家と実家である徳川家を失う事となった。しかしながら明子は気丈に振る舞い明治36年66歳で亡くなる。息子利克が八戸子爵を継ぐ。

仙台藩伊達家の女性、維新後朝敵賊軍の汚名を着せられる。そんな中、亘理藩伊達家に嫁いだ保子は領主邦実に17歳で嫁ぐ。伊達一門は戊辰戦争で62万石から28万石に減らされ亘理領は没収。さらに旧領は南部領となったため先祖代々の土地を離れるか帰農するしか生きる道がなかったが、聡明な保子は残った武士団をまとめ上げ蝦夷地へ開拓使として乗り込む。ここでの生活は想像以上に苦しいものだったが、亘理を離れた者たちの団結で乗り切り、蝦夷地に新しい都市を作った。それが今の伊達市である。


幕末の志士の中でも討幕派である薩長閥の人物を支えた女性も多いがここでは省略させてもらいます。

写真の女性は陸奥宗光の奥方です。


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