櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

断片4/12:ウイルスと友愛経済(コロナ状況下で、、、)

2020-04-12 | 日々のこと(daily)

この状況のなか、政治の力、そして政治家の思考回路がどうなっているのだろう、というようなことに、つい思いが巡る。

緊急事態宣言とならび提示された補償案で、日本政府は困窮のレベルに線引きをしようとする。納得がいかない。

ハンガリーでは首相権限で緊急事態宣言が無期限延長が出来るようになったという。イスラエルでは議会閉鎖まで起きそうになったが阻止されたと知った。

民主主義は大丈夫だろうか。みんなが感染と失業の恐怖にさらされる現在について、力をもつ人たちの本音はどうなのだろう。不安になる。

かたや、コロナ対策の一環としてベーシックインカムの導入を意識し始めている政治家がアメリカやイギリスやスペインなどに出てきているという報道が見られ、驚いた。UBIがどの程度の実現性や影響があるかはまだわからないけれど、この状況下だからこそ意味ある政治実験になると思う。

僕が教えているダンスの一つにオイリュトミーというのがあるが、これを創案したルドルフ・シュタイナーは、芸術や教育の実践とならんで社会や政治に対する意見が多数あることでも知られてきた。その思想の中で僕は「経済の友愛化」という考え方に興味をもってきた。お金とは何か、ということを考えずにいられないからだ。

いかにしてお金を稼ぐか、ということにアタマを悩ませてきたが、お金の役割は何なのか、ということを、もっと考えなければならない。いま経済は競争の道具になっているが、元々は、お金というものは助け合いのための発明だったのではないかと僕は想像する。

いまここにきて、UBIの可能性も含め、このコロナ状況は、友愛と経済の関係をさぐってゆく通過点にもなるのではないかと、思えてならない。政治と私たちの関係に加え、私たち一人一人が経済に対する考え方を変えてゆくチャンスかもしれない。

非常事態を背景に、各国が、そして各国それぞれの国民一人一人が、政治と経済と国民の関係をめぐって、何かしら考えざるを得ない日々がめぐっている。新しい社会について真剣に考える時期が突然に来た、そう思えてならない。地球規模で、だれもが同じことに困り、同じことを解決しようとしている。

人と人は、いかに助け合うことが出来るか。というミッションを世界中が共有してゆくことになると思う。

危機の時代には友愛精神が試されるにちがいない。そして、おなじくらいに、危機の時代は全体主義を生みやすい。

ひじょうにびみょうな状況を、僕らは漂っているのかもしれない。

ウイルス状況のなかで、国民の声を、世界の声を、人間の声を、政治家はどのような思いで聴いているのだろうか。

国家と国民と経済の関係については、どのみち変化を考えなければならない地点に来ていたのかもしれない。もう、資本主義の競争社会のままでは未来は明るくないのでは、なんてことも、とても思う。

いま僕らが困り果てながら考えていることすべてが、未来を構築する導線になるのではないか、とも思える。

新しい時代は、いつも困難から生まれてきた。

 

 

lesson 櫻井郁也ダンスクラス

stage 櫻井郁也/十字舎房:ダンス公演情報

daily 日々のこと

 

 

 

 

 


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オイリュトミーとは (危機の時代と希望にかかわる、、、)

2020-03-29 | ダンスノート(からだ、くらし)

 

桜の花が美しいのに、目に見えないウイルスに僕らは困り果てている。

かなしい。

 

 

ちょっと前の、「オイリュトミー」のレッスン日のことを思い出した。

参加者が流れる音楽や声に身をまかせてゆこうとする姿に、あらためて感慨をいだいた。

状況のなかで、固く萎縮してしまいそうなものに、

音楽や言葉が、もういちど息吹を与えているように感じたのだ。

 

(オイリュトミーというのは、僕のダンスに強い影響を与えたメソッドの一つであり、ダンスクラスの一つとして長く教室を続けている。僕にとっては、土方巽の「舞踏」とマーサ・グラハムの「グラハムテクニック」に並ぶもの。独自のダンスを探すうえで、技術的にも思想的にも、最も力強い道しるべの一つになった。)

 

レッスンの様子をここに書いたことがある下記LINKが、オイリュトミーは言葉や音楽を呼吸するように踊る。

 

たとえば基本練習のなかに、こんなのがある。

身体からいちど力を抜いて、あらためて床を踏み、じっくりと背筋を垂直に立ててゆく。

ただそれだけのことなのだが、レッスンでは、生の声の響きをききながら、これを行なう。

人は、空気を体内に吸い込み、呼気に思いをのせて言葉を発声する。

それに気持ちを合わせて、身体を動かしてゆくのがオイリュトミーだ。

 

上記の練習は、その最も初歩のひとつ。原点。

ずっと続けていると、聴くことから、体内に独特の感覚が生まれてくるのがわかってくる。

レッスンを始めるとき、僕は毎回これを行なってきた。

この練習をしているうちに、身体のこわばりが少しずつやわらいで、再びまた引き締まってゆく。

そのたび、ちょっとづつ、その日の雑念が身から離れ、同時に何か新しい気分が湧きあがってくるように感じる。

 

僕は初めてオイリュトミーを観たとき、踊り手の足が地面から遊離していてジョットォの絵に似ていると思った。空から降りてきて、まだ少し浮いているような感じで、繊細に足を動かして、あちこちに舞い移ってゆく。

身体が空中に抽象絵画を描いてゆくようなその手法は、ダンスというより一種のドローングのようにも見えたし、地水火風のような元素の姿をイメージしようとしているようにも感じた。

しっかりと地に足をつけエネルギーを放つ身体に僕は魅力を感じてきたが、それとはまた別の、より空間のひろがりへ向かおうとするような身体の魅力を、僕はオイリュトミーから教わった。

三島由紀夫が「イカロス」という詩を書いたが、そこに歌われている一節をオイリュトミーに思い重ねることが、いまもある。

人が地に足をつけるのは宿命だが、飛ぶ夢を見てしまうのも、もうひとつの宿命かもしれない、とも思う。

地に足をつければつけるほど、空や宇宙や光の世界に対する憧れもまた強くなってゆく。

 

僕のダンスは好き勝手に創作しているし衝動のままに踊ることを旨としているが、身体や感覚を磨いてくれるオイリュトミーの稽古が楽しく、ダンストレーニングの重要なループのひとつになっている。

音楽に身を任せるとき、僕らは音に溶け込んだエネルギーを吸い込んでゆくのではないか。誰かの言葉に身を委ねるとき、僕らは人生に耳を澄まそうとしはじめるのではないか。

そのようなことを、僕はオイリュトミーのメソッドから教えられているように感じてならない。

そして、なぜかしら、こういう不安で困難な時代にこそ、オイリュトミーは有効になってくるのではないかという、直感が、してならない。

 

オイリュトミーは人間の結びつきをめぐる踊りなのだが、僕らはいま、どんどん結びつきを失いそうになっている。コロナウイルスはその象徴のようにさえ思えてしまう。

 

オイリュトミーは、ふんわりとした優雅さや柔かさが特徴的な踊りなのだが、思えば、危機の時代を予感するようにして生み出された。1912年ごろのことだが、大恐慌やナチズムや戦争に向かってゆこうとする世界を、創案者たちは予感していたのだろうか。

この優雅さや柔らかさは、危機の予感のなかで生まれた、ある種の「希望の形」なのではないかとも思える。それは、人間の根本にある何かを信じてゆこうとする態度に、どこか通じるのではないか。と、いま、僕には思えてならない。

稽古を始めて37年になるが、いまほどそう思えることは、かつてなかった。

 

※関連記事( LINK )

 

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レッスン報告・9月はじめ

2017-09-10 | レッスン・WSノート
金曜夜のコンテンポラリーダンスでは、音の響きと身体がどれだけ親密に関わることができるだろうか、というようなことをしばしば探っています。特に生の楽器演奏で行うセッション練習では、グルーヴ、イメージ、技術、呼吸、思索、などなどダンスのさまざまな側面が現れ、試行錯誤や対話が時間を満たしていきます。

また、水曜のオイリュトミークラスではインターヴァル(音程)を表現する動きを練習に加えています。こちらは決まった仕方がある踊りなので所与の振付を使いますが、それでも音に対する感動の深さによって、また動きかたによって、決まりきった形式が見違えるように生命感が感じられるようになります。音への共感共振を通じて身体の活力を沸き立たせてゆく側面が、このオイリュトミーという稽古方法には強くあります。

いずれも知覚と想像と運動との相互作用ということですが、これは同時に身体の柔らかさやリラクゼーションとも関連します。

土曜日のクラスではレギュラークラスでのエリック・サティ、基礎クラスでのクロード・ドビュッシーが最近は印象的で、これらもやはり音の響きを楽しむほどに活き活きした踊りになっています。

ドビュッシーは流動するような音の変化や余韻や間の豊かさが、いやおうなしに身体の内部空間を拡げてくれる感じがしますが、サティはより音の数が少なく(私たちの同時代の例えば以前書いたウォルフやフェルドマンもそうだと思いますが)音そのものへの味わいが非常に深くなります。

踊りを通じて聴くと、いや体験するとねえ、聴き慣れた曲がまるで新しい音楽みたいに新鮮に感じますね。と仰ったクラスメンバーがいらっしゃいましたが、まったくだなぁと共感します。

音楽の聴こえかたが広がって豊かになるというのは踊りの幸福の大きなひとつだと思います。

ダンスを通じて僕らは音と動きの関係性を楽しむことができますが、それは響きと空間、空間と身体ということにやはり結びつきますが、もしかしたら、音というのはさらには知覚と認識の関係についても考えさせてくれるのではと、たとえば、音の知覚をデリケートにしてゆくことは感情の深まりと同時に認識の広がりに結びついつゆくなではないかなあ、などあれこれ思ったりもします。

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さざめく感覚

2017-07-14 | ダンスノート(からだ、くらし)
感覚、というものは面白い。

もう10年前に上演した「カラビンカ」という舞台は僕のダンスと作曲家・鈴木悦久の音楽演奏のためのものだったが、これは2人の間では「知覚のたわむれ」をテーマに作業していた。ピアニストの大南匠と一緒にやった舞台ではジョン・ケージ作曲の「4分33秒」というのを踊ったことがあるが、これは弾かないピアノというものがあって、ピアニストがいるのにわざと音を出さない、そのぶん、与えられた4分33秒のあいだ会場みんなで沈黙に耳を澄ます、その沈黙から感覚できるあらゆる響きを楽しむことができるのでは、という体験音楽だが、それを踊るというのはダンサーとしては非常に感覚の幅を問われる体験だった。

世の中が便利になったぶん、喪ったものも多いと思うが、そのなかには、感覚の細やかさもあるのでは、と、ときどき感じてしまう。

ダンスのトレーニングのひとつに、19歳からオイリュトミーというのを学んでいまだに稽古をしているが楽しい。それを創ったルドルフ・シュタイナーはこれまた面白い人で、いろんなことをよく考える。その膨大な思索のなかに、感覚に関するものがあり、深い。だれもが自覚的な「五感」以上の多様な感覚を人間は潜在能力として保持していると考え、独自のネーミングで7つの感覚を加え「十二感覚論」なるものを打った。視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、これら五感の他に、熱感覚、運動感覚、平衡感覚、生命感覚、言語感覚、思考感覚、自我感覚なる7つを加えて「十二感覚」と呼んだ。なんだか西洋の音階みたいだ。ひとつひとつを、これはどんな感覚なのだろうなあ、と読み解いてゆくと、自分自身のさまざまな体験を思い出せて楽しい。感覚の冴えは、感情のふくらみを呼び起こすようにも思える。

シュタイナーは十二感覚というが、そのように人間の感覚のさまざまを提示され想像を拡げてゆくと、ほんとうに多様な可能性が僕らの能力には潜在しているように思えてくる。

食を得るために働くが、それだけではなく、知り・語り・歌い・踊り・描く、という衝動をたしかに持つ。
それらが無いと気持も暮らしも関係も荒れる。
世界を味わい感動するように、僕ら人間の肉体は、沢山の感覚をたずさえていて、それらが絶えずさざめいて、音楽しているのではないかと思う。

人間が活き活きと生活を営むにはイマジネーションとファンタジーが不可欠で、その基礎となるのは感覚の豊かさだ。

たくさんの、さまざまの、感じるものすべてを感じ尽くすとき、そのように感覚を拡げて全感覚でこの世界を味わうとき、僕らは僕ら自身がこの場所に存在していることを理解できるような気がする。//

(ちょっと前のノートからですが、あらためて最近も思うこと重なるので、、、)

_______________
info.

7月29~30(土・日)上演
櫻井郁也ダンスソロ新作公演「夜」Premonition




櫻井郁也ダンスクラス
踊りたい人はコチラ。各クラスとも入れます。

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断片:アントナン・アルトーを巡るダンスから

2016-10-08 | ダンスノート(からだ、くらし)




何かと結びついては切り離され、切り離された途端に別の何かに結びついている。
そんな想念が膨らんでゆくキッカケになったのは数年前に上演した『器官なき身体:phase 1』(写真)という舞台だった。
タイトルからお察しの通りフランスの俳優・詩人・演出家アントナン・アルトーが遺した謎の言葉を巡ってダンスを試みた。
二度目だった。一度目は静岡での公演で「神経の秤」を踊った。オイリュトミーという、ダンスというよりは一種の呼吸的なムーブメンツ(詳細いずれ)をかなり用いたが、これは言葉に対するアプローチだったから、僕自身の感じていたアルトーへの感情関係は、イマイチだった。それで2作目を試みた。
もとよりマラー役の演技から息をのみラジオドラマの声に親近感をおぼえるほどの震えがきたわけで、彼のアタマや考えに魅了されたわけではなかった。
から、もっと彼の肉に近いものから何かを読み取りたいという気持ちが長年溜まっていった。
僕の場合は、人の言葉も好きだが、それよりも、その言葉を遺した人そのものへの接近・欲望・渇仰が身を揺するほうだ。
ヨゼフ・ボイスでも声のパフォーマンスからは触発されるものが多かった。
アルトーの場合は、しかしその声はすべてではなく、その向こうに、もっともっと無数の発されざる言葉があるように思った。
発されざる言葉に、興味は移動した。が、そこは未だ耳を傾け続けるのみだ。
言葉も好きだが、もっと好きなのは風貌とか佇まいだ。
オドリには、たとえばそういうものも含めた、意味合いとか考えとか思いとか以前の、即物的な力が宿ることがあるように思えてならない。
翻弄されるように踊りエネルギーを出し尽くしてゆくなかで、言葉あるゆえの切断や距離や壁を叩き壊したくなるような深い深い感覚に襲われ、やがてカラダが呼吸や鼓動の輪郭を露わにしてゆく。そんな感じが、この作品あたりから始まっていった気がする。
当時の経過は、もちろん今回の新作に通じている。

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10/29〜30上演!
櫻井郁也ダンスソロ新作公演『緑ノ声、ヲ』SAKURAI Ikuya Dance Solo ”Voice of Green” 2016.29〜30.Oct.・公式HOME PAGE

※席数に限りがありますので、お早めにお申し込み下さい。



参考:作品歴、ご感想リンクなど


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オイリュトミーという踊りがある

2016-06-01 | レッスン・WSノート
水曜夜のクラスはオイリュトミーの練習。で少し話したのは、様々なダンスのなかでオイリュトミーの特徴は何かということだった。

僕らダンサーは(良し悪しの議論はあるが)バレエから生まれた様々な動きを学んだし教えもしている。そこに個人個人が独自に学んだり開発した動きが溶け合い、現代ダンスは変化してきた。

僕の場合はモダンダンス・体操・演劇・打楽器演奏などの体験が技術的に強く影響しているかもしれない。しかし技術よりもっと大きな影響を僕は土方巽さんの晩年の僅かに観ることが出来た舞台の強い共感から、そして、実に対照的な「オイリュトミー」と名付けられたドイツ舞踊の修行から得た実感がある。

オイリュトミーは知る人ぞ知る舞踊メソッドだが、バレエとは全く別の視点から踊りの面白さ広さ深さを教えてくれる。

それは自分を表現する踊りではなく、他者の言葉や歌を味わい理解するための踊りだ。踊ることで他者の気持ちに触れようとする、踊ることで環境に触れたり世界を味わい楽しもうとするダンス。いわば知覚を拡大するダンス、それがオイリュトミーだった。

突出した身体能力を求めない無理のない運動にカラダはほぐされ、周囲への注意深さを生む。響きを傾聴しながら全身を動かすことで感情が血を通わせ、様々な感覚が目覚めてゆく。さらに練習をすることで、全身全霊で空間と語り歌い遊ぶような踊りに発展してゆく。動くメディテーションとも言える。動く思索とも言える。語る身体、歌う身体、とも。

(僕は専門家養成の過程だったから集中的に毎日何年も修行みたいに漬かりこんだが、もっと日常生活と一緒に楽しみながら練習する方が良いのではと思ってプログラムを考え一般クラスを開いていて、やはり温かい踊りが生まれている実感がある。踊りと実生活は、やはり一つなのだろう。これからは暮らしの匂いや仕事の苦楽を滲ませたダンスこそが本当の踊りとして出てくる時が来ると思う。ところで、、、。)

オイリュトミーは1912年に思想家ルドルフ・シュタイナーや元女優のマリー・シュタイナーらが生み出した。ニジンスキーやヴィグマンやダンカンの踊りが世間を驚かせ、音楽も美術も革命期に入り、政治も経済も揺れに揺れた時代。より強烈な個の確立を求めた時代にありながらも、むしろ受動的で内省的な体験を重視する踊りとして生み出されたオイリュトミーは、ある意味ラディカルだったのではないだろうかと僕は思う。オイリュトミーは自分の思いを伝える以上に、詩や音楽に寄り添ってそれらの内容を、客観的に舞踊化しようとする。たとえば親が子に絵本を読み聞かせるような態度で、とでも言えるかもしれない。

このオイリュトミーには、決まった準備運動が幾つかあり、レッスンでも一人稽古でも毎回やる。肉体を緩め、神経を落ち着ける。

そのなかに「イッヒ デンケ ディー レーデ」と呼んでいる所作の連続がある。ご想像通りドイツ語。「私は言葉を考える」という意味だが、トントンツーという感じのリズム感がカラダに響く。

小理屈を言うと、言葉デ考える、ではなくて、言葉ヲ考える、といのが面白い。「で」と「を」では大違いだ。しかも、これから踊るゾという気持ちの準備のときに「考える」という言葉を運動に転じるのは面白い。言葉に振りが付いていて、胸あたためるように胸元に置いた両手を、背筋を伸ばしながらパッと空気一杯に拡げ、気持ちを明るく解き放つ。「私は言葉を考える」という内省的な言葉に合わせて、シャキッと背を伸ばして全身を元気一杯に明るく空間に解放する。この動作、心と体のシンクロナイズから、オイリュトミーの練習は始まる。

何回やったかわからないが、未だにこの一振り一言で身も心もスッと透明になるのだから不思議だ。

単純で誰にも思いつきそうだが、なかなかそうはいかない振りと言葉の組み合わせだと思う。

動きによって言葉の本質が意識の奥に届くのだろうか、或いは、言葉を聴きながら動くことによって普段は脳のなかで眠っているスイッチが一つパチリと入るのだろうか。そんな振りと言葉の組み合わせや振りと音の組み合わせが、オイリュトミーには沢山ある。

僕らオイリュトミストは、それをゲステ(ドイツ語で型とかジェスチャーの意味だ)と呼び、気に入ったテクストや楽曲に、それらを取り入れて踊る。

また、テクストや楽曲には呼吸感やリズムやノリがあるが、それらをヴァイブレーションの波として捉え、身体と空間が戯れてゆくように踊りを膨らませてゆく。これをオイリュトミーフォルムと呼んでいて、バレエやモダンダンスのフロアパターン(動線)に近い。

ゲステは目覚めの瞬間を呼び、フォルムは感動の波打ちとも言える。

テクストから他者の言葉を傾聴しながら、あるいは楽曲から他者の唄に耳澄ましながら、それらに潜在する何かに目覚め気づき感覚や感情を拡大してゆく。それがオイリュトミー独特の踊り方だ。

自分の思いを伝達する表現と一味ちがうところは、踊ることで他者の心を理解しようとするところであり、充実感もまた同じで他者への共感性にある。何度も踊っているうちに、その言葉が腑に落ちてくる、その音楽の底に眠る感情がわかってくる。他者があり、そこに自分の知らなかった世界が広がっている。踊りながら、それを味わい、関係を紡ぐ。自分を開く。

そう思うと、最初に書いた「私は言葉を考える」という準備運動の意味も少しは感じ取ることができそうだ。

オイリュトミーにとって言葉すなわちロゴスとは、関係のエネルギー。他者の心と自我を結ぶ働きそのもの、いや、存在者すべての魂力を示唆するものなのかもしれない。

道具としての言語ではなく、語ろうとするエネルギー。衝動そのもの。

胸中に静かに轟く発話発現以前のカオス。

それら全てをコトバと仮に呼ぶならば、言葉とは内界に広がるイノチそのものだと解釈することも出来なくはない。

広大に広がるイノチの響き、としてのロゴス・言葉。

「私は言葉を考える」とは、私はイノチの響きに耳を澄まし感じ理解しようとする、という読み替えも出来そうだ。

シュタイナーは膨大な講演を行いながらアクティブな実践作業に挑戦したが、その一つが身体へのアプローチとしてのオイリュトミーの考案だ。語り、奏で、踊り、、、という私たちの行為の根底には、どのようなエネルギーが渦巻いているのか。哲学から生身の人間のカラダへ、そして建築へ、有機農業の開発へ、自由教育の実践者へ、最後には未来の経済学構想へとシュタイナーは行動してゆく。何かを悟り語る人から、様々な人と対話し具体的なアクションをする人へ、試行錯誤の人へ、とシュタイナーが歩むなかで生まれたのが、女優で妻であるマリーとの共同作業である「オイリュトミー」の創案と実践だったのだろうか。それが何よりも関係のダンスである点は、とても魅力的だと思う。他者の言葉や音楽に関わる面白さや喜びを知ろうとする。それがオイリュトミーには含まれてあるのではないかと、僕はしばしば感じる。

言葉や音楽に関わることは、他者の魂に関わることでもあるし、それは絶えず心を動かし入れ替えてゆくことにも繋がると思う。

たとえばそんな色々な想像を膨らませながら、背を伸ばし胸から両手を広げると、なんだかワクワクして、いい感じの緊張感と躍動感が湧いてくる。人と、空間と、時と、関わりたくなる。
つまり、
踊りたく、なる。

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響きに身を、、、:オイリュトミー

2016-05-08 | ダンスノート(からだ、くらし)
響きはエモーションを引き起こす。
響きと響きが連なり作用しあって言葉となる。
言葉はエモーションの織物とも言える。

かぜ、ふう、いずれも風の読みだが、異なる響き方をする。
耳当たりも心象もスピード感も余韻も、やはり違う。
同じ自然現象を伝えるにしても、どんな響きで表現するかで、湧き上がるものが変わる。

私は、という語りかけでも、わたしは、わたくしは、オレは、ボクは、と、
ちょっとずつ違う。印象も関係も変わる。

英語ではI am、ドイツ語ではIch bin、、、。意味は同じでも、勢いも強さも随分と変わるのは、やはり「私は」という概念に託す何かが、お国柄によっても少しづつ違うからだろうか。

ダンスの練習やクラスのプロセスに僕は「オイリュトミー」というメソッドを取り入れて長い。
オイリュトミーは自分の内面を直接表出するのでなく外側から聴こえてくる様々な響きを味わい、その響きを全身の運動で表現するトレーニングである。

例えば音楽を織り成す音の一粒一粒を、あるいは音と音が作用しあって振動を広げてゆく様子を、例えば言葉を語る声の音節や抑揚や震えや、それらが結びつきながら生み出してゆく思考の広がりや感情の細やかな波や意志力の目覚めを、響きから感じとって自分のエモーションや身体の動きや熱量に反映してゆく。他者から訪れる響きに対して、どれほどの感動力があるか。それ次第でオイリュトミーは豊かな踊りにもなるし、単なる反応におとしめることにもなる。感受の踊り、そう言ってもいいかと思う。

そのような練習をしていると、音楽に溶け込んでいる様々な響きの戯れが身に染みてきたり、言葉ひとつひとつを織り成す音声の粒子にも心が宿っていることが、じわじわと感じられて、ちょっとした感動が起こる。

自分なりの理由があって、舞台で直接そのまま用いたことは数回しか無い。しかし普段は自分の練習でもクラスレッスンでも、ひとつのベースとも言えるくらい稽古を続けている。それは、先述したような音楽や言葉や、しいては自分を取り巻く環境に満ちる様々な響きへの新鮮な感情を呼び起こす力を、このオイリュトミーなるものが秘めているからかもしれないし、物事に慣れ日に日に鈍化する神経に刺激を与えデリカシーの曇りに気づくキッカケを絶えず与えてくれるからかもしれない。

初めて学び始めた時から30年以上経って、じわじわとオイリュトミーを学んだことへの感謝が湧いている。

響きに身を委ねる。
外なる人や天地から訪れるものに感覚をひらいてゆく。

それは、内なる思いが激しく身を揺する感覚と、両輪のはたらきをダンスにもたらすように思う。
人の内面と環境は、呼応し作用しあっているのではないか、とも、、、。

このオイリュトミーというものに、僕のダンスは随分と助けられていると思う。

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オイリュトミー8/26

2015-08-27 | レッスン・WSノート
水曜の夜、久しぶりに音楽オイリュトミーのレッスンをさせてもらった。

調律したてのピアノからパッと音の広がる感じが参加者の感覚を覚ましてゆくようだった。

音の高低を背骨の動きで追う練習。それを腕や脚や指先や爪先や眼に伝えてゆく練習。音階の型を学ぶ練習ではト長調を練習。ドレミファソ、というハ長調は閉じた両腕を広げてゆくが、ソラシドレ、のト長調は明るく開いた両腕からさらに明るさを求めてゆくから、胸板を開き背中を活用し、と、文章で書くと何やらわかりにくいが、ハ長調は孔雀が羽根を広げるようであり、ト長調は空飛ぶワシの羽ばたきのように動いてゆく、とも言えるかしら。

そんな、基礎練習に続いて曲を踊った。ト長調の曲の代表格とも言えるだろうか、バッハの無伴奏チェロ第一プレリュード。ンタタタララルラ、ンタタタルラルラ、と聞こえるあの特徴的なメロディーがロウソクの炎の揺らめきに見えて、そんな振付をしている。暗闇に燃えるひとすじの炎が微風にたなびくように、踊る。踊りながら、一音一音を丁寧に呼吸にのせる。

音を息ですくいあげ、そして声に響かせるのが歌うことだとすれば、すくいあげた音を身体全体に響かせるのがオイリュトミーという踊りだ。音楽も言葉も、ともに音、ともに響き。響きを聴きとり、それを目に見えるカタチや心に残る意味に変容せしめる力が私たちにはある。目に見えたカタチや心動かした現象を音楽や言葉という響きに還元する力が私たちにはある。そんな私たち人間の力を踊りに現す。これを人間再考という現代のテーマに重ねて、1912年、ルドルフ・シュタイナーと妻マリーはオイリュトミーを創案した。オイ、とは調和。リュトミー、とは律動。すなわち調和と律動の法則。ニジンスキーが春の祭典を踊り、自由自発をうたうモダンダンスが草創期を迎える頃、あえて新たな形式美を夢想したのは何故か。そんな興味も合わせて、僕は創作活動と平行して、このオイリュトミーなるものを愉しんでいる。

自由に創作したり即興に身を委ねるダンスに対して、オイリュトミーには定められた型がある。しかし、繰り返し繰り返し練習していると、それは制約やキマリということでなく、かえって心を柔らかくする働きを持ち始めるのが不思議だ。バレエにおけるパの働きも、クラシック音楽における音階の働きも、似ているかもしれない。型がきっちりと身にハマり身につけば、湧き上がる思いや熱をそこに込める喜びが生まれ、全身から空間に力を放つことができる。

僕が、かたや勝手気ままにダンスを踊りながら、かたや、この細やかな型に満ちたオイリュトミーを愛好して稽古するの天邪鬼を不思議がる人もいるが、何故か自分のなかでは全く矛盾しないばかりか、とても楽しく両立し作用しあっている。

時には雑音や無音をさえ音楽としつつ、時には楽譜や調律楽器を実に楽しく奏でる人が音楽家には沢山いるけれど、ダンスにも矢張りそのような二重三重の遊び方があるということだろうか。

型に入る楽しみ、型を破る楽しみ、いずれも楽しみ尽くせば調和とか宇宙とかいう言葉さえふと見えるのではないかと思う。

そう言えば、古代のギリシャでは世界をコスモスと呼んだそうだ。コスモスは宇宙とも訳されるが、あれは美しさという意味なのだと教えてくれた人がいた。世界とはコスモス。この認識を取り戻すための、踊りによるルネサンスがオイリュトミーなのかな、と、いま僕は思い始めている。

●参加方法・くわしい内容=クラスご案内




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響きと踊り(オイリュトミー:レッスンから)

2015-04-23 | レッスン・WSノート
子どものころ感動した音楽が心の中でいつまでも響き続けている。
心に響いた言葉は、いつしか人生を支える杖とさえなる。
響き、とは。
何かが響く、とは。
いまこの音は、どんな風に響いてくるのだろうか。
彼が発するこの言葉は、いかなる響き方で私の心に届いてくるのだろうか。

そんなことに思い馳せながら音や言葉に耳を澄まし、それらが震わせている空気や熱の変化にカラダの動きで溶けこんでゆく。
身を軽くし、関節を和らげ、空気と一緒に音や言葉に揺さぶられ震えながら、響きそのものに近づいてゆく。
そんなことができたら、私たちは、私たちの心と心の関係を、私たちと世界の関係を、さらに私たち自身を、もっと深く受け止めることが出来るのではなかろうか。という思いが、オイリュトミーという踊りには託されている。

この、オイリュトミーを学び、自分のダンスクラスに取り入れて教えるようになって長い。
週5コマあるレッスンの中で、毎週水曜日の夜7時と、土曜日の午後1時。二つのコマでオイリュトミーの練習を行う。

水曜日は作品練習を主としたオイリュトミークラス、土曜日はオイリュトミーの初級作品と現代ダンスの作品を交互に楽しむレギュラークラス。どちらか片方に来る人、両方に来る人、都合によって交互に来る人、様々な参加の仕方で練習を楽しんでいる。

土曜日クラスのオイリュトミーでは「リグ・ヴェーダ」というインドの古典の冒頭詩を踊っている。
基本の動きだけで構成したシンプルな振り付けを踊りながら、宇宙の始まりを格調高く歌う言葉に身を浸す。
踊りながら、まだ何も無い世界に現れた生命の始まりにイメージを巡らす。
このオイリュトミーと交互に練習している現代ダンスにもその体験は反映して、メンバーの動きはどこか静かで大きな呼吸をしているようでもある。
まだ開いて日が浅いクラスなので人数も少なく、じっくりと会話をしながら練習をすすめる余裕が、このクラスにはある。
踊る、ということが日々の生活にどんなふうに結びついているか、という話題がよく出る。そこから踊り独特の感覚の育て方や、美意識や、あるいは哲学的な話題になることもある。踊りながらでないと出て来ない会話もまた、ひとつの響きかもしれない。
むつかしい動きをマスターするよりも、踊りながら何に想いを馳せ、何を感じ取ってゆくか。
そのようなことが、はるかに大事な気がする。


水曜日のクラスは、言葉を踊るレッスンと音楽を踊るレッスンを週替わりで行なう。
4/22の回では、ピアニストに来てもらって音楽の響きと一体になって踊る練習を進めた。
いま取り上げている曲は、バッハの無伴奏チェロ組曲の第一番プレリュード、そのピアノ版である。
チェロの為に書かれた譜面は自然に歌える音の高さで耳にも体にも優しい。
それをピアノで弾くと、音の粒がくっきりと捉えやすくなる。
音の一つ一つに個性があるのが、わかる。
それを丹念に身体で感じ取って動きに落とし込んでゆくと、ふだんは聴覚の奥にまどろんでいた世界がカタチや熱を帯びて、思いがけない雰囲気が広がり始める。
1フレーズずつ、ゆっくり弾いてもらう。
そして聞こえてくる音の一粒一粒に丁寧に身振りに合わせてゆく。
なだらかな音の階段を、あるいは柔らかな音の跳躍を、カラダが受け止めてゆく。
カラダが歌う。
ゆっくり、そして徐々に本当の速さに。やがて一つのメロディに溶けこんだ身体の動きが生まれてくる。
その瞬間、音と心が響き始める。
そんな作業を繰り返しながら、やがて一曲を踊り終える日のレッスンは感動的だとクラスメンバーは言う。
僕もそう思う、心から。



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稽古場=杉並・荻窪駅からバス10分圏(善福寺公園教室、西荻ほびっと村教室ほか)くわしくは、お問い合わせ時にご案内。

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オイリュトミークラスのもよう、4/21(水)

2010-04-22 | レッスン・WSノート
4/21水はオイリュトミークラスでした。
この日は音楽オイリュトミーのレッスン。
取り組んでいるのはチャイコフスキーの「ワルツ変ホ長調」。
バレエ音楽「白鳥の湖」の原曲の一つとも伝えられる可愛い小舞曲です。
この曲の上半身の動き方を振り付けました。

変ホ長調特有の柔らかい響き、これを胸から腕全体のカーブと放射するように伸びる動きの組み合わせで表現。
華やかに動きながら、曲の起伏にインスパイアーされた導線に沿って駆け抜けて踊ります。

オイリュトミーは音楽や詩に忠実に身を任せ、作者の心を理解しようとする踊り。
振り付けは、すべて曲の音に沿って構成されるので、音楽オイリュトミーの練習は、全身を使って曲を演奏する感じ。
あるいはカラダで歌を唄うみたいかも。

ともかく繰り返し練習して、一曲一曲クリアするのみ。
稽古を重ね、踊ることによって音楽そのものを体現できたらステキですね。

まずは体を動かしてみる。
見よう見まねで、がむしゃらにまねてゆく。
あるいは、ひたすら憶えて繰り返す。
いずれにしても繰り返しを楽しむココロが大事です。

がんばって何曲かこなすと、オイリュトミーという踊りの大まかなイメージが実践的に掴めます。
練習を繰り返しつつ、何を理想とするのか、どんな型があるか、身体のつくり方、心がまえ、などなどもつかんでゆきます。
各自たのしい点や興味深い点を探しつつ、稽古の目標を持っていただけるとうれしいです。

来週も音楽オイリュトミー、今回渡した振り付けを丁寧に確認/解説しながら、からだの動きと音楽が響き合う体験を練習します。その次は言語オイリュトミーの練習を予定。言語オイリュトミーではコトバの発声をカラダの運動に置き換えて踊り、踊ることによってコトバなるものを再認識。シュタイナー教育では算数なんかもカラダを使って考えますが、さまざまな知を一旦カラダの体験に還してゆく=カラダから知や暮らしを再構築しようとするあたり、やはりシュタイナーらしいなと思います。
世界はいつも動きとしてあり、動きによってこそ生き生きと理解できる、ということなのかしら。

ともかく、楽しんで踊りましょう。興味のある方、初心者から参加出来るので、ぜひ加わって下さいね 。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(新規受講生を募集中、初心者よりok。土曜は単発でも受講できます。ご予約/会場確認のうえ、ご参加ください)

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カオスに背骨をたてる

2009-10-22 | ダンスノート(からだ、くらし)
「混沌に背骨をまつすぐたてることは、一つの天体たることである。」
このコトバに僕はアタマから水を浴びせられたようになる。目覚める。
吉田一穂の代表作『古代緑地』からの一節。

来る10/25のパフォーマンス(吉田一穂オマージュ)の作品リハーサル、そのあと、オイリュトミークラスのレッスン。

どちらもコトバから生まれる踊り、コトバを受けとめるカラダ、そんなことを追いかけてゆく。丸一日、詩人の言葉を眼で読み、耳で聴き、カラダに浴びてゆく。そんなことを繰り返しやってゆくと、このカラダに刻まれた生活体験の幅というものが見え透いてくる感じがある。どんな土を踏んできたのだろうか、どんな空を見てきたのだろうか、どんな人を抱きしめ、どんな人に抱きしめられてきたのだろうか、どんなコトバをつぶやいて、受け止めてきたのだろうか・・・。

次の日曜日に踊る吉田一穂の言葉は、向き合う者に問いかけてくる。あなたは何を生きて来たのかと。過去を問われてたじろがぬ肉体、そうありたい。未来を歌う言葉たちを受け止める肉体、そうなりたい。未来とは時間でなく、宇宙のことかもしれない。しかし一穂のつぶやくそれらは夢の宇宙ではなくて、現実の暮らしが織りなす出会いや喪失や猥雑や滑稽や恐怖や歓喜や失念などなど、生きる者のじたばたこそが重なり響き合う生活宇宙を歌っているように思えてならない。だからこそ踊りがいもあるのだが、かなりかなり、手強い。最初に引いた一節、これは挑戦的な言葉だ。舞踏手はもちろん、自分の人生を生きる者だれしも「背骨をまっすぐ立てる」ことにイノチを削る。僕もそんななかの一人だ。

リハーサルの直後、オイリュトミーという舞いのレッスンを行う。クラスでは、からだの力を抜き背骨を立て直す所作を何度も何度も稽古する。これを何よりも重視して、僕らは「ひかりのはしら」と呼んでいる。リズムや呼吸やフットワークを支える基本中の基本。しかし、一穂の言葉にあるように、背骨を感じ意識することは、生き様や存在の仕方を自らに問いかける精神面での深まりが強い。一つの場所で地を踏みながら、あるいは素早く空間を駆け抜けながら、あるいはゆるやかにステップアウトしながら、舞い手は何度も何度も脊柱を立て直し続けるのだ。レッスンをつけつつ、振り付けをしつつ、これだけは僕自身もしばしば一緒になってやる。ちょっと変かもしれないけれど、アクティブな立禅とも言える。世界はゆたかな混沌にみちていて、自らもまた混沌の一粒だ。カオスうずまくなかでミジンコのような私がピンピンと背骨を立てている様子を思えば、なんともいじらしい。

夜、作曲家の鈴木さんから、ソロ公演「風波」の楽想が届いた。楽器やサウンドシステムについて実験や試行錯誤を経て、音の無いダンスを見せてきた。鈴木さんとの共作は3回目。かなりカッコいい音になりそうだ。
_______________________________
information
10/25(日):ダンスイベント『一穂の空へ』

10/27(火):舞踏ワークショップ「カラダの夢、ココロの翼」

11/13(金)&14(土):櫻井郁也ダンス公演『風波overflow』




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たまには孔子??

2009-10-09 | アート・音楽・その他
「論語」に人気が集まっているという新聞記事を読んだ(10/7、毎日)。
こども論語塾、というものもあちこちにあるそうで、親子や三世代で通う方も多いそうだ。
おもしろいなと思いつつ、家にあった本を久々にめくる。

「損得ばかりで行動していると、うらまれることが多い」
「他人が自分を知ってくれないことを気にかけるより、
自分が他人を知らないことを気にかけるべし」
「古人が軽々しく語らなかったのは、実践が追いつかないことを恥じたからだ。」
「つつましくしていて失敗する人は、ほとんどいない」

なるほど、なるほど。なんだか耳の痛いようなコトバがたくさんだけれど、ちょっとばかり身に染みる。

古典は堅苦しいようで苦手と勝手に決め込んで入り込めなかったのだけれど、内容の問題じゃなくて、漢字びっしりのページに根負けしてしまうのだった。
しかし、親しみやすい現代語訳をながめると、人と人がいい関係になってゆくための知恵がびっしり。そうと思えば、たしかに今、人気が出ているというのもうなづける。いい訳文を探してみようかと思う。
また、好きな人からは、声を出して繰り返し読むと気持ちいいのだとも聴いた。その快感がやみつきになるんだそうだ。(僕が続けているオイリュトミーという踊りでも、やはり何度も何度も声に出してコトバを読んだり曲を歌ったりする。暗唱が進むと、自分の思いやら好みがとれて、すなおに他人のコトバや楽想に接してゆけるから。)
で、あそびでやってみると、「子、曰く~」と始まるリズミカルな文章が、呼吸といっしょに、音楽のビートみたいにストンとからだに入ってくる。そんな風に出来ているのだろう。まるごと飲み込んでいくようで、だんだんと興味もわいてくる感じ。もしかすると、眼で読むより、こっちのほうがいいかも。

ともかく、いいきっかけなので、ちょっと読み返してみようかと思っている

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オイリュトミークラス リニューアル/募集開始

2008-11-21 | レッスン・WSノート
カラダを通じて、宇宙を呼吸するための踊り。それが、オイリュトミーという踊りの処方を考えたルドルフ・シュタイナーという男の願いだったのではないか。そのあたりの解説を含め、オイリュトミークラスを再開しました。基礎中の基礎からの稽古リニューアルです。気持ちのこもった、働きかけのある動きのことを「エーテル」のある動き、と呼んでいます。エーテルとは、生命の熱であり、気の流れであり、活力の元であります。呼吸でいうと、僕らはただ空気を吸い吐くのではなくて、さまざまな生きとし生けるものの生命熱を交感しながら生きている=流動/循環のただなかに「在る」。その発現をロゴス(言の葉)と位置づけたのが、シュタイナーでした。言葉は人間の精神と熱が呼応するエコロジカルな働きかけだというわけです。そして、それを全身の律動によってシンクロ二シティしてゆこうというのが言葉のオイリュトミー。さらに、僕らは外界に満ちあふれる可能性を予感し受け止めて音を聴き奏でます。言語以前の、より透明な予感を全身で受け止める。語る、に対して、聴く、という行為。感受というものを磨こうというのが、音楽オイリュトミーです。言葉の熱を踊り、音楽の夢を踊る・・・。語る動き、と、聴く動き。この照らし合わせ往復をしながら、僕ら人間の人間らしさを高めてゆこうというのが「オイリュトミー」という、ダンスワークだと思います。オイとはEU、EUとは生き生きしたというイメージの欧州古語であり、リュトミーとは、リズムのドイツ語変化形です。稽古の軸は、生き生きしているかどうかです。うまい・へたではない。動的な有機サイクルのただなかにある喜びを、調和と呼ぼうじゃないか。それがシュタイナーのメッセージと僕は捉えています。ダンスの原風景。ですね。
秋冬のクラスでは、その世界観を詳しく解説しながら基礎的な身体運用を練習します。サブテキストはシュタイナー著/高橋巌訳の「自由の哲学」。シュタイナー若き頃の思想集成にして主要著作の筆頭格。ここに、芸術衝動をこそ基盤とした独特の世界観の種があり、オイリュトミー舞踊の精神的な根っこがあると思います。まったくの初心者より、新しい参加を待ってます。興味ある方はお問い合わせ下さい!
クラスの詳細



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瞬間の記憶

2007-10-19 | ダンスノート(からだ、くらし)
踊りのイメージは、どこからくるの?って、よく訊かれます。
人によってはアタマの想像だのコンセプトだのにもあるのでしょうし、いろんな憧れとかもあるんだと思いますが、僕にはどうもしっくりこない。まどろっこしいのです。
やはり決定的なのは「体験」なんだと、今日も稽古していて思いました。
それも、「瞬間の体験」。
気がついた時には行っていた行為の体験。たとえば、あっと驚いたり、感動のあまり身体が動いてたり。
花を見てガッと転んだとか、水に入ってたまらなく痒いとか、惚れた人を見てなぜか腹が減ったとか・・・。そんな、野蛮、理に合わないことが、瞬間カラダに入ってくる。考えたり、感じたりなんていうヒマもなく、ショックに近い感じで身体の体験が起こって、それが蓄積される。そのようなことが身体には山と積まれている感じがするのです。

それが稽古の中で、パソコンの検索のようにザクザクと抽出されては削除され、再び抽出され、あるいは組み合わされモンタージュされる。理に合わぬものに、身が(小宇宙が)触れ、振れ、震えて、なんだか新しいココロが生まれてくるような感じになってきます。(新しいココロが集まり、再び身を震わせて作品になる。)

むかし、映画を習ったせいでしょうか、稽古中の僕は、まるで編集機にかけられたフィルムになったようにも感じます。
踊りのイメージは、カラダに堆積・定着した、無数の瞬間の記憶から起こされてくるのかもしれません。
ダンサーの身体は、精密なカメラ同時にメディアのように訓練されてゆくのでしょう。

僕は、ルドルフ・シュタイナーという人がとても好きで、気がつくと目やカラダで読むクセがあるのですが(オイリュトミーというのが、踊ることで彼の考えを読むように出来ているのですが・・・)、その人が驚きや共感のパワーをとても大事にしているんです。それが僕らの力の源泉だ、とまで言っている。つまり、僕らは外部を受け入れる喜びを感じて、活き活きと成る。この考え方、とても好きです。

今、公演ひと月前ですから、新作メーキングのピーク。
自分で自分に振付け、ダメを出して練習させ、その傍らでまた新しいイメージを課してしまう。
カラダで驚いた、カラダで共感した。そのような、瞬間の記憶が、ダンスイメージのコンポジションにつながっています。
これは、手から流出して絵にもかけるし、鍵盤上で音楽にも成りうる、キーボードに向かえばこうやって奇妙なロゴスにも。
それをまた味わいながら肉を揺さぶって・・・。
なんとも、酔狂な作業だと思います。
ケガや不眠なども絶えないのですが、この創作のピークが、とても良い感じです。

11月ソロ公演


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