櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

オイリュトミー8/26

2015-08-27 | レッスン・WSノート
水曜の夜、久しぶりに音楽オイリュトミーのレッスンをさせてもらった。

調律したてのピアノからパッと音の広がる感じが参加者の感覚を覚ましてゆくようだった。

音の高低を背骨の動きで追う練習。それを腕や脚や指先や爪先や眼に伝えてゆく練習。音階の型を学ぶ練習ではト長調を練習。ドレミファソ、というハ長調は閉じた両腕を広げてゆくが、ソラシドレ、のト長調は明るく開いた両腕からさらに明るさを求めてゆくから、胸板を開き背中を活用し、と、文章で書くと何やらわかりにくいが、ハ長調は孔雀が羽根を広げるようであり、ト長調は空飛ぶワシの羽ばたきのように動いてゆく、とも言えるかしら。

そんな、基礎練習に続いて曲を踊った。ト長調の曲の代表格とも言えるだろうか、バッハの無伴奏チェロ第一プレリュード。ンタタタララルラ、ンタタタルラルラ、と聞こえるあの特徴的なメロディーがロウソクの炎の揺らめきに見えて、そんな振付をしている。暗闇に燃えるひとすじの炎が微風にたなびくように、踊る。踊りながら、一音一音を丁寧に呼吸にのせる。

音を息ですくいあげ、そして声に響かせるのが歌うことだとすれば、すくいあげた音を身体全体に響かせるのがオイリュトミーという踊りだ。音楽も言葉も、ともに音、ともに響き。響きを聴きとり、それを目に見えるカタチや心に残る意味に変容せしめる力が私たちにはある。目に見えたカタチや心動かした現象を音楽や言葉という響きに還元する力が私たちにはある。そんな私たち人間の力を踊りに現す。これを人間再考という現代のテーマに重ねて、1912年、ルドルフ・シュタイナーと妻マリーはオイリュトミーを創案した。オイ、とは調和。リュトミー、とは律動。すなわち調和と律動の法則。ニジンスキーが春の祭典を踊り、自由自発をうたうモダンダンスが草創期を迎える頃、あえて新たな形式美を夢想したのは何故か。そんな興味も合わせて、僕は創作活動と平行して、このオイリュトミーなるものを愉しんでいる。

自由に創作したり即興に身を委ねるダンスに対して、オイリュトミーには定められた型がある。しかし、繰り返し繰り返し練習していると、それは制約やキマリということでなく、かえって心を柔らかくする働きを持ち始めるのが不思議だ。バレエにおけるパの働きも、クラシック音楽における音階の働きも、似ているかもしれない。型がきっちりと身にハマり身につけば、湧き上がる思いや熱をそこに込める喜びが生まれ、全身から空間に力を放つことができる。

僕が、かたや勝手気ままにダンスを踊りながら、かたや、この細やかな型に満ちたオイリュトミーを愛好して稽古するの天邪鬼を不思議がる人もいるが、何故か自分のなかでは全く矛盾しないばかりか、とても楽しく両立し作用しあっている。

時には雑音や無音をさえ音楽としつつ、時には楽譜や調律楽器を実に楽しく奏でる人が音楽家には沢山いるけれど、ダンスにも矢張りそのような二重三重の遊び方があるということだろうか。

型に入る楽しみ、型を破る楽しみ、いずれも楽しみ尽くせば調和とか宇宙とかいう言葉さえふと見えるのではないかと思う。

そう言えば、古代のギリシャでは世界をコスモスと呼んだそうだ。コスモスは宇宙とも訳されるが、あれは美しさという意味なのだと教えてくれた人がいた。世界とはコスモス。この認識を取り戻すための、踊りによるルネサンスがオイリュトミーなのかな、と、いま僕は思い始めている。

●参加方法・くわしい内容=クラスご案内



この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 雑感 | トップ | 公演記事です »
最新の画像もっと見る

レッスン・WSノート」カテゴリの最新記事