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朝の散歩、お昼からの文博[映画 黒の試走車]&総合展示[祇園祭、恭仁京]

2024年06月19日 11時45分24秒 | 気ままにブログ

 

山行記録: 朝の散歩、お昼からの文博[映画 黒の試走車]&総合展示[祇園祭、恭仁京]

山行記録: 朝の散歩、お昼からの文博[映画 黒の試走車]&総合展示[祇園祭、恭仁京]

2024年06月19日(日帰り) 京都・北摂, ハイキング / fu-tyanの山行記録

ヤマレコ

 

 

山行記録: 朝の散歩、お昼からの文博[映画 黒の試走車]&総合展示[祇園祭、恭仁京]

2024年06月19日(日帰り) 京都・北摂, ハイキング / fu-tyanの山行記録

京都検定に関係するところをテキストより

009001★■■■■■歴史史跡
009011 ★■■■京都の歴史 
01000 ★1平安京以前の京都■ 
01210 ★2平安遷都■ 
 延暦十三年(七九四)十月、京の地に新しい都が遷された。
新都は「平安京」とされ、国名も「山背」から「山城」となった。桓武天皇による造都であり、そのわずか十年前には、奈良の平城京から長岡京に遷都されたばかりであった。
 桓武天皇は清新かつ専制的な志向を持つ天皇であったから、律令政治の改新のために、思い切って長い間政治の中心地であった大和を離れたのである。これによって巨大仏教勢カなど反桓武勢カを排除し、革新的政治を樹立しようとした。しかし、事はそう簡単に進まない。長岡京では遷都の翌年延暦四年九月に、桓武天皇の忠実な幕僚といってよい藤原種継が暗殺されるという大事件が起きている。
この陰謀をたくらんだとして旧勢カの代表とされる大伴氏一族のメンバーが捕えられ、これにつらなる天皇の皇太子早良親王をはじめとするその関係官人全体が粛清の対象となっている。廃太子された早良親王は無実を主張し、幽閉先の乙訓寺(↓116頁)で飲食をいっさい絶ち、その結果、ついに死去した。桓武天皇は早良親王の亡骸を淡路島に流すという死後処刑の挙に出ている。このすさまじい行動は、のちに「怨霊」問題に発展する。
 怨霊が崇りとなるという考え方は、すでに奈良時代にあったが、事実、長岡京では、天皇生母高野新笠、皇后藤原乙牟漏が次々と死去し、さらには、連年のように洪水・大雨・流行病があり、これが崇りの現象として噂されるようになったのである。桓武天皇は、体制を建て直すために、再び遷都の大事業に進まざるを得なくなっていた。
 長岡京から平安京への遷都事業は延暦十二年一月から始まっていた。初代造宮大夫である藤原小黒麻呂は、新京予定地域の葛野郡に視察に入っている。いわゆる「地相」を占するためである。地相とは「四神相応之地」を意味し、北に玄武、南に朱雀、東に青竜、西に白虎が配されている。四神には、地形上のシンボルがあり、北の玄武は大岩、南の朱雀は大池(湖)、東の青竜は大川、西の白虎は大道とされる。これは現在、北は船岡山、南は巨椋池(昭和十六年干拓)、東は鴨川、西は山陰道とされる。候補地は「吉」と出た。新都の建設が始まったのである。
 平安京は計画的に造られた都市である。藤原京の建設以来、すでに大都市を造る技術は蓄積されていた。平安京の規模はこれまでにない大規模なものであった。南北約五・ニキ口、東西約四・五キロに達する。モデルとされた中国の長安城と比べると三分の一に過ぎないが、平安宮(大内裏)が京域の北部にあり、長安城と同様北闕型都市といわれる。この北闕型の新京は、均斉のとれた二つの「京」、つまり「左京」と「右京」よりなる。この左右両京を画するのが南北に通貫する幅員約八十五メートルに達する朱雀大路(↓29頁)である。左右両京は、それぞれ「東京」「西京」とも称されるが、同時に中国風に東京を「洛陽城」、西京を「長安城」とも称していた。この両京は同時に大行政区となっており、それぞれには「京職」が設置され、長官が任命されていた。この大行政区は、京域内に張りめぐらされた大路・小路によって区切られたブロツクから形成されていた。これを条坊制と呼ぶ。
 条坊制のシステムは、原則的に一条を四坊に分け、さらに一坊を四保に分け、一保を四町に分けている。したがって、一条は六十四町からなる大ブロックとなり、一坊は十六町の中ブロツク、小プロックは一保(四町)であり、ブロックの最小単位は一町(約百二十メートル四方)である。
 平安京の民(京戸)は、こうして京域に居住していた。その人口およそ十数万人と推定される。
02600★■■■京都の史跡  
02610 ★1古代の史跡■ 
02730 ★平安宮大極殿跡 
(上京区千本丸太町)
 現在の千本丸太町交差点付近に造営された大極殿を中心に平安宮は形成された。
大極殿は平安宮の政庁である朝堂院の正殿で、殿内には高御座が据えられ、即位の大礼や国家的な儀式が行われた。その建物は、東大寺大仏殿、出雲大社本殿と並び称される壮大なものであった(『口遊』天禄元年 [九七〇])。内野児童公園内に、平安遷都千百年の時に建立された「大極殿遺阯」の石碑があるが、その後の発掘調査で、実際に大極殿が建っていたのは千本丸太町交差点の北側付近であることが確認され、歩道の縁石にその場所が示されている。付近には、朝堂院、豊楽院、二官八省(太政官・神祇官、中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・官内省)の官衙群などの存在した場所を示すプレートが設置されている。中でも、豊楽院の正殿である豊楽殿と清暑堂の基壇、内裏の内郭回廊等の一部は、現在「平安宮跡内裏跡・豊楽院跡」として国の史跡に指定されている。豊楽殿跡からは多くの瓦が出土した(重要文化財)。内裏跡は千本通から智恵光院通の間の出水通、下立売通付近に、数多くゆかりの地の石碑が立っている。
02930 ★平安京朱雀大路跡
平安京朱雀大路跡
(下京区中堂寺坊城町)
朱雀大路は、朱雀門から羅城門までの約四キロを、約八十五メートルという道幅で南北に通貫していた平安京の中心の大路である。ほぼ現在の千本通の位置にあたる。昭和五十年(一九七五)、平安京楊梅小路と朱雀大路の交差点付近を中心に、朱雀大路東側溝が延長百二十メートルにわたって検出され、初めて朱雀大路の正確な位置が確認された。それを記念した石碑が、中堂寺児童公園の南側、中堂寺通に面してある。
03100 ★2中世の史跡■ 
03500 ★3近世の史跡■ 
03610 ★聚楽第跡 
(上京区)
 聚楽第は、豊臣秀吉が京都における居館として内野(平安京大内裏跡)に造営した壮大な邸宅で、曲輪や堀を備えた城郭と呼ぶべき施設であった。それ故に「聚楽城」と称されることもある。
天正十四年(一五八六)に着工され、翌年秋に完成した。外郭には秀吉配下の大名屋敷が軒をつらねた。天正十六年には後陽成天皇の行幸があり、豊臣家の権勢を内外に示す邸宅であったが、その聚楽第が存在したのはわずか八年であった。秀吉は甥の豊臣秀次に関白職を譲った時に聚楽第も引き渡したが、文禄四年(一五九五)に秀次が失脚すると、聚楽第も破却されてしまったのである。その短さゆえに聚楽第は不明な点が多く、その姿を偲ぶものはほとんどない。松林寺(上京区分銅町)参道の地表の落差が南外濠の痕跡であるという。考古学的には、上京区和水町と両御霊町から多くの金箔瓦が出土し、それらは一括して重要文化財に指定されている。
 現在、大宮中立売交差点の北西角と、裏門通中立売交差点の南西角に「聚楽第趾」の石碑があり、一帯には聚楽第や大名屋敷に由来すると思われる町名がある。聚楽第の遺構と伝えられるものは多くあるが、代表的なものに大徳寺、(→123頁)の唐門(国宝)がある。
04900 ★4幕末維新の史跡■ 
05400 ★5近代の史跡■ 
05510 ★島津製作所創業記念資料館 
(中京区木屋町通二条南)
 島津製作所が昭和五十年(一九七五)、創業百年を記念して開設した資料館。
初代島津源蔵が京都府の殖産興業政策などに呼応し、国民への科学知識の普及と教育振與を図る目的から、明治八年(一八七五)、教育用理化学器械の製造を開始。これが島津製作所の始まりとなる。資料館の建つ木屋町通二条は島津創業の地であり、建物は創業当時の姿を今に伝えている。館内には理化学器械・医療用X線装置・標本・産業機器といった、創業以来の製品や関係文書、文献など約六百五十点を展示している。
05810 ★京都電気鉄道会社 
 明治二十七年(一八九四)二月に設立された電気鉄道会社。それより先の同二十四年五月、琵琶湖疏水の付帯工事として建設された蹴上発電所供給の電カを利用し、市街地に電車を通す計画が立てられた。その発案者は、のちに初代社長となる高木文平であり、彼は同二十一年、田邊朔郎らとともに渡米した際に電気鉄道を実見したことが発端であった。
 開通は、同二十八年に岡崎で開催される第四回内国勧業博覧会を目標に敷設工事が実施され、まず同二十八年二月一日(電気鉄道記念日となる)、東洞院塩小路・伏見下油掛町間の約六.七キロを狭軌道で仮開業、これがわが国最初の市街電車となった。
 一方、同年四月には博覧会場である岡崎と結ぶため、二条で鴨川に木橋を架設して開通、その後も順次路線は拡張され、木屋町通、西洞院通から堀州通、さらに北野天満宮へと延びていった。同四十五年には市営電車の開業により激しい競争を演じたが、大正七年(一九一八)、京都市が買収。唯一残された北野線はチンチン電車として市民に親しまれ、昭和三十六年(一九六一)まで営業を続けた。
現在、伏見区下油掛町と京都駅前(塩小路通東洞院西南角)に、「電気鉄道事業発祥の地」と刻まれた石碑が立っている。
05900★■■■■■神社寺院 
06000★■■■■■神社  
06007 ★北区■ 
06349 ★上京区■ 
06450 ★北野天満宮 
(上京区御前通今小路上ル馬喰町)
祭神
菅原道真、中将殿(道真長男)、吉祥女(道真夫入)
 菅原道真の怨霊を鎮める、皇城鎮護の社として建てられた。全国およそ一万二千社を数える天満宮・天神社の宗祀(総本社)で、その多くは当宮より勧請された。
天暦元年(九四七)に多治比文子に道真のお告げがあり、北野に道真を祀ったとされる。また、近江の比良宮の神良種の息子へのお告げによって現在地に社殿を造営したとも伝える。永延元年(九八七)に初めて北野祭を行い、一條(一条)天皇により「北野天満天神」の勅号を賜わった。古くから遺真は学問・文芸の神とされ、社前には文人墨客が集い、室町時代には連歌の中心地となった。有名な北野大茶湯は天正十五年(一五八七)に豊臣秀吉によって催され、慶長八年(一六〇三)には出雲の阿国(↓245頁)が社前で初めて歌舞伎を興行し、歌舞伎発祥の地ともいう。
 創祀は平安時代にさかのぼるが、現在の社殿は慶長十二年に豊臣秀頼が片桐且元を奉行に再興したもの。本殿、石の間、拝殿および楽の間(すべて国宝)は権現造(八ツ棟造)の代表例である。また、中門(重要文化財)は見所にあふれ、太陽、月、星の彫刻から別名「三光門」とも称される。さらに、「北野天神縁起絵巻・承久本」(国宝)は、菅原道真の生涯と、道真死後のさまざまな災いが道真の怨霊の仕業と信じられて、天神信仰が生まれるまでの様子が描かれたものであり、類本の多い天神縁起の中でも、ひときわ優れたものとして有名である。
↓二十二社62頁、国宝建築183頁、権現造(北野天溝宮本殿)186頁、上七軒247・350頁、節分察273頁、初天神285頁、梅花祭286頁、瑞饅祭294頁、お茶壷奉献察・北野天満宮献茶祭296頁、終い天神297頁、粟餅317頁、長五郎餅318頁、弘法さんが晴れやったら天神さんは雨や333頁
06502 北野天満宮の七不思議 
北野天満宮末社
伴氏社
祭神 伴氏
北野天満宮の境内末社。
石造五輪塔の忌命塔跡地を社として、菅原道真の母である伴氏を祀る。社前の鳥居は鎌倉時代に建てられ、京都三珍鳥居(↓厳島神社63頁、蚕の社78頁)の一つ
台石に蓮弁が彫られているのが珍しいとされる。
08600★■■■京都の寺院  
08602★■天台宗■  
09800★■真言宗■ 
10131 □索引⇒1西国三十三所観音霊場91 
12100★■臨済宗■  
14400 ★■曹洞宗■ 
14900★■浄土宗■ 
16100★■浄土真宗■ 
16700★■日蓮宗■ 
17400★■その他の宗派■  
18100★■■■■■建築庭園美術  
22700★■■■■■芸術文化 
23700★■■■伝統文化  
23710 ★1歌道■
京都の歌道は延喜五年(九〇五)、紀貫之らが醍醐天皇に奏上したわが国最初の勅撰和歌集『古今和歌集』に始まる。
「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれり」という仮名序の宣言は一貫した歌の心として現代にで綿々と流れ続けることになる。
貫之の同時代の歌人としては、六歌仙の遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰、小野小町、大友(大伴)黒主や紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑が有名。
以後の勅撰和歌集のうち、最初の八集を八代集(『古今和歌集」・『後撰和歌集』・『拾遺和歌集』・『後拾遺和歌集』・『金葉和歌集』・『詞花和歌集』・『千載和歌集』・『新古今和歌集』)という。この間、優れた女流歌人を次々に輩出した。小野小町と双壁といわれた伊勢、数々の名歌で知られる和泉式部、紫式部と交友のあった赤染衛門、鎌倉時代に入り、後白河天皇の皇女式子内親王がいる。
 平安時代を通じて、名歌に詠み込まれた名所が歌枕として定着するようになり、京都の代表的な歌枕としては「あだし野」「嵐山」「大堰川」「鳥部山「深草」「小倉山」がある。
 鎌倉時代の和歌は出家の西行藤原俊成の「幽玄体」に始まり、藤原定家の「有心体」に至って和歌史の一つの頂点を極めることになる。定家は晩年には古代以来の秀歌を集めた「小倉百人一首」の撰を手がけたという。定家の御子左家は孫の代に歌の家として二條(二条)家、京極家、冷泉家に分かれ、中世の歌壇の指導にあたった。
 近世の和歌は古今伝授を伝える細川幽斎や、豊臣秀吉室の甥木下長嚥子らから姶まり、京都に限れば、平安四天王の一人小沢蘆庵、桂園派の中心香川景樹、女流の大田垣蓮月の名が挙がる。明治以降は短歌中心となり、京都とのゆかりでいえば与謝鉄幹・晶子、山川登美子、吉井勇が印象的である。
23910 ★2茶道■ 
24100 ★3華道■ 
24200 ★4能■ 
24310 ★5狂言■ 
24600★■■■花街  
24620 ★1花街の歴史■ 
24625 ★上七軒 
上京区北野天満宮東門前
 上七軒は五花街中、最も古い歴史を持つ。室町時代の北野天満宮修造の際、 用材で七軒の茶屋を建てたのが始まり。 最古の茶屋。天正十五年(一五八七)、 豊臣秀吉の北野大茶湯の休憩所となり、茶屋株が許された由緒から寛永年間(一六二四〜四四)に官許された。毎年春に「北野をどり」が開催される。

 


24800 ★2花街の行事■ 
24820 ★都の賑い 
京都の五花街の芸舞妓による年一度の舞踊公演会。平成六年、平安建都千二百年を記念して、京都の伝統伎芸の理解を目的として「五花街合同伝統芸能特別公演」として開いたのが始まり。第四回公演から五花街合同公演「都の賑い」として、以来毎年六月下旬の土曜・日曜の二日間、華やかな舞台が披露される。

 


24910 ★▼五花街のをどり 
24954 ★▼五花街のをどり -北野をどり 
名称
北野をどり
期間
三月二十五日~四月七日
会場
上七軒歌舞練場(上京区今出川通七本松西入)
説明
上七軒歌舞会の主催による春の踊り。舞踊の流派は花柳流。 北野をどりは物語性の強い舞踊で有名。秋には「寿会」の公演が行われる。
25100 ★3花街のしきたり■ 

花街は、「お茶屋」と「屋形」 からなる。
「お茶屋遊び」と呼ばれるように芸舞妓による歌舞音曲でもてなすお座敷を提供するのがお茶|| お茶屋と屋形||
花街は、「お茶屋」と「屋形」 からなる。
「お茶屋遊び」と呼ばれるように芸舞妓による歌舞音曲でもてなすお座敷を提供するのがお茶屋である。
お茶屋の呼び名は京都だけで、花街が水茶屋から発祥したことによる。
「屋形」は、子方屋、置屋ともいい、芸舞妓を抱えてお茶屋や客からの要望でお座敷におくる。
花街ではさしずめ「お茶屋」が表舞台なら、「屋形」は、それを支える裏方である。

25300★■■■■■生活行事 ★
25400★■■■祭と行事  
27500 ★夏越祓 
夏越祓 六月三十日
六月下句には京都の多くの神社で「夏越祭」が執り行われる。この行事は「大祓」の行事のひとつであり、正月から半年の間に私たち人間の身体や心、さらには衣服や家屋などに溜まった罪やケガレを祓うことを目的として行われる。そもそも「大祓」とは、師走と六月の末に行われる除災を意図した年中行事で、師走の大祓を年越の祓、六月の大祓を夏越祓と呼ぶ。
 大祓は、八世紀初頭に編纂された大宝偉令によって宮中の正式な行事と定められた。六月晦日には宮中で貴族たちが「大祓祝詞」を読み、人々が犯した罪やケガレを祓ったといわれている。毎日、洗濯や入浴をするような習慣がなかった古代において、雑菌が繁殖しやすい夏を前に、衣服を新調して心身を清らかにすることで、疫病を予防するという現実的な意味もあったものと考えられる。このような大祓の行事がやがて庶民にも広まってゆき、近代以降には多くの神社で夏越祭として行われるようになった。
 夏越祓では、多くの神社で「茅の輪くぐり」が行われる。これは茅で作られた大きな輪の中を、左まわり、右まわり、左まわりと8の字に三回くぐってケガレを祓うものである。その際、夏越祓の歌「水無月の夏越の祓する人は干年の命延ぶといふなり」などと唱えながらくぐるところもある。また茅の輪を腰に付けていることで災厄から免れられるとする信仰もあり、夏越祓には茅の輪が付きものである。その背景には、茅には神秘的な呪カが宿るとする伝承があり、祇園祭の山鉾でも販売されている綜にも結び付いていったものと思われる。
 また、神社では紙で作った「人形」に名や年齢を書き、これで身体を撫でて自らのケガレを移し、祓う行事が行われる。これは禊ぎの行事が形式化したものと考えられる。
 この日、京都を中心に関西で、厄祓い、疫病除けに和菓子「水無月」(↓315頁)を食べる習慣がある。
28500 ★京都の主な祭と行事■ 
285011 ★1京都の主な祭と行事 -1月 
286021 ★2京都の主な祭と行事 -2月 
286031 ★3京都の主な祭と行事 -3月 
287041 ★4京都の主な祭と行事 -4月 
289051 ★5京都の主な祭と行事 -5月 
290061 ★6京都の主な祭と行事 -6月 
291071 ★7京都の主な祭と行事 -7月 
292081 ★8京都の主な祭と行事 -8月 
293091 ★9京都の主な祭と行事 -9月 
294100 ★10京都の主な祭と行事 -10月 
29410-101 瑞饋(ズイキ)祭 
十月一~五日
瑞饋祭
北野天満宮
五穀豊穣に感謝する秋の大祭。 屋根と四本柱にすべて瑞饋を使い、鬼瓦をかしら芋、 瓔珞を茄子や唐辛子、ほおずきなどで飾った瑞饋神輿が巡行する。"
295111 ★11京都の主な祭と行事 -11月 
296121 ★12京都の主な祭と行事 -12月 
29800★■■■京料理  
31200★■■■京菓子  
31210 ★1京菓子の歴史■ 
31400 ★2京菓子の種類と由来■ 
31402 ★[季節と行事の京菓子] 
31600 ★[季節を問わない京菓子] 
31700 ★[社寺・街道ゆかりの菓子] 
31810 ★長五郎餅 

【北野天満宮】
 天正十五年(一五八七)、豊臣秀吉に北野大茶湯で賞賛されたのをきっかけに、北野名物となった餅。初代の河内屋長五郎の名にちなみ名付けられた。こし餡を薄い餅皮で包んだ製法は、四百年以上前の創業時と変わらない。毎月二十五日の天神さんの日や北野天満宮(↓64頁)で行事のある時に、天満宮東門内の境内茶店(上京区馬喰町)で販売される。長五郎餅本舗の本店(上京区一条通七本松西入)では通年販売されている。"
32000★■■■京都のならわし 
32600★■■■ことばと伝説 
32610 ★1京ことば■ 
33201 ★2京都のことわざ■ 
33401 ★3京都の伝説■ 
33413 ★蜘蛛塚 
平安時代中期、熱病にうなされている源頼光の枕もとに、あやしげな法師が現われた。銘刀「膝丸」で法師を斬り付けると、パッと消えてしまった。畳の上に落ちた血痕を頼光四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)に辿らせると、北野の杜の大きな塚まで続いて消えている。渡辺綱が脇差で塚を掘り返すと、一メートル余りの蜘蛛が苦しそうにうごめいていた。串刺しにして賀茂の河原にさらすと、頼光の熱はたちまち治ってしまったという。それ以来この塚を蜘蛛塚というようになった。
↓上品蓮台寺98頁
34000★■■■京都の地名 
34012 ★1京の通り名・数え歌■ 
34200 ★2辻子と路地■ 
34310 ★3東山三十六峰■ 
34400 ★4難読地名とユニークな地名■ 
34800 ★5京の町並み■ 

35020 ★北野上七軒 

北野天満宮(↓64頁)本殿に近い東門の門前に形成された花街。北野天満宮境内は阿国の歌舞伎踊りが初めて興行されるなど、桃山時代から江戸時代初期にかけて芸能の一中心地であった。一帯は市によって上京北野界わい景観整備地区に指定されている。
35050 ★西陣 
応仁・文明の乱で山名宗全が率いた西軍の本陣跡地に広がった絹織物産地で、今出川大宮を中心におよそ半径一キロメートルの範囲を指す。最盛期には一日で千両に値する商いが行われたといわれ、江戸時代中期には今出川大宮のあたりを「千両ヶ辻」と呼ぶようになった。西陣の機業は織元を中心に工程ごとに細かく分かれる分業制をとってきた。奥に織機を数台おく形式の町家を織屋造と呼んだ。現在は地元での生産は少なくなっている。一帯は、市によって千両ヶ辻界わい景観整備地区に指定されている。
35200 ★6京都の散歩道■ 

 

 

 
 

 

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