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京都御苑のタシロラン

2024年06月29日 20時47分06秒 | 気ままにブログ

 

 

山行記録: 京都御苑のタシロラン

山行記録: 京都御苑のタシロラン

2024年06月29日(日帰り) 京都・北摂, ハイキング / fu-tyanの山行記録

ヤマレコ

 

京都御所

(上京区京都御苑)

現在、慣用的に「御所」といえば、鳥丸通、今出川通、寺町通、丸太町通の各通に囲まれた全域を指しているようだが、それは京都御苑を示す区域であり、その京都御苑の中に京都御所・大宮御所・仙洞御所一京都迎賓館などが存在する。

平安京が営まれた当初の大内裏は、現在の千本丸太町付近に位置しており、内野児童公園内に、大極殿跡を示す碑(↓27・28頁)が立っている。

しかし、天徳四年(九六〇)の炎上以来、大内裏は度重なる類焼のため、天皇は公家の邸宅を借りるという現状であった(これを「里内裏」と称した)。

鎌倉時代初期の嘉禄三年(安貞元年・一二二七)四月に類焼して以降、ついに再建されることはなかった。

大内裏周辺の官衙建物も同様に廃絶し、大内裏跡は荒廃して内野と呼ばれるようになった。

この内野の地は、豊臣秀吉の聚楽第(↓36頁)築造によって脚光を浴びるまで、『今昔物語集』にも妖怪奇談の舞台として取り上げられるほどの寂しい土地柄となっていったのである。

一方、先述した里内裏だが、元弘元年(元徳三年・一三三一)九月、持明院統(のちの北朝)の光厳天皇が、里内裏である土御門東洞院で即位し、さらに明徳三年(一三九二)、後亀山天皇が三種の神器を後小松天皇に渡して以降、南北両朝が統一され、ここに土御門東洞院内裏が、長く皇居として定着することになった。

これが現在の京都御所の前身となる。

当初の御所の規模は、現在より遥かに小規模で、方一町の敷地の一部に紫震殿・清涼殿兼用の建物があったという。

その後、応永八年(一四〇一)にこの内裏も焼け、翌年の再建時に敷地は南に拡張された。

その後も応仁・文明の乱で荒廃するなど、順調ではなかった。

再び、内裏が復興に向かうのは、戦国時代から近世に入ってからである。

その先駆けとなったのは、織田家であった。

天文十二年(一五四三)、織田信長の父信秀が後奈良天皇の要請に応じて内裏修理料四千貫を献上したことに始まり、以後、織田信長、豊臣秀吉の時代に各々改築が行われた。

その動きは徳川幕府の時代にも引き継がれ、元和六年(一六二○)の東福門院和子(徳川和子)の後水尾天皇への入内の前年にも、大規模な拡張工事が実施されている。

その後は、火災炎上と再建とを繰り返したが、天明八年(一七八八)の京都大火後、いちはやく幕府は老中松平定信に内裏造営を命じた。

この時の工事は寛政元年(一七八九)から翌二年にかけて行われたが、定信は、当時の著名な有職故実家裏松固禅(光世)が作成した『大内裏図考証』に基づき、古制にならって復元した。

この時の殿舎は安政元年(一八五四)に焼けるが、翌二年、幕府は先の寛政度にならって再興した。

現在の御所は、この時にほぼ整っている。その境域は東西約二百五十メートル、南北約四百五十メートルである。

明治二年(一八六九)、事実上の東京遷都が行われると、御所周辺の宮家や公家屋敷も取り壊され、苑地となった。

御苑と御所は宮内庁の所管であったが、御苑だけは昭和二十四年(一九四九)、東京の皇居外苑、新宿御苑とともに、国民公園として厚生省の所管に移され、さらに同四十六年環境庁の発足とともに同庁の所管となった(現環境省)。

現在御苑は、四季折々の樹木や花々で彩られ、カメラマンや親子連れが訪れ、またジョギングのコースなどとして、市民に親しまれている。

参観は通常、御所西方の宜秋門から御車寄、日華門、紫震殿、清涼殿、小御所、御池庭といったコースがとられる。殿内には人形や調度晶が展示されており、当時の宮廷生活の一端を見ることができる。

↓紫痕殿(宮殿・邸宅の建築)187頁、葵祭254頁、時代祭270頁、京都御所一般公開289・295頁、鬼門の猿324頁

 

下御霊神社

(中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町)

祭神 早良親王以下の八所御霊(相殿に霊元天皇)

貞観五年(八六三)に神泉苑で修せられた御霊会の祭神を、平安時代初期に下出雲路の地に祀ったのが最初とされる。

現在地に鎮座したのは、天正十八年(一五九〇)のことで、豊臣秀吉の京都改造による。

現在の本殿は、天明の大火による焼失後、寛政三年(一七九一)に仮皇居の内侍所(賢所)を下賜されたという由来を持つ建造物である。

 

革堂(行願寺)

(中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町)

本尊 干手観音

山号は霊ユウ山。

寺号は行願寺。

西国三十三所観音霊場第十九番札所(唯一の尼寺札所)。

洛陽三十三所観音霊場第四番札所。

開山の行円が山中で鹿を射止め、その腹の中に生きた小鹿を見て後悔した。

その皮を衣にして鹿を憐れみ、念仏を唱えたとされる。

寛弘元年(一〇〇四)に京に上り、賀茂の神木で千手観音像を造り、当寺に祀った。

行円は皮の衣を常に着たため「皮聖」と呼ばれ、革堂の名もこれに由来する。

当初は一条小川にあり、町堂は民衆の集会の場となった。

境内に寿老神を祀る堂があり、都七福神まいりの札所となっている。

↓都七福神74頁、酉国三十三所観音霊場91頁、洛陽三十三所観音霊場103頁、幽霊絵馬335頁

 

 

 

 

 

革堂の幽霊絵馬

革堂の近所の質屋におふみという子守娘がいた。

おふみは、いつも革堂に子供を連れて行っては遊んでいるうちに、御詠歌を覚え、子守唄のように歌っていた。

質屋の主人はそれを快く思っていなかった。

ある時かっとして、おふみをなぐると、おふみは死んでしまった。

行方不明になったと言われたおふみの父親は合点が行かず、革堂の観音様にすがると、おふみが現われ、殺されたと告げる。

そして鏡とともに弔ってくれと頼んだ。

父親は見たままの亡霊を絵馬に描かせ、鏡を添えて革堂に奉納したという。

 

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