ふーちゃんの京都デジカメウォーキング

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天平の都 恭仁京 ギャラリ-トーク

2024年06月28日 06時59分52秒 | 気ままにブログ

 

天平の都 恭仁京 ギャラリ−トーク - fu-tyanさんの日記

天平の都 恭仁京 ギャラリ−トーク - fu-tyanさんの日記

2024年06月28日: 展覧会担当者によるギャラリートークに参加♫若い方でしたがとても落ち着いて内容はわかりやすかったです。恭仁京は一度訪れたことがあります。h...

ヤマレコ

 

 

                               

 

★■■■■■歴史史跡                                                                           

                                                                                   

★■■■京都の歴史                                                                 

                                                                                   

                                                                                   

★1平安京以前の京都■   

テキスト本文

"1平安京以前の京都

京都盆地は、三方を山に囲まれる約三百平方キロの内陸盆地である。北は丹波高原につらなる北山があり南は大きな平野部が展開するが、東は比叡山・東山・醍醐山などがあり、西には西山山地が広がる。

 

この京都盆地を流れるのが、北域では鴨川・高野川・桂川である。南に目を転ずると、木津川・宇治川があり、この両域の河川は合流して淀川となる。淀川は、およそ九百もの大中小河川と合流しながら、大阪湾に至るのである。こうした京都盆地の原形が出現したのは約八十万年前のことだったとされる。

 

この京都盆地の地形が、京都の気候に大きな影響を与えている。よく京都の気候のことを、夏は酷暑、冬は酷寒といわれるが、京都地方気象台の統計によれば、一九八一年から二〇一〇年までの三十年間の平均値として、真夏日(最高気温三十度以上)が七十一.三日、冬日(最低気温零度未満)が二十二・九日に及び、その寒暖の差はまことに激しいのである。三十年間を通した年間平均気温は十五・九度というが、平均気温以上に寒暖の落差は大きく感じられる。これが生活文化を作り上げる上で、実に大きな影響を与えている。ついでにいえば、京都盆地の年間平均降水量は一四九一・三ミリに達するという。

 

この京都盆地に生活の営みを示す遺跡が発見されたのは実に古い。右京区梅ヶ畑菖蒲谷遺跡で数万年前の旧石器が発見されており、これに続く縄文時代の土器、石器は北白川一帯で多く発見されている。盆地の小河川を中心に先人の生活が営まれたのである。弥生時代に入ると盆地の開発は大きく進んでいる。桂川流域では多数の集落・水田の遺跡が発見されており、特に弥生時代中後期には現在の向日市・長岡京市あたりで大規模な集落が営まれている。

 

弥生時代の盆地開発は、集落を豊かにし、そこには強大な氏族を生み出していた。四世紀の初頭には、盆地東南部に巨大古墳(前方後円墳)が出現しているが、これは副葬品である鏡などから、ヤマト(大和)政権の支配が及んだと見られている。実際、京都盆地には「県」が認定されており、ヤマト政権の経済基盤が存在したと見られる。これが行政的な「やましろ」の誕生だった。「やましろ」は五~六世紀頃を、ほぼ「山代」という字をあてる。八世紀になると畿内制の成立とともに「山背」という字に変わる。

 

この京都盆地が大きく変化を見せるのは五世紀に入ってからであった。この盆地には、多くの移住者が進出したのである。この移住者たちは、列島内の人々だけでなく、多くの渡来人が含まれていた。北域では賀茂氏・出雲氏の列島内移住者、さらに渡来系の小野氏・秦氏・土師氏・八坂氏があり、南域には、やはり渡来系の高麗(狛)氏などである。

 

これら渡来系の移住者は朝鮮半島の人々が大半を占めていたが、中国大陸の人々もあった。彼らの多くは、先進的な技術を持った氏族であり、その優れた生産技術によって、盆地の土着の人々とともに「やましろ」の新しい開発を進めた。中でも巨大氏族集団であった秦氏は西部の桂川流域と東部の深草の鴨川流域に進出し、その開発にいそしんだ。ことに西部の桂川(葛野川)流域に移住した秦氏は、持前の土木技術を駆使して、葛野一帯を田園地帯に変え、さらに養蚕・機織技術を扶植することにより、豊かな産業地帯に変えたのである。

         

                                                                                                               

11-1-01-01

天平12年(740)、聖武天皇は平城京から山背国相楽郡の地(現在の京都府木津川市)に都を移した。大極殿跡が現在も残るこの都を何というか。

 

恭仁京(くにきょう)

                                         

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