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聖教新聞 (2019/ 2/ 5) 〈世界に魂を 心に翼を〉第12回 精神のシルクロード㊦

2019年06月06日 21時44分30秒 | コラム・ルポ

〈世界に魂を 心に翼を〉第12回 精神のシルクロード㊦

2019年2月5日 聖教新聞

第4回公演で来日したトルコ、中国、ソ連のアーティストらを、東京・信濃町の聖教新聞本社で歓迎(1985年8月16日)
 
 


時代をつくる人間交流の大道

 中国とソ連のアーティストが初対面のあいさつを交わす。険しい表情が浮かんでいた。無理もない。両国は“敵対関係”にあった。
 1985年夏。公式には決して同席しなかった中ソの音楽家が“世界初共演”に臨む。その舞台こそ、第4回を迎えた民音公演「シルクロード音楽の旅」であった。
 第1回の「歌編」(79年)、第2回の「楽器編」(81年)、第3回の「舞踊編」(83年)を総括する「総集編」である。公演のタイトルには「遙かなる平和の道」と冠されていた。
 第4回の出演国はトルコ、日本、中国(漢民族、ウイグル族、モンゴル族、キルギス族)、そして、当時はまだソ連だったウズベク共和国の4カ国である。不測の事態に備え、連日、受け入れ態勢が協議された。“プログラムの順番は?”“移動のバスは別々にすべきか”“宿舎は国ごとに階を分けるか……”
 緊張に包まれて迎えた“初顔合わせ”。関係者の不安は瞬く間に消えた。ソ連の音楽家が楽器を手にするやいなや、その旋律に乗って中国の出演者が即興で踊り始めたからだ。
 長い年月を共に旅してきたかのような、呼吸の合ったコラボレーション。出会って、まだ数分である。見守る関係者の胸が熱くなった。
 各国に通訳がついていたが、身ぶり手ぶりで直接“会話”が弾む。音楽を介し、心は瞬時に通った。国ごとに分かれていた宿舎の部屋割りも、いつしか中ソの音楽家が互いに行き来して話し込むほどに。
 日本各地を巡る29回のステージ。舞台脇の関係者が目を見張った。
 ソ連の民族舞踊に中国の出演者がさりげなく紛れ込んでいる。かと思えば、中国の演技に、さも当然のようにソ連の音楽家が加わっていた。
 第1回から舞台を演出してきた藤田敏雄氏。「ついに中ソの国境線が消えた。精神のシルクロードが誕生した」と肩を震わせた。
 ◇ ◆ ◇ 
 ミュージカル用語に「ショーストップ」という言葉がある。あまりに素晴らしい歌や演技等に対し、拍手や喝采がやまず、ショーの進行が一時的に中断することだ。
 日本の創作ミュージカルの草分け的存在である藤田氏は、この第4回公演を「ショーストップの連続だった」と追想する。
 来日した出演者は、いずれも日本でいう“国宝級”。加えて美術に妹尾河童氏、照明に沢田祐二氏、舞台監督に金一浩司氏、制作に山川泉氏。ステージには島倉二千六氏の背景が広がっていた。
 中でも公演終盤、全ての国の出演者が共に披露する“合同演奏”は、熱烈な喝采を浴びた。編曲は前田憲男氏である。それぞれの国に足を運んでも、なかなか目にできない希有な舞台。その粋が詰まった公演は、まさに民族音楽の夢の共演であった。
 そして何より、人種や国境といった壁をはるかに見下ろす人間の魂の結合が、聴衆の心を捉えて離さない。
 大歓声のフィナーレでは、各国の代表が互いに手を取り、高々と花束を掲げている。幕が下りるなり、出演者は肩を抱いて喜び合った。
 85年8月16日、全日程を終えた出演者らを、民音創立者の池田先生が聖教新聞本社に迎えている。
 歓迎に立った友が「さくらさくら」を歌うと、中国の歌手が飛び入りで唱和し、ソ連の音楽家が日本舞踊を即興で舞った。来日中に振り付けを覚えたという。
 池田先生は「芸術には相克も争いもない。芸術は平和の心を結ぶ道であることを、実証してくださった」と、心からの感謝を伝えている。
 先生は、後に振り返った。
 「文化の交流、民衆の交流、人間の交流――この新しきシルクロードの往来は、たとえ地味であり、小さな波のように見えたとしても、一波が万波となり、万波が平和の船を運んでいく。人々の心と心を結び、世界を大きく友好へとリードする。私どもの運動は、そうした時代の流れをつくり出している。このことを大きな誇りとしていっていただきたい」
 第4回公演から4年後の89年、ソ連のゴルバチョフ書記長(当時)が中国を訪問。中ソの劇的な政治的和解が実現した。
 ◇ ◆ ◇ 
 当初、第4回で終了する予定だった「シルクロード音楽の旅」は、大好評を博し、延長が決定。2009年まで全11回、20カ国300人以上の芸術家が参加している。
 インド、イラク、中国、日本、パキスタン、ルーマニア、トルコ、ウズベキスタン(旧ソ連)、タジキスタン(同)、モンゴル、アゼルバイジャン(同)、イラン、エジプト、カザフスタン(同)、ギリシャ、韓国、トルクメニスタン(同)、ネパール、キルギス(同)、シリア(初出演の順)。
 民族も文化もさまざま。ましてや、その大半が日本初公演の音楽家である。激動の時代とも相まって、どの公演も一筋縄ではいかなかった。
 平成元年(1989年)の第6回公演「遙かなる隊商の道」には、イランが初出演。イラン・イラク戦争の終結直後である。宗教上の慣習に従い、男女の共演は不可。合同演奏には参加せず、女性通訳は布で顔を覆った。
 ソ連の崩壊によって、連携が難航した国々もあった。アーティストが無事に成田空港に到着するのを、祈り待つ日々が続いた。
 出演者の安着の報をはじめ、公演の進捗を耳にするたび、池田先生は各人の健康や食事、睡眠にいたるまで気を配った。「はるばる来てくださっている。相手の文化を最大に尊重していきなさい」「どの国も大切に。小さな国ほど大事に」。家族のように心を砕いた。
 シルクロードシリーズを主催し続けた「民音の英断と心意気」に感謝したい――公演を長く支えた妹尾河童氏は、そう述懐する。「本来なら政府がやるべき事業を、一民間団体が主導している」と、氏自身も多忙を縫っての尽力を惜しまなかった。
 各公演は、専門家が各国に足を運び、技量を確かめつつ出演を依頼してきたが、来日公演によって自国で注目されることも少なくなかった。
 第4回から第10回まで司会と解説を務めた三隅治雄氏。伝統芸能研究の第一人者である。
 「出演者は、皆が一流の芸術家です。しかし、彼らが自国でふさわしい評価を得ているのかといえば、必ずしもそうではない。大きな拍手を受け、感動で涙する観客を目にし、自信と誇りに満ちて帰国する。そこに、どれほど大きな意義があるか。現に、日本での活躍を受け、各国で再評価が進みました。民音の舞台が各国の芸術家を勇気づけ、音楽文化の土壌を掘り起こしてきたのです」
 氏は“海のシルクロード”をテーマにした「マリンロード音楽の旅」(全8回)の企画も手掛け、来日する芸術家の変化を間近で見つめてきた。「互いを探り合うような表情だった芸術家が、ひとたび演奏することで即座に打ち解け合う。楽器も旋律も共通する部分は多いですから」
 「もちろん、それだけで国際紛争などが解決されるわけではありません。ですが、“潤滑油”にはなります。ここまで継続性のある交流の舞台は、世界にも例がないでしょう。オリンピックが4年に1度あるように、民音のシルクロードシリーズは2年に1度、新たな音楽文化の創造を世に発信してきました」
 ◇ ◆ ◇ 
 時代を画した第4回「シルクロード音楽の旅」について、池田先生は随筆につづっている。
 「実現までの道程は険しかった。『中ソ対立』が影を落としていたからだ。だが、そこに住むのは人間だ。どうして、わかり合えないはずがあろうか! 民音のスタッフは“文化は国家間の対立を乗り越えられる”と信じ、粘り強く交渉を続けていった。この民音がめざす文化交流への熱意が伝わった時、中ソ両国からOKのサインが出たのである」
 精神のシルクロードの起点となった、先生のモスクワ大学での記念講演「東西文化交流の新しい道」(75年)。そこには「人間」と「文化」への揺るがぬ信念が凝結していた。
 「本来、文化の骨髄は、最も普遍的な人間生命の躍動する息吹にほかなりません。それゆえ、人間歓喜の高鳴る調べが、あたかも人びとの胸中に張られた絃に波動し、共鳴音を奏でるように、文化は人間本来の営みとして、あらゆる隔たりを超えて、誰人の心をもとらえるのであります。この人間と人間との共鳴にこそ、文化交流の原点があると、私は考えるのであります」
 講演の翌日、先生はコスイギン首相と再会。その後も訪ソのたびに、チーホノフ首相、ルイシコフ首相、ゴルバチョフ大統領らと対話を重ねてきた。「池田博士の『精神のシルクロードの開拓』という理念は、大学レベルから、わが国の最高指導者のレベルにまで広がっていきました」(モスクワ大学のサドーヴニチィ総長)と識者は指摘する。
 今、110カ国・地域にまで発展した民音の芸術交流。池田先生は先の随筆で、その信頼の絆をたたえ、こうも記している。
 「この人類を結ぶ文化交流の大道を、私は『精神のシルクロード』と呼びたい。新たな歴史を開いているのだ。私たちは、いかなる批判も、迫害も恐れない」
 ここに、文化の地平を開きゆく友の信念があり、決意がある。


何回読んでも、胸が熱くなる…

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