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告別式で弔辞

2018-05-26 16:52:13 | 日記

郷ひろみ、西城秀樹さん告別式で弔辞「今まで、本当にありがとう―」

弔辞を読む郷ひろみ 弔辞を読む郷ひろみ

 16日に急性心不全のため亡くなった歌手の西城秀樹(さいじょう・ひでき、本名・木本龍雄=きもと・たつお、享年63)さんの葬儀・告別式が26日、東京・青山葬儀所で営まれ、1万人が参列した。

 西城さんとともに「新御三家」と呼ばれ、親しまれた歌手の野口五郎(62)、郷ひろみ(62)らが参列。野口と郷が弔辞を読み、最後の別れを告げた。

 郷ひろみの弔辞全文

 これが、僕から…、秀樹に贈る最初で最後の手紙になります。

 弔辞。秀樹、五郎、そして、僕。新御三家と呼ばれて、気が付いたら45年以上の月日が流れていました。秀樹、五郎、僕より先にデビューしていて、何も分からず芸能界に飛び込んだ僕は、2人の背中を見て歩んでいくことがやっとでした。

 あの頃、毎日のように、音楽番組があって、2人が当たり前のようにそばにいて、でも、僕の中では、2人のことをライバルと思ったことは1度もなく。同じ世代を駆け抜けていく、同志という思いでした。

 1975年。日本レコード大賞で秀樹、五郎の2人が金賞を受賞し、残念ながら、僕一人だけ名前を呼ばれることはありませんでした。でも、その時の思いが一心のバネになって、翌年、日本レコード大賞大衆賞、「あなたがいたから僕がいた」で受賞することができました。

 人は、頑張れば、努力すれば、必ずかなうんだ―。それを教えてくれたのは、2人の存在です。ある時、秀樹は40度近い高熱が出たにもかかわらず、ステージを務め、最後は倒れるように歌を歌い上げた。本当にファンの人のことをまず考えて、自分の人生をダイナミックに生きる人と痛感しました。

 今から2年前、2016年。ある雑誌の対談で秀樹、五郎、僕。新御三家が顔を合わせました。秀樹は大病を患ったにもかかわらず、そこに駆け付け、1つ1つの言葉を大切に伝えてくれる。僕はとても心を打たれました。残念ながら、それが、秀樹を見た…、最後になってしまいました。

 あの時、対談の中で「ここまで歌を続けてきたんだから、感謝の気持ちを持って歌い続けていこう」。そう締めくくったにもかかわらず、秀樹は天国に行ってしまいました。本当に残念です。日本中の人々から愛された秀樹の歌、そして、笑顔―。これは、これからも人々の心の中に、しっかりと刻まれていくことでしょう。

 僕は秀樹のことを「兄貴」という風に思っていました。まず最初にデビューした五郎が長男で、秀樹が次男、僕が三男。その思いは、今でも変わっていません。これからも、秀樹の背中を見て、心の中でそう思って、ずっと歌を歌い続けていきたいと思っています。

 今まで、本当にありがとう―。そして、安らかに眠って下さい。

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ドロボー!

2018-05-26 09:25:02 | 日記

ドロボー!ウサギ狩り成功のキツネ 直後にワシにさらわれる!

キツネ
せっかくとらえた野ウサギごとオオワシに連れ去られそうになるキツネ。結末は?

 カナダとの国境に近い米北西部で今月21日、キツネとオオワシの8秒間に及ぶ空中戦が繰り広げられた。

 

 迫力ある撮影に成功したのは、米ワシントン州沖に浮かぶサン・ホアン諸島でさまざまな野生生物の姿を追いかけている写真家ザッカリー・ハルティエ(Zachary Hartje)さんと、友人のケヴィン・エビ(Kevin Ebi)さん。

 

 この日、サン・ホアン島国立歴史公園で撮影していた二人の前で、一匹のキツネが野ウサギを狩るのに成功した。ケヴィンさんによると、サン・ホアン島のキツネはもともと野生種ではなく、増えすぎた野ウサギの数を減らすために1900年代に入植者によって持ち込まれたもの。だが、その野ウサギ自体もヨーロッパ人が連れてきたというから、人間は勝手なものだ。

 

 キツネが通常エサとするのは、昆虫や野ネズミ、野生のベリー類で、野ウサギを狩ることは珍しいという。だがこの季節は、ウサギがベリー類を食い荒らすため、仕方なく獲物にしてはちょっと大きめのウサギを狙うこともあるという。

 

 夕暮れ時で牧草地がオレンジ色に染まるなか、夕食にありついて巣穴に帰るキツネを撮影していたところ、事件は起こった。後方から接近したオオワシが、キツネの口元のウサギをその鋭い爪で奪い取ろうとしたのだ!

 

「ドロボー!」…人間の言葉が話せたらきっとこう叫んでいただろう。だが、キツネは声をあげずに、しっかりとウサギをくわえ込み、そのままオオワシに連れ去られそうになったが、さすがにキツネ1匹分の体重は重い。

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アニサキス

2018-05-26 09:08:20 | 日記

いまが旬の初ガツオ アニサキス「よく見て」予防

 
 今が旬の初ガツオに異変だ。寄生虫が原因の食中毒が相次ぎ、売れ行きが大幅に落ち込んでいる。たたきなど生で食べる際にどう注意するべきなのかを取材した。

 古来より愛されてきた旬の味。脂ののったプリプリのカツオはこの時期から店頭に並ぶ。ところが、今年はちょっとした異変が起きていた。食中毒の被害。アニサキスとは寄生虫の一種でその幼虫はサバやカツオなど多くの魚介類に寄生する。今年は春先からアニサキスによる食中毒が各地で起きていて、厚生労働省などが注意を呼び掛けているのだ。
 魚屋シュン・本橋清彦副店長:「アニサキスの話が始まる前は、結構どんどん買ってもらって、本当に主力で売っていたんですけど、最近は半分くらいですかね。売れ行きも半分だし、それにともなって仕入れも半分」
 こちらの鮮魚店では食中毒の危険からか大幅に販売数を減らしていた。おいしいカツオは食べられないのか。決してそんなことはないという。高知県のアンテナショップでは新鮮なカツオを入荷。わら焼きにして肉厚なカツオを出している。カツオをさばく時に注意すること。それはまず、内臓を速やかに取り除くことだという。そのうえで…。
 おきゃくTOSA DINING・山下裕司料理長:「内臓だけではなくて、身の中にも入っているんですよ…。だけど、(アニサキスは)よく見たら分かるんですよ。だから、よく見ることですね」
 実は、アニサキスは肉眼でも見えることが多いのだ。もちろん、加熱や冷凍でも予防は可能だ。国立感染症研究所によると、加熱する場合は60度で1分以上。冷凍する場合はマイナス20度で24時間以上行うと死滅するといわれている。
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震度5強

2018-05-26 09:04:37 | 地震

長野・栄村で震度5強を観測 落石や住宅被害も

 
 25日、長野県北部を震源とする最大震度5強の地震があり、長野県栄村で震度5強を観測しました。

 午後9時13分ごろ、長野県北部を震源とする地震がありました。震源の深さは6キロ、地震の規模を示すマグニチュードは5.2と推定されています。この地震で、栄村で震度5強、新潟県上越市などで震度4を観測しています。また、住宅の壁にひびが入るなどの被害が出ています。けが人は確認されていません。気象庁は会見で、揺れの強かった地域では落石や崖崩れなどの危険性が高まっていて、今後1週間ほど、震度5強程度の地震に注意するよう呼び掛けています。
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首相経験者2人目

2018-05-26 07:59:04 | 日記

中曽根氏:27日100歳 首相経験者2人目、なお存在感

 中曽根康弘元首相が27日に100歳の誕生日を迎える。「自主憲法制定」を訴えて政治活動を続け、1982年から約5年の首相在任中には「戦後政治の総決算」を掲げた。首相として国鉄民営化や活発な首脳外交を展開。在任期間は戦後5位の1806日に達した。2003年の政界引退後も憲法改正に向けた活動を続けている。

 「100歳となる政治人生において一貫して憲法改正を訴えてきた者の一人として、一日も早い実現を望む」

 中曽根氏は今月1日、自ら会長を務める超党派議連「新憲法制定議員同盟」の集会にメッセージを寄せた。例年出席してきたが、今年は手首の骨折もあって欠席したという。

 歴代首相で100歳を迎えたのは東久邇稔彦元首相(102歳で死去)に次いで2人目。孫の中曽根康隆衆院議員は、祖父の近況について「元気に週に2、3日はネクタイを締めて外出している。知識欲、勉強欲はまだまだ旺盛だ」と説明。「議員の大先輩として学びたいこともたくさんある。人生100年時代のモデルとして、健康で長生きしてもらいたい」と語った。

 旧中曽根派の流れをくむ自民党の派閥「志帥会」を率いる二階俊博幹事長は25日、記者団に「大変な実績をお持ちだ。(改憲を目指す)お気持ちに沿うよう努力していきたい。一日でも長く日本の政治を見つめていただきたい」と語った。

昨年10月に東京都内で行われた「第29回高松宮殿下記念世界文化賞」の記者会見に、同賞国際顧問として臨む中曽根康弘・元首相=東京都港区で2017年10月17日、丸山博撮影

中曽根氏は旧内務省を経て47年の衆院選で初当選。小派閥の中曽根派を率い、幹事長、防衛庁長官、通産相などを歴任した。

 首相就任後は「大統領型首相」を目指し、トップダウン型の首相官邸の基礎を築いた。85年には首相として戦後初の靖国神社公式参拝。86年の衆参同日選大勝で、異例の総裁任期延長を勝ち取った。

 外交では米国のレーガン大統領(当時)と「ロン・ヤス」関係を築き、中国・韓国の首脳とも信頼関係を培った。秘書を務めた柳本卓治参院議員は「他国の犠牲の上に日本の幸せを築いてはならない。これが中曽根政治の基本だ」と解説している。

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