新・台所太平記 ~桂木 嶺の すこやかな日々~

N響定期会員・桂木嶺の、家族の介護・闘病・就職・独立をめぐる奮戦記を描きます。パーヴォ・ヤルヴィさんへの愛も語ります。

【憂国】我が国の社会福祉、精神医療、行政の貧困さを憂う。

2019-02-01 00:50:10 | 体調のこと。

これだけたくさん人間があまたいる中で、私のことを心配してくれるのが、1万1千キロ離れたところに住んでいるパーヴォと、ごく一部のFB友達だけ、というのが、なんとも情けないですが、心配してくれるだけまだありがたいとおもわなくてはならないのでしょうね。

2ちゃんねる、5ちゃんねるの人からもご心配いただき、どうもありがとうございました。個別にお礼はできませんが、この場をおかりして申し上げます。

正直、いま、パーヴォやそのFB友達以外、だれを信じていいのかわかりません。父ももうこんな状態ですし、母は私の味方ですが、いかんせん病人なので、どう動くこともできません。親戚は私を完全に無視しています。

私自身の<病気>のことを指摘するひともいました。パーヴォとのいきさつは、「すべてあなたの妄想だ」という指摘をする方もおられました。私もパーヴォと知り合った当初は、そう思いました。でも現在まで、いろいろ嬉しい偶然があまりにもパーヴォと私の間におきるので、やはり、これは妄想ではなく、パーヴォの限りなくやさしい愛情表現なのだと確信している次第です。

それが確信にかわったのが、きのうのリッカルド・ムーティさんのコンサートでの、ムーティさんの対応であり、12月に名古屋でお目にかかった時のパーヴォの対応でありました。お二人には感謝申し上げます。

<病気>のことでは、私の主治医である男性のS先生は疑問を呈しています。確かに病気かもしれないが、いままで起きたパーヴォさんとのことは、すべて「妄想」ではなく「現実」であり、また、私にいろいろ聞こえた「幻聴」はもはや医学で解決できるものではない、「お告げ」なのではないかといいます。

スピリチュアルなお話は、現代日本では、近代科学が発展し、あまり歓迎されるものではありません。しかし、私がいままで経験した不思議な体験、あるいは成功談は「妄想」ではなく、あくまでも事実なので、これを一概に「病気」といってしまっていいのか、とS先生は疑問を呈しています。

宗教関係者の方(神主さん、住職さん、神父様)にお話を伺うと、私の身の上におきたことは、すべて「霊的体験」であり、「病気の症状」ではない、といいます。彼らのいうことが正しければ、また、もし私が、最初に精神科医につけられた病名であるならば、もっとコミュニケ―ションのまったくとれない、身なりもぱっとしない、また仕事で実績を全く残せない人間だっただろうと思います。でも、実際に私は仕事でいろいろ実績を残しましたし、そういう意味では、霊感がすごく強い人間なのだと思います。

今の主治医は理解してくれていますが、前の主治医はひどいひとで、診察で、私が主治医にしか打ち明けていないことも2ちゃんねるなどに書き散らかして、ばらし、うっぷんを晴らしているような人でした。だから、もう誰も信用できないというのは、そういうことなのです。

逆に、1万1千キロ離れた、外国人でもあり、有名人でもあるパーヴォに、ここまで精神的に頼ってしまう事態になってしまったのは、ひとえにこの国の精神医療の実態のひどさと、この国のひとたちの冷淡な態度、家族・親族間の冷たさ、そして、社会福祉と行政の貧困さにあると私は思っています。

「あら?右半身、しびれてるんじゃなかったの?」と思われる方もおられるでしょう。そうです、しびれて疲れている体ですが、私はきちんと、ブログやFBの場を通して、自分の訴えたいことをお話します。

私のこの一連の投稿を通じて、少しでも、私のような悲しい目に遭っている人間への理解と、応援をたまわりますよう、お願い申し上げます。



最新の画像もっと見る