上田力 「クロス・トーク」

作・編曲家、ピアニスト:上田力とスタッフが徒然なるまま語ります。

最高のホメ言葉

2008-08-30 | diary

「ホメ言葉」や「ホメ方」にもいろいろあり、その相手や対象によって、それぞれの使いわけを考えないと、゛ホメる側゛と゛ホメられる側゛とのキモチの交流や人間関係などに、思わぬシコリを残してしまうかもしれないし、逆に親密度が深まる場合もある。

この春ごろから、治りの悪い足のキズが気になって、生まれて初めて「ヒフ科」への通院を続けているんだが、そこの先生というのが、秋田出身の女医さんで、スッピンのまま、さっさと治療を進めてしまうタイプだから、それまでは゛無駄ぐち゛を交わす機会など、ほとんど無かった。 ところが、ごく最近の通院日、診察室に入ったとたん、いままで全く見せなかったような明るい笑顔で ゛上田さんて、とてもエラい方だったんですネ゛と、予期せぬ第一声!続いて足のガーゼを取り替えながら ゛ボサノバはセルジオ・メンデスなら聴いたことあるワ゛とも…それならと、早速「Jobim My Love」の2作とも差し上げ、反応を期待した。

だが既にこのとき『おいしい水』や『イパネマの娘』など聴き馴染みだったらしいのに、次の診察日の彼女は、ジョビンがどうとかボサノバがなんだとか、ゴチャゴチャしたことには一切触れず、 ゛あれは大人の音楽ネ゛と何とも明快なひとこと…これは、もちろん、これまで「Jobim My Love」2作品に差し向けられた中でも、思いがけない ゛最高のホメ言葉゛として受けとめている!!

的外れ審査

2008-08-26 | diary

北京オリンピック開幕直後の柔道で、ヤワラちゃんが金メダルを獲れなかったことに関して、某紙のコラムで作詞家のK氏が ゛いくら技(ワザ)の切れがあっても、組み手をちゃんと組もうとしない外国柔道相手では女三四郎もなすすべがなかった…゛と、的を射た論評をしており、さらに続けて ゛ちゃんと組んでから試合を始めるといったルールにでも変えて柔道本来の<技と技のたたかいの美しさ>に戻すべきだ ゛と、胸のすくような指摘をしている。

これを読んで反射的に、本来、技巧よりも<技と技の競い合い>が生み出す美しさで評価すべきピアノ・コンクールが、単なる<ウデくらべ>の判定に成り下がっている場合が多いことを連想してしまった。

この場合、なんらかの「個人的、組織的情実」が絡むことも皆無とはいえないが、それ以上に問題なのは、そんな評価をしてしまう審査員先生方の基本的美意識レベルだ。

<技>と<技巧>の区別もつけられない<的外れ審査>が、折角まともにトレーニングを重ねているピアニストにとって最も重要な<美意識譲成>への、バカげたブレーキになっている…ならば、どうすれば良いのかについて、いささか手前味噌になるのだが、いま続けているプライベート・レッスンの方向は決して<的はずれ>ではないことを、北京オリンピックが<遠まわし>に示唆してくれたのではないかと思えるのだが…。

思い出深い「西ノ洞」

2008-08-15 | diary

館林の駅から歩いて10分ほどの所にあるロートルメゾン「西の洞」は、全体が木造りの風合いや雰囲気が気に入って、93年から95年にかけては、何回もライブやセミナーをやった事があり、94年12月8日の午前中はジョビンのテーマでセミナーを開いていた。

だが、同じ日の同じ頃、ニューヨークのマウント・サイナイ病院では、なんと、ジョビンの多彩な67年が終わっていた。その訃報を翌日の夕刊で目にした瞬間から、その事を事実として受けとるより前に、“どうして、どうしてなんだい?”という、仲間意識の様な不思議な親近感にうづかれ始めたのだ。

86年の夏、東京で一度だけジョビンと語り合った時でさえ感じなかった、この不思議な親近感と偶然にしては符合し過ぎる因縁の深さに、じわ~っと背中を押され、とうとう“やるなら、これしかない!”という心境で、97年6月の夏至の夜からスタートさせた「Jobim My Love」はすでに11年を超えるという、自分でも予測できなかった息の長さで続いており、その46週目を、思い出深い「西の洞」で9月28日にやれることになったのは、まさに感慨無量の歓び!!

今回は、地元「リキ軍団北関東支部」レディ・スタッフのサポートや、そのリーダーでママさんピアニスト、小山洋子のキーボード友情参加などもあり、バラエティたっぷりにNANDA NOVAならではの“ナマの醍醐味”を堪能して頂けるはずだ…。

「クリエイティブなチャンス」の証明

2008-08-10 | diary

去る7月25日、47才の若さで他界した、コンピューター科学の世界的権威、そして米国カーネギーメロン大学のランディ・バウシュ教授は、「子供の頃からの夢を本当に実現させるために」というテーマの講義の中で、<壁>にぶつかった時の心得を“それは夢を阻まれたのではなく、<壁>の向こうにある「何か」を、自分がどれほど真剣に望んでいるかを証明するチャンスを与えられているのだ、と思う必要がある…と説いている(7月28日付東京新聞のコラム『筆洗』より)。

なんとも感動的な言葉に、思わず目を見張ってしまったが、ここで指摘されている<壁の向こう>という意味を、ちょっとニュアンスは違うけれど自分流に比較してみた。

だとえば、いまピアノを弾いている音世界の、その向こうに、もっと別な音世界をシンクロナイズ出来てしまうという現象が、ときどき発生する…そんな時は、自分で勝手に思いこんでいる<表現の壁>が、ウソのように消え去り、創造力が倍々増もしたように両手が動いてくれるのだ。

これはやはり、<壁の向こう>の、さらなる「大きさ」や「広がり」を同時にイメージできてしまうという意外な状態そのものが、思い上がりではなく、自分の創造力や表現の<壁>など取り払ってくれる「クリエイティブなチャンス」であることを証明しているのではないか、と自分では思えるのだが…。

自分だけの世界

2008-08-03 | diary

観るとはなしに、でも結局、ほとんど毎回観てしまう「篤姫」、NHK大河ドラマとしては久々の好評らしいが、ボクが気に入っているのは音楽の方だ。

タイトル・バックのテーマはピンとこないが、逆にストーリーの中で、あまり出すぎることなく情景に応じたプラス効果を発揮しているからだ。

ところが、この作曲者はメロディを作るだけで、あとはアレンジャーまかせにしているらしく、どのメロディが、どの場面で、どんなオーケストレーションされているのか“わからない”のだそうだ。

作曲者自身が納得しているのなら、それで良いともいえるが、だとすれば、その効果の、かなりの部分はアレンジャーのウデにかかってくる…つまり、作曲者の世界より、アレンジャーの世界の色が濃くなってしまうのではないか?

だが、いまだにフィルム・カメラを愛用し続け、現像液の調合まで自分でやる…という「音楽写真」の第一人者、木之下 晃さんが、“自分だけの世界を作りたければ、すべてを自分で作らなければ…”という明快な主張を、72歳の今でも崩していない…。

比較はできないかもしれないが、“自分だけの世界”を作り出すことへの「こだわり」が、どれほどのものだったのか、それとも最初から、そんなものは“要らなかった”のかどうか…?

上田力のクロストーク 8月2日